ミキノクチ調査事始め
名誉会長  佐々木 福弥
 会長佐々木 福弥は、卒寿過ぎの高齢になりました。
この度、製作等からも引退して、名誉会長となりました。 会発足時より、長年、ご苦労様でした。
更なる長寿を祈ります

 平成に入って間もない頃、勤めていた建設会社の先輩の大工から、「昔は暮になると、こういうものを作って、施主さんの神棚に上げてもらったもんだ」と、木の細工物を見せられた。既に退職し、亡くなっていた、宮大工川本陽作氏作の、2分5厘の板に、厚みの半分の深さの引き目を9本入れてから、削った薄い経木17枚を組んだものであった(清水のミキノクチ5−19相当)。 年月を経て褐色に変色し、経木の張りが無くなって垂れてしまい、形は崩れていたが、原形は、扇のようだった。これがいわゆる「みきのくち(神酒口)」で、当時は皆、名称も知らなかった。私の働いていた会社は、社寺建築を主とする会社(宮大工)なので、良質の木曽ヒノキやヒバの切れ端は幾らでも転がっている。元来小細工の好きな私は、早速試作してみると、中々の出来栄え。しかし、名前が分からないのでは、他人に上げるにも困るので、現物を持って、地元静岡県の神社、神仏具店、知り合いの大工などを尋ねて回ったが駄目だった。次郎長生家に、近所のおじさん達3、4人が居たので見せると、「昔見たことがあるが、何と言ったかなあ」。やっぱり駄目。はっきりした名称も分からないまま、仕事の休みの日に作っていると、隣家の小林さんが覗きに来て、「それは何だね。馬鹿に細かいもんだなあ」と、感心したような様子。今までの経緯をかいつまんで話したが、この小林さんが、「おーい、あったぞ!」と、みきのくちの写真が載った本を手に、飛び込んで来たのは間もなくの事。これを機に、1998年、小林さん、大工で陽作氏の甥の川本淳一郎さん、東京学芸大OBの桜田高行さんと4人で、「静岡みきのくち保存研究会」を立ち上げた。私が、72歳で勤務先を退職して間もない頃だ。

 図書館やインターネットなどで、「みきのくち」の資料を集めるのは小林さん。私は、作っている大工の情報を、建築関係の会合に積極的に顔を出して尋ねたり、「しみず職人祭り」などに展示して、見に来た人に尋ねたりして集めた。東京から、東京藝大出身ののガラス工芸作家藤田紗代先生にも、ネットで見たと、見学に来ていただいた。

 福島県の民宿で、大きな「みきのくち」を見たと知人に聞けば、2人で出掛け、テレビの画面に「みきのくち」が映れば、放送局に手紙を出して問い合わせた。旅行に出る度に、神棚はないか、「みきのくち」は置いてないか、キョロキョロするのが習慣になった。

 大量生産品としての「みきのくち」は、今も売られている。経木の簡単な「火焔」や、木の板やブリキに模様を付けたもの、折紙の様に紙で作ったものなどだ。また、高価な工芸品として作られるものもある。さらに、昔の民具を保存する活動の一環として、竹の「みきのくち」を作る人もいる。
 
 しかし、私達が調べているのは、大工などの職人の手仕事として、伝承されて来たものだ。昔は、大工と施主が、何代にもわたって付き合った。家を少し直すにしても、同じ大工に頼んだものだ。そうした付き合いに感謝して、大工が施主に対し、年末に、「みきのくち」を贈った。
 大工仕事に使う「木曽ヒノキ」の余りの板に、ノコ目を入れ、水に浸して柔らかくしてから、薄く削り、乾かない内に組み上げる。11月、12月の夜なべ仕事に作るので、若い大工にとっては、冷たい水を使うつらい余技だったらしい。でも、この作業が、ノコギリやカンナの練習にもなった。「みきのくち」の形状は、火焔、扇、宝剣、桃など縁起物を象ったものが多い。「おみきすず」、「みきぐち」などとも呼ばれたが、棟梁により、形も呼び名も異なった。よく作られたのは、戦後暫くまでらしい。
 
 戦後、団地やマンションが増えるに従って、神棚を置く家が減った。大工と施主との絆も無くなっていった。
 また、昔の大工たちは、家独自の技を、余り他人に教えたがらなかった。「庵原公民館祭り」に展示したところ、静岡の建具屋さん・漆畑さんが作っているという話を聞き、訪れてみると、見本を、清水の山梨清太郎さんという大工から貰ったと言う。この「清ちゃん」は、「辻町の清ちゃん」と言えば、知らない人はいないような有名人。しかし、私も含め、辻町界隈の十数人もの大工が、誰一人、そのような物を作っている事を知らなかった。「親父が死んだら、こんな物が出て来た」と、「みきのくち」が、息子の大工から持ち込まれる事もある。子供にさえ知らせずに作っていた大工もいるのだ。だから、文献や写真などの記録に残らないまま、消えて行った。
 
 「ミキノクチ」という言葉が登場するのは、私達が調べた限り、江戸中期からである。「みきのくち」は、神社や寺院、祭典、年中行事などに、今も存在する。
 
 これまで、会いに行ったり、問い合わせた職人は、清水地域では30人余。全国でも、製作者は減っている。奈良県で、300年余製作をつづけて来た家も、先年とうとう止めてしまった。

 現在、清水では、清水建築組合技能士会が、毎年、大工相手の製作講習会を開いています。私達も協力していますが、静岡県の他地域の大工組合からも、女性を含む参加者があるので、心強く思っています。
 又、最近、山本明保さんが、ミキノクチの新作に、熱心に取り組み、瀬名展示場を開設しました。見学者も多いようで喜んでいます。