−山梨祇園祭の歴史− 

 

伝承地の概要

地域の概要
 山梨祇園祭が伝承されている山梨地区は袋井市の北部に位置し、町の北西を流れる太田川の水運の中継地として発展してきた在郷町です。

その名は、応神天王の妃、物部の山無媛に由来していると云われ、日本三筆の一人として名高い、橘逸勢の終焉の地としても知られています。

逸勢の辞世の句として用福寺に伝わる歌に月見里と記して「やまなし」と読ませ、袋井市国本の原川浅間宮に伝わる市指定文化財の鰐口にも「月見里」とも記されています。

また、祇園祭の御旅所として神輿が渡御する若宮八幡宮の境内は逸勢の菩提を弔うために娘、妙冲が庵を結んだ場所とも伝えられています。

山名神社
 山梨祇園祭を行う山名神社は須佐之男命を祭神として、養老年間(717〜724)に勧請されたと伝える社です。延喜式の山名郡四社の一つとされ、中世には天王社と呼ばれていました。近世に入ると幕府から十八石の石高を記した朱印状を受けていました。神輿が渡御する若宮八幡宮の境内は、太田川の上流から流れてきた神が漂着した地として、最初に神社が建立された場所と伝えられています。しかし、度重なる川の氾濫によって現在の場所へ遷座したと云われています。

祇園祭と山梨
 祇園祭の「祇園」とは祇陀苑林須達精舎の略称で、この天竺祇園精舎の守護神牛頭天王(日本では薬師如来の化身・垂迹身は須佐之男命)を疫病神と祀ったと伝えられています。
 祇園祭(祇園御霊会)は古くは仏式で、朝廷が執り行っていましたが、応仁の乱を境に町衆の祭へと変化し、曳山や飾山の華麗さを競い囃すようになり、はるか遠江の社にその面影を伝えています。
 太田川の上流には、南北朝期の大般若経六○○巻が現存する田尾(田能)天王社、吉川筋には、方吹(吹吹)天王社、天方天王社(天方神社)、飯田山名神社、山梨より下流には、深見天王社(深見神社)、対岸の園田には牛飼天王山大福寺、栗倉天王社(八雲神社)などが立ち並び、中世には盛大な夏越えの祇園祭が行われていたことが創造されます。
 また、太田川の左岸には多くの真言系寺院が建立されています。北の霊是山をはじめ、府八幡の別当であった安養山西楽寺、医天王油山寺、東補陀落山観音寺などです。このように真言系寺院を中心とした地域に多くの天王社が創設されており、「見付惣社名神社、祇園舞車領徳川朱印状」では、祇園舞車領として十四石一斗余の朱印地が安堵されるなど、遠江国府八幡に附属する祇園社の別当としての西楽寺は大変に重要な役割を果たしていたと考えられます。

祭りの次第
 山梨の祇園祭は山名神社の祭礼として行われており、古来7月13日、14日、15日に行われていました。祭は山名神社氏子の上山梨地区上町、中町、下町、入古、金屋敷の五町と昭和60年に発足した月見町によって行われます。
 また、この祭は、御霊信仰と水の霊力によって「けがれ」を洗い流す「禊」と融合が見られ、農村の虫の害や災いを追い払う祭事として行われています。
 神輿の渡御と還御の道のりでしたが、現在は渡御が山名神社−下町−中町−上町−御旅所と渡り、還御は御旅所−入古−金屋敷−月見町−山名神社へと帰ります。

拝殿前飾りつけ 「しで」の準備/御旅所飾り付け
拝殿前の大幟立て 御祓所にて例祭
各町当番長に御幣が渡される 各町の会所開きの様子
餅投げ後、渡御が行われる 「てんぐじんじい」と呼ばれる猿田彦の
持った南天の棒で頭をたたかれると、
一年中病気をしないと伝えられる
御旅所に到着し、豊栄・浦安の舞が舞われる 還御までの間、護番により御旅所は守られる
祭の期間中、各家庭では祇園花と
西瓜、赤飯を氏神様に供える
団体行動の様子
午後9時にクライマックスを迎える 還御の様子
舞子は地に足を着けることなく
自宅へもどる
祭の終わりに御幣が返される
祭の翌日の片付けの様子 すべてが終了すると納会が開かれる