〜さらば、愛しき迷探偵〜
世界が、崩壊する。
遍窟寺の周囲の空間が、ガラスの割れるような甲高い音を発しながらひび割れ、砕けていく。
河口たち遍窟寺の面々は、その様子を成す術なく見つめるしかなかった。
「このままじゃ……!」
足元の空間が崩壊し、エルシィは素早く飛び退きながら視線をある一点へと向けた。
すなわち、鳳庄次郎へ。
彼女の瞳には、いつになく厳しい光が宿っている。
「分かってるはずです、鳳さん! 貴方の力が、この世界を──」
「……ふむ」
鳳は腕組みをしたまま、周囲に目を向ける。
崩壊は彼の足元にまで迫ってきていた。だが、鳳は微動だにしない。
「鳳!」
「どうした。らしくないぞ、スネーク?」
「そんな冗談を言っている場合か!」
普段なら鳳とは友好的な──というと2人は必ず嫌な顔をするのだが──関係にある河口も、
軽口を叩ける状態にはなかった。
この世界の崩壊は、鳳の妖力……正確に言うと能力の欠如が生み出したものだ。
真実を推測するという『あるべき流れ』を先天的に断ち切った彼の妖力は、逆に言えば
真実を推測すればするほど、『歪んだ流れ』を生み出してしまう。
そして今、その歪みは生命エネルギーと触れ合い、一種の妖怪、いや隠れ里として京都一帯を
覆ってしまったのだ。
この隠れ里では、あらゆる真実が隠され、捻じ曲げられ、虚偽が現実のものとなる。
何より『鳳の推測が最も正しい』という法則が根幹にあり、さしもの遍窟寺の面々も苦戦を
強いられた。行動を共にしていた鳳が事態を動かしていたのだから。
「貴方が否定すれば済むことです! この出鱈目な世界を!」
ピーターが銃を構え、鳳に狙いを定める。威嚇ではなかった。この偽りの世界が鳳の意識に
根ざしているのなら、彼を倒すことでも終わらせることができる。
が、いくら妖怪退治のプロフェッショナルであるピーターでも、微かな躊躇がないとは
言えない。仲間なのだ、彼は。
しかし──それでもなお、鳳の表情に変化はなかった。中指で眼鏡のフレームを軽く押し上げ、
暗雲に包まれた空を眺める。
「出鱈目か……まあ、そこそこ気に入ってはいたんだが」
鳳は笑っていた。
ほんの一瞬、彼の眼差しに現れていた深い闇を感じ取り、その場にいた誰もが息を呑んだ。
あれは──目の前にいるのは、誰だ?
「……だが、少々飽きたな。此処にも」
そう呟くと、鳳は目の前に生じた割れ目に手を突っ込んだ。すっと、手首から先が消失する。
あまりに無造作なやり方に、エルシィの顔が蒼ざめた。
「鳳さん!」
「心配無用だ。こうした方が、“直に伝わる”からな」
右手の感覚はない。
その状態で、鳳は口を開いた。
「“貴様”の名前を推理してやる。それは──」
静かに、淡々と鳳はその名を告げる。
瞬間。
凄まじい風が吹き荒れ、彼らは皆たまらず膝をついた。
やがて、激しい衝撃が世界そのものを襲い──。
すべては、終わりを迎えた。
「……どういうことだったんだ?」
「ん?」
河口の問いに、炬燵に寝転がっていた鳳は身体を起こした。見ると、河口は蛇の姿のまま、
炬燵の上でとぐろを巻いていた。
「名前をつけた程度で、なぜ隠れ里が消えたんだ?」
「ああ、そのことか」
「んぐ」
蜜柑の皮をむく、などということを河口はしない。丸呑みだ。
「簡単な理屈だ。あれは私の名推理に支えられた隠れ里だったからな……それを利用した
だけのことだ」
「利用?」
「ピーターは否定しろ、と言っていたが、それは正しくない。真実を捻じ曲げる法則上、
単純に否定しようとしても無効化される可能性がある」
だからこそ、鳳は『推理』という形で隠れ里を規定した。名前は妖怪にとって生命そのものを
現すと言ってもいい。それは隠れ里にも当てはまることだ。
そして。
『命名』する力は、鳳の得意技の一つ。推測したものを、事実にする。
「なるほど……しかも、お前によって否定されたわけだからな」
「うむ、我ながら抜群の推理力だ。素晴しい」
河口は黙ったまま、鳳を見つめた。
分かっているのか──そう問いたかった。自身の欠けているものを、鳳も既に気付いている
はずだ。それは探偵という生業をしている鳳にとって、致命的なものだろう。
「なあ……鳳」
「ジョーカーと呼べ、スネーク」
河口、溜め息を一つ。
「……まあ、いい。お前は、死んでもお前だろうし」
「ふん」
鳳は鼻で笑うと、蜜柑を一つ手に取った。
隠れ里につけた名は、「かなわず」。
鳳は、その意味についてこう答えるだけだ。
「私が気に入らなかったからだ」──と。