〜聖夜に降る思い〜

     

     

     
妖怪。
人の想いから生まれる、もう一つの命のかたち。
闇に生まれ、夜の世界で生きるものたち。

私も、その一人。
父は人狼で、母は吸血鬼。私は妖怪の中でも珍しい、混血児だ。もっとも、あまり気にしたことは
ないけれど。
確かに私は人並み外れた力を有しているし、その一方で常識では考えられない脆弱さを負っている。

でも。
心は、人間と同じだと思う。妖怪だって、泣いたり怒ったりすることもある。

それに……誰かを想い、悩むことも。

     

12月24日。
遍窟寺を訪れたその人物を最初に見かけたのは、庭で遊んでいた宝城大輔だった。

「あれ? 明兄ちゃん」
「やあ、こんにちは。大輔君」

優しげな顔立ちをした細身の青年──新沢明は、駆け寄ってきた少年の頭をぽん、と軽く叩く。
大輔の方もそうされるのが嬉しいのか無邪気に笑う。

「今日は、君だけ?」
「和尚はいつも通り鉄砲玉。お菊さんは他のネットワークに挨拶回りしてるよ。ここにいるのは……」

大輔は閉められた障子を指し、

「桜子姉ちゃんと河口さんが炬燵で丸くなってる」
「……そうか」

明の口調に疲れのようなものを感じ取り、大輔は首を傾げた。

「なんかあったの? エル姉ちゃんは一緒じゃないみたいだし」

明と、大輔がエル姉ちゃんと慕う女性──エルシア・シールテルスは恋人同士の関係だ。遍窟寺に
集まる妖怪で、そのことを知らない者はいない。
まして今日はクリスマス・イブ。小学生の大輔でも、2人がデートすることくらい想像できる。

「相談事?」
「いや、相談といえば相談なんだけどね……」
「だったらオレが聞くよ!」

本人、至って大真面目である。
明は少し困ったような表情になって、

「うーん……恋愛相談なんだけど、できるかな?」

照れもせず口にする。
当然のことながら、大輔はおとなしく引き下がることにした。その手の相談をしたいのは
彼だって同じなのである。
大輔は靴も脱がず、縁側に膝をついて上がりこむと障子を勢いよく開けた。

「河口さん! 出番だよっ!」

     

「いらっしゃいませー!」

12月25日。
喫茶店「エンジェルブレス」はカップル客の増加によって、普段の1.5倍ほどの忙しさに見舞われていた。
しかし店長直々に行われる面接試験をくぐり抜けたこの店の従業員は、その程度のことでは
びくともしない。何しろ、向かいのビルは呪われている上に、厄介事を持ち込むことに掛けては
天才的な自称名探偵が住んでいるのだ。並みの神経ではやっていけない。

「チーズケーキと苺のタルト、オリジナルティー2つお願いします!」
「ごゆっくりどうぞー」
「毎度おおきに〜」

朗らかな女性たちの声が、店内に軽やかに響き渡る。
訪れた客たちは彼女たちの笑顔と、雑誌にも掲載されるほど評判の洋菓子に迎えられ、誰もが
幸福な時間を過ごすのだ。

「……ふぅ」

そんな店内で、憂いに満ちた吐息を洩らす女性が一人。
鮮やかな赤毛と涼しげな青い瞳がひどく印象的で、目を惹きつける美貌の持ち主だ。今この時でなければ、
彼女の明るさが一層美しさを加えていたことだろう。
けれど。

「…………」

彼女──エルシア・シールテルスは、ぼんやりと窓の外を眺め、時折溜め息をつくばかりだった。

「姐さん?」

従業員の一人、阿部清音が心配そうに声を掛けた。
今日は朝からこの調子で、実はかなり困った状況なのだった。「エンジェルブレス」のチーフを
務めている彼女が気の抜けた態度を取っていては、周囲にも影響が出る。

「姐さん。……姐さんってば!」
「え、あ、えーと、次の注文?」

3度目の呼びかけで、ようやく反応する。
清音は困ったように頬を掻きつつ、奥の扉を指差した。

「休憩の時間」
「あ、うん……ごめんね」

すっとその場を離れていくエルシィに、清音は何も言うことができずに大きく息をついた。
こういう時に力になれないというのは、心が痛む。

「……そんな顔で謝るなんてズルいで……」
     

エルシィが休憩室に入ると、店長のエリス・アルバレットがTVのニュースを見ていた。

「あ、チーフ。お疲れ様♪」
「……お疲れ様です」

傍にあった椅子に腰掛け、何気なくTVを見ると、街の賑やかな光景が映し出されていた。
レポーターが道を行くカップルに話しかけている。対するカップルも嬉しそうにそれに答え、
幸せな様子が画面越しにも伝わってくる。
エルシィの心の奥の方で、微かな痛みが走った。

「……」

エルシィが視線を逸らしたことに気づき、エリスは「なるほど」と心の中で納得していた。
彼女の様子がおかしいことはエリスも分かっていたが、さすがに原因を掴むまでには至って
いなかったのだ。

「……喧嘩したの?」
「え?」
「明君と」
「……え?! あ、そ、それは……!」

普段落ち着いている彼女らしくなく、エルシィは頬を赤く染めながら狼狽した。

「その、喧嘩ってわけじゃなくて……」
「うんうん、分かる分かる。明君って優しいけど、イマイチ押しが足りなさそうですもんね。
もうっ、とっとと押し倒してイくとこまでイッちゃえば──」
「ちょ、店長! 何言ってるんですか!?」

可愛らしい容貌のエリスだが、その発言は時折過激というか容赦がない。

「私は別に……!」
「じゃあ何でせっかくのクリスマスに、ここで働いてるんです? お休みしてもいいって、
言っておいたのに」

エリスの言葉に、エルシィは表情を強張らせたまま俯いてしまう。

「……でも、私は……駄目なんです」

ぷちん、と微かな音を発してTVの電源が切られた。
幸せそうな笑い声が途切れた後、休憩室には不自然なほど静まり返る。

「これ以上、彼に近づいてしまうと……怖いんです」
「──人間じゃ、ないから?」

空気が重く、冷たいものに変わる。
エルシィは悲しげな眼差しを、エリスへと向けた。

     

「……まあ、話は大体分かった」

常春の楽園──炬燵での安らかな眠りを邪魔され、河口智治は不機嫌そうな表情を隠そうとも
していなかった。先程までは蛇の姿だったが、相手が明であることと相談内容が真剣そうな
ものだったこともあり、目つきの鋭い二十代後半くらいの男の姿をとっている。

「だがなあ、そういうことは占いでどうこうなるもんじゃないぞ」

明の悩みは、エルシィとの間に生まれてしまった溝を何とかして解消できないか、ということ
だった。
喧嘩したわけでも、嫌いになったわけでもない。けれど、明は自分とエルシィに通う気持ちが
すれ違ってしまっているのを確かに感じていた。
そのことに歯がゆさを覚えながら、明は何一つ出来なかった。

「僕も占いに頼ろうとは思ってません」
「だったら、俺にはお門違いの相談だな。帰れ」
「河口さんっ!」

素っ気ない河口の態度に、話を聞いていた大輔が彼の背中に寄りかかる。

「こらっ、離れろ! お前の身体、妙に冷たいぞ!」
「当ったり前じゃん。オレ、さっきまで外で遊んでたんだもん」
「はーなーれーろー!」
「明兄ちゃんの相談にちゃんと答えてあげるなら離れる」
「ああ、分かった分かった」

せっかく暖まっていた身体を冷やされては元も子もない。
河口は少年を引き剥がし、口元を手で覆っている明を睨んだ。

「……笑ってる場合か」
「すみません」
「──大輔くーん、遊びましょう〜」
「桜子姉ちゃんだ」

外から無邪気にも聞こえる女性──紀乃桜子の声。
つい先程までここで寝ていた桜子だが、起きるとすぐに外へ出て行った。樹霊という生まれによるのか、
この寒空の下でも陽光を浴びたいらしい。

「大輔、ご指名だぞ」
「……ちぇっ」

明の話に興味津々という面持ちの大輔ではあったが、仕方なさそうに外へ出て行った。

「さて……」

河口は腕を組み、じろじろと明を見つめる。

「俺から一つ言えることがあるとすれば──考えるな、ってところか」
「え」
「エルシィに惚れたなら、その気持ちを一番に考えろ。それ以外のことは、考えるな。お前さんじゃ
深みにはまるだけだぞ」

そう言った後で、ひどく不本意そうに「まったく、何でこんなことを……」と呟いている。
だが明は納得できず、

「そんな簡単に考えられませんよ」
「じゃあ、諦めろ」
「……」

それこそ無理だ、と内心で思う。
この想いを諦めきれるものなら、明も悩みはしなかった。そして、それはエルシィも同じはずだ。
──同じだと、信じたい。

「僕は……どうすれば?」
「知るか。自分で考えるんだな」

河口は小さく欠伸をすると、横になった。

「だがな、女心ってものは妖怪でも人間でも変わらんもんだぞ」
「……そうなんですか?」
「そういうもんだ」

答えたその時だけ、河口の口元に微かな微苦笑が浮かぶ。昔を懐かしむような、どこか悲しそうな
表情に、明は口にすべき言葉を見つけられなかった。

     
やがて──。
河口が再び寝入ってしまった後で、明は携帯電話を取り出した。エルシィの電話番号を呼び出し、
小さな画面をじっと見つめる。

「考えるな、か……」

     

     
「──ありがとうございました!」

今日最後の客を見送ると、清音は大きく伸びをした。
疲れはピークに達していたが、それも達成感に変わって心地好いものになっている。

「はぁ〜……うちもステキな恋人欲しいわぁ」

しかしながら彼女の脳裏に浮かぶのは、まずエルシィであったりするのだが。
すると。

「あ……雪や」

見上げた夜空から、静かに雪が降り始めていた。
清音は微笑みつつ、

「せっかくのホワイト・クリスマスなんやから……姐さんにもうまくいってほしいもんやね」

祈るように呟いた。

     

エルシィが着替えを終えると、それを待っていたようにエリスが顔を出した。

「チーフ、はいこれ」
「?」

差し出されたそれは、ケーキ用の小箱だった。「エンジェルブレス」のロゴが入っている。
少し戸惑っているエルシィに、エリスは言った。

「私からの贈り物です。仕事の合間に作ってみたんですけど」
「あ、ありがとうございます」
「ちゃんと2人分ありますから♪」
「……!」

耳元で囁かれた一言は、エルシィを赤面させた。

「店長!」
「クリスマスはまだ終わってませんけど?」
「でも……約束の時間は、もう……」

振り返り、店の柱時計を見やる。既にクリスマスも終わりを迎えようとしているのだ。明もきっと
帰ってしまっているだろう。
そう考えると寂しいが、約束を破ってしまったのは自分だ。
エルシィは自分の気持ちを胸の奥に押し込め、ぎこちなくだが微笑んだ。

「仕方、ないです。……私は……」

と、次の瞬間。
エリスの細い指先が、エルシィの唇にそっと添えられた。

「──!?」
「そんな顔、らしくないですよ」

悪戯っぽい笑顔で、エリスは優しく告げた。

「私は人間だから、チーフの気持ち……本当の意味で分かってあげられない。でも……好きな人を
想って不安になる気持ちなら、経験ありますから」
「店長……」
「明君、きっと待ってますよ。私の知っている……エルシィさんの好きなあの人なら」

暖かい気持ちが、エルシィの心を満たす。
だが、同時にひどく恥ずかしい気持ちにも襲われてしまう。エリスの方がよほど明を信頼している
というのに、自分は──何をしているのだろう。
不安に怯えて、曖昧に誤魔化して、傷つかないようにしているだけ。

(明さん……)

エルシィは再び時計を見た。
……まだ、間に合う。彼がまだ、自分を信じていてくれるなら。

「店長、あの私……!」
「どうぞどうぞ、いってらっしゃい♪ お店は私と清音さんで片付けますから──ね、清音さん?」
「は、はいっっ!」

今まで盗み聞きしていたのだろう、清音が慌てて顔を出した。

「まさかイヤとは言いませんよね?」
「もちろんです! うちに任せてください!」
「店長、清音……本当に、ありがとう」

エルシィは深々と頭を下げると、裏口へ向かって駆け出していった。
それを見送った2人は、どちらともなく息を吐いた。

「……大丈夫でしょうかねえ?」
「後は2人次第ですね。でも、いいんですか? エルシィさんを行かせちゃって」

少しからかうように尋ねると、清音は明るく笑った。

「うちが大好きなんは、幸せいっぱいの姐さんですから」

     

降りしきる雪の中を、エルシィは走った。
一歩一歩、約束の場所へ向かう。その一歩ごとに、明との距離を縮めていく──そう、思いながら。
そして、その度に彼への想いが募っていく。

(明さん……!)

彼が人間であることも、自分が妖怪であることも、今は頭に無い。
あるのはただ、言葉にすれば簡単な気持ちだけ。

(あなたに、会いたい……)

     

遍窟寺の正門をくぐる。
今日は誰もいないのか、しんと静まり返っていた。いつもとどこか違う雰囲気に、エルシィは
乱れた呼吸を整えつつ歩みを止める。
空気が肌を刺すほどに冷たい──不安がすっ、と胸を過ぎった。
彼は、いるのだろうか。

「……」

躊躇していたのは、ほんのわずか。
エルシィは庭に向かって歩き出した。雪を踏みしめる音が、周囲に響く。

そして──。

「あ……」

池のほとりに佇む人影を見つけ、エルシィは小さく声を上げた。
すると、その人影も彼女に気付いたのだろう、ゆっくりと振り返る。彼の顔を見て、エルシィは
胸の鼓動が高まるのを感じた。

「……エル」
「明さん……どうして?」

彼はここにいると、そう信じていたはずなのに、口にしたのはそんな台詞。
だが明は小さく笑うと、

「約束だから」

当たり前のように、そう答えた。
いつもと変わらない彼の優しい笑顔に、エルシィは込み上げてくる感情を抑え切れなかった。
次の瞬間、彼女は明の胸の中に飛び込んだ。

「え、エル……!?」
「……馬鹿……!」

慌てる明にしがみつくような体勢のまま、エルシィは呟いた。
涙が、ほんの少し零れ落ちる。
それに気がついたのか、明は彼女の身体をそっと抱きしめた。今だけ彼女の顔を見ないように。
2人の時間が、ゆっくりと流れていく。

「ごめんなさい……私……」
「大丈夫」

明は言った。

「クリスマスはまだ終わっていないから」

腕時計の針は、11時57分。
あと3分間だけ、2人の聖夜は続く。

「明さん。…………、です」
「え? 何か言った?」
「秘密」

まだ少し潤んだままの瞳で、エルシィは明を見つめた。
誰よりも大切な人を。

「メリー・クリスマス、明さん」
「メリー・クリスマス、エル」

     

     
「……いい雰囲気だね、あの二人」

障子に空けた穴から様子を眺めていた大輔が、嬉しそうに呟く。

「河口さんのお陰だね」
「俺は何もしてないがな」

河口は興味なさそうに炬燵に寝転がっている。

「あれ、そうなの?」
「ああいうのは本人たち次第だ。お前も、こんなところで油売っている場合か?」
「お、オレのことはどうでもいいだろ!?」
「しっ、気付かれます」

大輔と同じく覗きに集中している桜子が、大輔の口を手で覆った。

「でも……素敵です」
「むぐぐぅ」
「……やれやれ」

河口は炬燵の上に置いてある、淡い青色の水が入った小瓶を何気なく眺めた。彼が小銭稼ぎのために
用意した、対カップル用のお守り──実はただの水──である。

「……こいつを売りつけておくべきだったか」

そして河口は蛇の姿に戻り、安住の地に潜り込んだ。