〜いつかの冬の景色〜

     

     

プロローグ

     

「もう無理だ〜」

一声叫んでばったりと算数ドリルの上に倒れこむ。
10歳くらいの、いかにもやんちゃそうな顔つきの少年である。少年、宝城大輔はそのまま
ずるずると炬燵からずり落ちると、足元で寝ていた蛇をうねうねと揺すった。

「河口さん、助けてよ〜」
「・・・・・」
「か〜わ〜ぐ〜ち〜さんっ」

一瞬だけさも億劫そうに目を開けた蛇を、大輔はなおも揺すりつづける。

「どうしたの?」

そこに入ってきたのは鮮やかな赤毛と青い瞳を持つ美女、エルシア・シールテルスだった。
どことなく高貴な雰囲気さえある美女だが、上に着ている半纏が雰囲気を台無しにしていた。
手にはなにやら小さな額縁を持っている。
大輔はあくまで寝た振りを決め込む蛇、河口から離れると、額縁を覗き込んだ。

「・・・お金?」
「そうみたい、昔のお金みたいだね」

いかにも興味津々といった様子で尋ねた大輔にエルシィが答える。小さな額縁の中には何枚かの
古い紙幣が収められていた。どうやらわざわざ保管してあったらしい。

「これどうしたの?」
「皆で蔵の整理をしてたら出てきたの、へぇ・・聖徳太子って千円にも使われてたんだ」

珍しさに少し浮かれながら紙幣を眺める。何枚かある紙幣の中に、聖徳太子が印刷された
一万円札と千円札が並んでいた。

「その程度のことも知らんのか」

不意に横から白蛇が顔を出す。二人は軽く顔を見合わせて微笑んだ。

「なんだ?」
「やっぱりお金のことになると起きてくるんだね」
「当然だ」

いかにもおかしそうに言った大輔の言葉に、横でエルシィが頷く。そんな二人を尻目に河口は
軽く身を反らせて返答した。二人は笑いを含んだまま呆れ顔になる。

「しかし・・・久しぶりに見たな・・・」

珍しく何かを思い出すような目で聖徳太子の千円札を眺めながら、河口は小さく呟いた。

     

     

1.

     

何故こんなにもくだらない物を恐れるのだろう? 目の前の男を見ながらそんな考えが
頭をよぎる。しかし自分もまた、ナメクジなどという卑小な生き物がひどく苦手でなことに
思い当たって河口は苦笑を漏らした。
薄暗い路地・・細長く切り取られた空は藍に染まっている・・もうすぐ日が昇るのだろう。

「もらっておくぞ」

何もない空間を必死にかきむしっている男の鞄からすれ違いざまに財布をぬきとる。だが男は
そちらを見ることもなく、恐怖に身をすくませ必死に目の前をかきむしるばかりだ。その目は
大きく見開かれ、脂汗が流れている。

「蜘蛛・・ねぇ」

路地から出る前にちらりと後ろを見る。彼の術によって、無数の蜘蛛に取り囲まれている幻しか
映していない男の顔はひどく滑稽だった。ついさっき、外見は優男の河口相手に凄んでいた
面影は微塵もない。

「余計なことしなけりゃ財布は無事だったのにな」

『ウェストサイド物語』と辛うじて読み取れる、剥がれかかった映画のポスターを払いのけて
路地を出た。夜明けの薄ぼんやりとした空気の中を歩き始める。
吐く息が白い・・元々寒さに弱い上に、雀荘のこもった空気に慣れていた体には余計に堪えた。
麻雀は大した稼ぎにはならなかったが、余計なことをしてくれたおかげで少しはましになった。
これで新しい戸籍を買った分の借金もいくらか減るはずだ。

「それにしても寒い・・・」

薄っぺらいコートの襟元を引き締め、戦慄をこめて呟く。今日のねぐらを速いところ見つけようと、
彼は歩調を速めた。

     

「・・・・・・もしかして、困ってますか?」

ためらうような、緊張した女性の声。
軽いまどろみから引き戻され顔を上げた河口の目に飛び込んできたのは一人の女性だった。
二十歳過ぎぐらいだろう、癖のない黒髪が肩のあたりで揺れている。グレーのコートに
マフラーを巻き、いかにも暖かそうだ。
いきなり声をかけてきた見知らぬ女を不審に思いながらも、いつもの通り外見から大体の懐具合を
予想する。格好は地味だが、品はよさそうだ。最近やたらと目に付く『ヘアバンド』とやらを
していないのもいい。とりあえず合格。

「ああ・・無料では話す気力もないほど困っている」

そう言って軽くあたりを見回す。とりあえず風を防げる場所と考えて廃ビルの二階踊り場に
陣取ったはずだが、廃ビルではなかったのだろうか。

「・・・・ふふ・・変な人ですね・・・じゃ、これ、料金です」

幾分緊張していた表情が破顔して、普段の彼女のものであろう柔らかな表情へと変わる。クスクスと
笑いながら財布から出された十円玉をとりあえず受け取りながら、河口はその出所を素早く
観察した。・・なかなか分厚い・・いいカモかもしれない。改めて顔を見ると、美人、とまでは
いかないが愛嬌のある顔である。ちょっとたれ目気味の瞳がおかしそうにこちらを見ていた。

「で、ずっとここに住んでるんですか?」

料金は払いましたよ? といった調子で続ける。最初よりかなりくだけた調子だった。人に慣れる
のがかなり速い性格なのだろう。河口は軽くため息をついた。

「いや、今日が初めてだ。できれば永住したくはないが、金がないもんでな」

そういってからなにか軽く引っかかるものを感じた。何か、違和感がある・・もう一度上から
下までじっくりと彼女を観察して河口はその正体に気づいた。オーラがほんのわずかだが人間とは
違うのだ。先祖がえりをおこすほどではないが、かなり昔に妖の血が混じっているのだろう。

「それはそうでしょうね、そうですか、お金がないんですか・・」

河口の視線に気付かなかったらしく、なにか考えるような調子で呟く、そしておもむろに神妙な
顔を作った。

「いくら必要なんですか?」
「1万」

たれ目のせいで明らかに緊張感は半減した表情だったが、そんなことはどうでもよかった。
金の気配を察知した河口の目がするどく光り即座に返答をする。残りの借金の額だ。

「1万円・・・大金ですよね・・」
「そうでもないぞ」

明らかに何かを期待している目に一歩彼女は引くが、すかさずその距離を詰める。まるで蛇が
鼠を追い詰めるようななめらかな動きだった。

「いえ・・差し上げなくもないんですけど・・」「よし出せ、すぐ出せ、ここに出せ!」
「いや・・あの・・お願いが・・」「よし、なんでも引き受けた!了解した、さぁ!」
「・・いいんですか?そんなにあっさり・・」「いい!」
「せめて内容とか・・」「なんでもいい!」

わずか十秒足らずで商談は成立したらしかった。河口は逃がさないよう彼女のたれ目をしっかりと
見据えた。金縛りの力を使ったわけではないが、迫力に気おされたらしく、彼女は半歩身を引いた
ままの格好で止まった。

「・・・・・すみませんやっぱり他を・・」「却下だ」

沈黙がおりる・・・。ビルの郵便受けからのぞくチラシがカサカサと音を立てた。

「・・・約束は守ります?」

軽く息を吸って、今度はきちんと河口を見返して訪ねてくる。外見の割には芯のある性格なのかも
しれない。そんな彼女に応えるように、河口もゆっくりと口を開いた。

「それは内容による」

と。

「な!だってさっき、『なんでもいい』って言ったじゃないですか」
「あれは言葉の綾だ」
「言い訳になってません!」
「ふむ、では内容を聞いてやろうじゃないか」

偉そうに反り返り、先を促す河口の姿をなにやらじとっとした目で彼女が見る。

「・・・・・・やっぱり他を・・」「却下だ」
「・・・・・・」
「・・・・・・」

再び沈黙がおりる。
しばらく二人は奇妙な空気のまま見合っていたが、やがて彼女が特大のため息をつき、口を開いた。

「わかりました。では内容を教えますね、今晩2つの場所に付き合って欲しいんです。行く先は
まだ未定ですが二箇所、大して遠くはないです。」
「それだけか?」
「はい」
「やる」

何かを諦めたような調子の彼女の言葉に、河口は即答した。

「ちなみに当然交通費は・・」「出しますよ!」
「うむ」
「・・・・・はぁ・・・これでよかったのかなぁ・・」

がっくりと肩を落とす彼女とは対照的に浮かれきった様子の河口。元より守る気もない約束など
1万円の前には微塵も重要ではなかった。

「さぁよこせ」
「家賃払おうと思っておろしたんですけど・・」

なにやら手を怪しげに動かしながら催促する河口を見て、彼女は言い訳なのかよくわからない
ことを言って千円札を十枚とりだす。

「全額前払いとは、話がわかるな」
「・・・・ぜったい来てくださいよ?」
「おう」

再びじとっとした目で見やるが、明らかに適当な返事が返ってくる。彼女はしばらく疑わしそうな
目を向けていたが、意を決したらしく河口の手に紙幣を渡した。

「じゃあ今日の夜9時、待ち合わせはここにしましょう」
「ふふふふふふ・・よぉ聖徳太子、久しいな」
「・・・・・聞いてますか?」
「聞こえている」
「・・・・・・・・・」

なにやらどこかに意識が飛んでいるように見える河口をみて、一抹どころか大きな不安を感じたが、
すでに紙幣は河口のポケットである。彼女は惜しむような視線をそこに注いでいたが、何かを
思い出したらしくひょいと顔を上げた。

「あの、それで、お名前は?」
「好きに呼べ」
「そうじゃなくて名前です。」
「だから好きに呼べばいい」
「・・・・・・・・」

不満げに河口を見るが、少しも悪びれた様子はない。彼女は少しの間考えこんでいたが、やがて
いかにも名案を思いついた、といった、悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「わかりました。じゃあ絶対呼びません」
「は?」
「それに名前を教えてくれるまで私も名乗りません」

意味もなく挑戦的な目でそういうと、彼女は促すように河口を見た。どうやらこう言えば名乗る
ものだと思ったらしい。

「・・・・・・・まぁいい、好きにしろ」
「え?」

意外そうな声を聞きながら、河口は階段に向かって歩き始めた。慌てたように足音がついてくる。

「あ、ちょっと、ここに9時ですよ?いいですね?」
「ああ」

念を押す声に返事をしながら、すでに河口の思考は別のところに移っていた。それが結果的として
河口に守るつもりなどなかった約束を守らせることになるのだが、それは夜この場所で叩き起されて
から気が付いたことであった。

     

     

2.

     

暗い路地・・どこかからボブ・デュランの曲が流れてくる。繁華街とはいえ、一歩入ればそこは
まだまだ闇の中だ。彼女は自分を鼓舞するように小さく跳ねると、「わかっちゃいるけど
や〜めら〜れないっっと」と呟いた。
河口はその後ろでいかにも面倒だといった風に首を回している。ここが彼女の言う「付き合って
欲しい場所」の一つらしい、繁華街の裏の路地街・・昼ならばともかく、夜に喜んで入るような
人間はいないであろう場所だ。

「ボブ・デュランってなんだかいやらしい感じがしません?ベンチャーズの方が好きだな」
「そういえば、小林旭と美空ひばり結婚しましたね」

さすがに落ち着かないらしく、彼女は先ほどから喋りつづけている。河口は「ああ」とか
「あ、そう」など適当に相槌を打っていた。

「なぁ、お前何の用があって路地をぐるぐる回ってるんだ?」
「え!・・ええと・・もう少し回ったら教えます」

痺れを切らして尋ねた河口に、いいにくそうに歯切れの悪い返事を返す。路地に入ってから
明らかに様子がおかしかった。喋りつづけたかと思えば急に立ち止まって耳をそばだて、周囲を
うかがったりというのを繰り返しながら、同じ路地を何度も回っているのだ。

「いいかげんに帰・・」

寒さに耐えかねた河口がその言葉を言い終わらぬうちに、その耳が誰かの走ってくる靴音を捉えた。
と同時に「助けて」という女の叫び声も耳に飛び込んでくる。急いで振り返った先に見えたのは、
こちらに向かって必死に走ってきているらしい人影と、その後ろから左右の壁を跳ねながら
近づいてくる素早い影だった。

「な?」

呆然としながらも河口の目は正確にその二つを分析する。近づいてくるほうは間違いなく人間、
そのオーラににじむ感情は恐怖だ。そして後ろから飛び跳ねている影は人ならざるもの、影に
生きる、もう一つの命。そのオーラにじんでいる感情は間違いない、愉悦であった。

「予想が・・当たっ・・た・・」

河口の後ろで彼女が呟く。だがその声は内容とは裏腹に細かく震えていた。間違いなく、恐怖に
よって。

「・・む」

一瞬判断に詰まる。戦闘は不得手というほどではないが、攻撃するための超常の技は人の姿では
使えない。だが目の前に二人も人間がいる状況で、本来の姿をさらすのにはためらいがあった。
その間に影は一気に距離を詰めると、追っていた女性に飛び掛り、地面へと引き倒す。10メートル
ほどはなれた先で倒された女性から、黒くうつる液体が滴った。

「ああああああ」

幾分裏返った叫びとともに突然河口の横を影が通り過ぎた。さきほど震えていたはずの彼女が、
引き倒された女へと、そして黒い影へと駆け出したのだ。

「おい!」

つられるように河口も駆け出す。彼女はナイフのようなものを持っているらしいが、そんな程度で
立ち向かうにはあまりに無謀な相手だ。だがそれ以上驚いたのが、彼女が恐怖にすくむことなく
動いた、しかも向かっていったという事だった。

「・・・きゃあっ」

何かが当たる衝撃に我に返る。どうやら影に駆け寄ったとたんになぐり返されたかなにかで
吹っ飛んできたらしく、足元で彼女がうめいていた。どうやら意識はあるらしい。

「なんだ・・おまえ」

影から低い、しわがれた声が発せられる。それは狩りを邪魔された苛立ちと怒りに満ちていた。

「・・・・・・・・通りすがりだ」

闇の中で目を凝らす。このくらいの距離なら辛うじて大体のところはわかる。全身毛むくじゃらの
大柄なサル、といった風情だが、その顔つきは醜く歪んでおり、腕からのびるナイフのような爪が
かすかな灯りに鈍く光っていた。

「・・・・猩々か・・か?」

知識をさらって思い当たった名を呟く。大陸の妖怪はよくはしらないが、猩々くらいは辛うじて
知っている範囲だ。

「・・・・・なんだ・・おまえ」

自分の正体を当てられたことに動揺したのか猩々が女性から離れ、警戒をあらわにする。河口は
女の様子をうかがう。思ったより出血はなさそうだが気を失っているらしく、動く気配はない。

「・・・言っているだろう。通りすがりに巻きこまれた単なる善良な・・・お前の同類だ」

そう言うと同時に意識を解放する。肉体が拡散するようなめくれあがっていくような感覚の後、
そこには純白の鱗を光らせた蛇がとぐろを巻いていた。だがそれが単なる蛇でないことは、まるで
光を放っているかのような鮮やかな白や、知性を宿した瞳からも簡単にうかがえた。どことなく
近寄りがたい、恐怖心を呼び覚ます気配をまとっている。

「人間にへつらう屑か。じゃまを・・するな」
「出くわさなければ邪魔はしなかったがな・・どうも・・はめられたらしい」

ちらりと視界の端で巻きこんだ張本人を見やる。河口を見て、なんとか体制を立て直した姿勢の
まま硬直していた。いい気味だと思い、少し腹立ちが収まる。

「とりあえず・・どちらが屑かは思い知れ」

意識を一瞬で集中させ、イメージを組み立てる。繋がった感覚をそのまま振るう。なにかかが闇に
光った刹那、猩々の腹はざっくりとえぐられていた。

「がぁぁぁぁぁ!!」

猩々の咆哮が路地に響く。少し遅れてかすかな水音が響いた。

「今度は見えるようにやってやろうか?」

声とともに近くの水溜りから水が跳ね上がった。しぶきが微かな光をきらきらと散らし、一瞬
河口の周りで渦を巻くとそのまま猩々の腹へと吸い込まれてゆく。高速で振るわれた水は鋭い
刃となり、再び毛皮に覆われた皮膚を割った。

「ぐおおおお!!」

怒りに逆上した猩々が飛び上がり、一気に距離を詰め爪を振るった。とっさに避けきれず純白の
鱗が数枚舞う。離れ際、水の刃を放つが今度は体をひねってかわされた。

「面倒だ!」

再び猩々と肉薄した瞬間、白蛇の目が猩々の目を捉えた。河口の脳裏に、目の奥の、何か軟らかい
ものを握りつぶすイメージがよぎる。

「・・が!・・が」

目の前で、猩々が痙攣していた。いや、必死に体を動かそうとしているのだろう。だがそれは
ほんのかすかな痙攣としてしかあらわれない。既にその体の支配権は猩々にはなかった。蛇である
河口が持つ、視線によって相手の自由を奪う術、金縛りの効力だ。

「・・・・・別に殺す気はない・・というところなんだが、借りができたからな」

そういって自分の傷を見やる。幾枚かの鱗がはがれ、僅かな血が鱗を紅く染めていた。

「あきらめろ」

何度かの湿った音が路地に響いた後。そこにはかすかに塵がつもるのみだった。

     

     

3.

     

「さて、事情を言え」

人間の姿に戻って、襲われていた女性の手当てを終えると、河口は不機嫌そうに言った。

「もしかして・・強いですか?」

初めこそぎこちなかったが、あっさりと彼女は立ち直ったらしく、態度もほとんど正体を見せる
前と変わらなかった。

「相手が弱かったんだ。金縛りなんぞそうそう効くもんじゃない。そんなことより聞いている
ことに答えろ」
「・・実は私、ちょっと特殊で、あなた方みたいな人が見分けられるんです」

河口の態度に悪いと思ったのか、幾分申し訳なさそうに答える。

「で、普段は小さなネットワーク・・って知ってますよね? そこでお世話になってるんですけど、
丁度みんな出払ってるときに不審な連続殺人事件がおきたんです。で、これ以上見過ごすわけには
いかない、ということで、独自に調査して予測を立てたのはいいんですけど・・私、目以外は
普通の人と変わらないから、協力者を探してたんです。」
「それで俺に目をつけたわけか」

それなら本来の姿を見ても態度が変わらないのも頷ける。

「・・・はい。本当のこといってもついてきてくれなそうだったし、ちょっと強引でしたけど」

なにが楽しいのか照れたように笑う彼女に、河口は変わらず不機嫌な口調で続けた。

「俺がアレの同類だったらどうするつもりだったんだ?お前は食われてたかも知れんぞ?」
「それはたぶんないだろうって思ってました。だって、悪い人には見えなかったですし」
「・・見えなかったって・・おい、まさか・・それだけか?」
「はい」
「・・つまりお前は、全然関係ない他人のためにのこのこ危険を冒して、そのために見ず知らずの
化け物をぱっと見で仲間にしたあげく、結局なぐられて怪我をした、と」

なんと愚かしい女だ、と思う。だが一方でなにか、えたいの知れない焦りに突き動かされ、河口は
皮肉めいた言葉を放った。

「そういうことですね、結果的には」

皮肉に対しまた照れたように笑う彼女。それを目にした瞬間、河口の体に言いようのない感覚が
走った。それは戦慄に近い恐れであり、理不尽な憎しみと嫉妬であり、懐かしいような感覚だった。
人間は脆弱で簡単に殺せる生き物だ。しかしこういった理解不能の、だが確固たる『想い』こそが、
自分たちを生んだのだ。目の前で微笑む愚鈍な女に対し、河口は脅えと郷愁が入り混じったような、
不思議な感情が湧きあがるのを感じた。

「・・・・・・まぁいい・・用が済んだなら俺は帰る」

感情の波が収まるのを待って、河口は逃げるようにきびすを返した。

「あ、待って下さい」

なぜだか楽しそうな声のまま、彼女は呼び止めた。一瞬「お前は何の得にもならんことで
死にかけたんだ!」とでも怒鳴りたくなったが、さきほどの感情がまたこみ上げてきて言葉に
ならなかった。仕方なく河口は振り返った。

「なんだ」
「約束は二つです」
「はぁ?」
「ですから、付き合ってもらう場所の約束は二つです」

悪戯が成功した子供のような笑顔で、彼女はいった。

「・・・・帰る」
「帰るんならお金を返してください」

無理だと承知しきっている笑顔だった。

「・・・・・・・ない」
「じゃあダメです」

ふふん、と勝ち誇ったように笑う、たれ目が余計にたれて、なんとなく間の抜けた顔になった。
河口がかすかな望みをかけてポケットを探る・・・と何か堅い感触があたった。指先で探る・・
十円玉・・今日の朝『情報料』として受け取った10円だ。

「・・・・困ってます?」

得意げに笑って彼女が尋ねる。指先の堅い感触を感じつつ、間の抜けた顔だな、と思う。
河口は、いつのまにか自分が吹っ切れたような、変にすがすがしい気分になっている事に気付いた。
投げやりだが不思議と不快ではない。

「ああ・・無料では話す気力もないほど困っている」

彼女の顔がぱっと笑顔になる、こっちの表情のほうはまだましに見える。

「・・・ふふ、変な人ですね・・」「だが・・」

決まっているはずの自分の返答を中断されて、彼女は財布に手をかけたまま顔を上げた。

「料金は支払済みだからな・・支払いの分は働く。俺は勤勉なんだ」

彼女の表情が再び、そして先ほどよりさらに明るい笑顔になった。河口はそれを不思議な気持ちで
眺めていた。

「河口智治だ」

彼女はとっさになんのことか理解できなかったらしく、きょとんとした表情になった。

「サービスで教えてやる。河口智治、俺の名前だ」

もう一度、今度はゆっくりとくり返す。『河口智治』になって初めて口にする自分の名前。
理解した彼女が嬉しそうに一瞬笑い、得意げな表情を作った。
全く何がそんなに嬉しいのか気が知れないと思いながら、河口は自分の口元が緩んでいくのを
感じていた。
本当に、間抜けな面をした奴だ。