〜涼風に舞う桜花〜

     

     

     


     
「ん〜〜♪」

紀乃桜子は今日も上機嫌だった。
もっとも、彼女が不機嫌だった日というのは、ほとんどないと言っていい。いつだって
幸せそうな、けれどどこか儚げな笑みを浮かべている少女なのだ。
いや。
少女という分類は誤っているだろう。外見はまだ二十歳にも満たないような彼女だが、
実際はどんな人間よりも長い時を過ごしてきている。

「今日も涼さん、来てるかしら」

普段なら少し辛い思いをする石段を軽くクリアし、山門をくぐる。桜子は一度足を止め、
深呼吸した。
けれど、鼓動はなかなか落ち着かない。

(運動不足かな?)

そう思いつつ、桜子は皆が集まっているだろう裏庭の方へ歩き出した。
すると、

「──はっ!」

鋭い気合の声が、空気を揺らした。
何事かと思い、桜子は歩みを速め──そして、立ち止まった。

     
池の傍に佇む少年がいた。
女性にも間違えられそうなほど線が細く、整った顔立ちをしている。
だが今、彼の顔は真剣に引き締まり、険しささえ感じられる。そして手には、一振りの剣。

「……はあぁぁぁぁ……!」

少年が動いた。踏み込むと同時に斬撃。剣の軌跡が闇に浮かび、消える。振り下ろしから、
身体を半回転させつつ横薙ぎの一閃。その足運びには全く無駄がなく、華麗だった。

「…………」

桜子はその光景に見とれたかのように、ぼうっとしていた。
少年──朱雀院涼の剣舞の美しさは、どこか幻想的ですらあり、桜子でなかったとしても
息を呑み、目を奪われることだろう。
ただ……。

「──まるで薄氷の上を舞っているかのようですね」
「!?」

不意に背後から囁かれ、桜子は文字通り飛び上がった。振り返ると、縁なし眼鏡と丸みを
帯びた顔が目に入る。

「雪沢さん……」
「こんばんは、桜子さん」

40代半ばの男性──雪沢達真が穏やかに笑う。

「もう〜、びっくりしました……驚かせるなんて、ひどいです」
「一応、声は掛けたんですが、見入っていたようなので」

さほど悪びれることもなく、雪沢は答えた。
いつもの癖が出てたかな、と桜子は恥ずかしさに頬を赤く染めた。緩やかに時を生きてきた
せいなのか、彼女は時々周囲のことを気にせずぼんやりとしてしまうことがある。

「でも豹さんが可哀想です」
「え?」
「白豹の上を舞うんですよね? 涼さんはそんなに重くないでしょうけど、やっぱり可哀想」
「…………いえ、そうではなくて」

ずり落ちかけた眼鏡を押し上げつつ、雪沢は言った。

「どこか危うい、ということですよ。彼は」

     

     
「お待たせしました」

湯飲みを乗せたお盆を運び、涼が襖を開けた。
炬燵に入っていた桜子は両手を上げて無邪気に喜んだ。

「わーい、お待ちしてました〜♪」
「今日は落雁を用意してみました」

涼の所作は手馴れていて、普段からこうしていることを感じさせる。

「じゃあ、いただきますね〜」
「はい、どうぞ」

美味しそうに干菓子を頬張る桜子を見つめ、涼は優しく微笑んだ。だが、彼の眼差しには
わずかだが翳りが差していることに、桜子は──当然だが、気付いていない。

「ふぁ」

口の中に物を入れたまま、桜子は何かを思い出したのか何度か目を瞬かせた。

「ふぉーいふぇふぁ、うきはわはんふぁ?」
「はい?」
「んっく……そういえば、雪沢さんは?」
「ああ」

ようやく納得がいって、涼は障子の向こうに視線を動かした。

「雪さんなら、お風呂に入ってますよ」
「じゃあ、私たち2人っきりなんですね」

桜子の一言に、涼の身体がぎくりと強張った。
これまでわざと考えていなかったことをあっさり言われ、否が応にも隣に座る彼女の存在を
意識せざるを得なくなる。
しかし、ほんの一瞬、涼の脳裏に別の女性の表情が過ぎった。

気の強そうな瞳が涙で潤んでいた、彼女の顔。

「……っ」
「? どうかしました?」
「いえ……何でもないです」

黙り込んだ涼を見て、桜子は首を傾げた。最近、涼の様子がどこか奇妙であることに、桜子も
何となく気がついているのだが、よく分からないままだ。

(涼さんが人間だからかしら?)

桜子は人間と妖怪がどうとか、そんな難しいことを気にしたことはない。みんな仲良くできれば、
それでいいと思うのだ。
そう言うと、遍窟寺の仲間たち──特に年経た妖怪の多くが、曖昧な笑みを浮かべるのだけれど。

「よく分からないです〜」
「え?」
「あ、えっと……」

つい、頭の中で考えていたことを口に出してしまったらしい。

「その……涼さんが変で気になって人間だから、でも私は気にしないけどみんなは違うのかな、
なんて考えたけど、よく分からなくて……」
「はあ……」

涼にも訳が分からない。
とりあえず、自分の様子を気にしていることだけは間違いないだろう。涼は苦笑しながら言った。

「僕のことなら心配しないで下さい」
「……心配しちゃ、ダメですか?」
「桜子さん──」

彼女の不安げな表情に、ぐらりと心が揺らぎかける。抑えかけていた気持ちが溢れそうになって、
涼は思わず桜子の肩に手を掛けた。
けれど。

(僕は……)

傷つけるつもりはなかった。だが、自分の態度が知り合ったばかりの女性──河口真澄の心を
深く傷つけてしまった。今も彼女は、涼と距離を置こうとする。
そのことを思い出し、涼は躊躇してしまう。

(いいのか……こんな気持ちのままで……?)

「涼さん……?」

桜子の声に、戸惑いが帯びた。
それでも決して涼の手から逃れようとしない。受け入れてくれるのか、それとも拒否できずに
いるだけなのか……涼には判断できない。

「……」

互いに心を波立たせたまま、2人の距離は徐々に縮まっていく。
そして、あとわずかで唇が触れ合う寸前──。

「……大変いいお湯だったので、2人もお風呂いかがですか──と言いにきたのですが、お邪魔
でしたかね」
「!!」

涼の身体が一瞬で、桜子から離れる。
振り返ると、風呂上りでさっぱりした感じになった雪沢が佇んでいた。眼鏡の奥の瞳に悪戯めいた
輝きが宿っている。

「あ、ああああ、あの、こ、これは……!!!」
「気にすることはありませんよ、涼くん。恋に目覚めた君にとって、私など初春の路傍に
打ち捨てられた雪だるまのようなもの……さあ、どうぞ続きを」
「すいませんっっっ!! お風呂に入ってきます!!!」

まさしく、脱兎のごとく。
頬を真っ赤に染め、涼は風呂場へと駆け出していった。その後ろ姿を面白そうに眺めながら、
雪沢は襖を閉めた。
呆然としたままの桜子に、雪沢は微笑みかける。

「どうしました?」
「……えーと……涼さんは?」
「お風呂に行きましたよ」
「はあ、そうですか……」

いつも以上に桜子はぼうっとしている。

(ふむ……事及ばずとも進展あり、というところですかね)

などと思っていると。
桜子は心配そうな顔でお茶をすすった後、呟いた。

「涼さん…………目が悪いのかしら?」
「……はい?」
「だって、あんなに顔を近づけてくるんですもの。ちょっと心配です」

心配なのは貴女の方です、とは雪沢も告げることはできなかった。
と、その時──。

「うわあああああああああああっっっ!?」

風呂場の方向から、涼の悲鳴が轟き渡った。
それを聞いて数秒後。

「──しまった。つい、私の好みにしたままでしたね」

ぽん、と手を打つ雪沢に対し、桜子は首を傾げたまま。相変わらず、状況を把握していない
らしい。
雪沢の身体は、その生まれ故に冷気の固まりだ。好みも自然と冷たい方へ偏ってしまうのだ。

「まあ、彼も熱が出ていたようですし、特に問題はないでしょう」
「熱?! 涼さん、風邪なんですか!? じゃあ私、お布団敷きますね」

そう言ってそそくさと立ち上がる桜子。
うきうきと楽しそうに布団の支度を整える桜子を眺め、雪沢は思った。

(涼くん……前途多難ですねえ)

他人事ながら同情せずにはいられない。
けれど。

「あ、そうそう。枕は二つ並べておくと涼くんが喜びますよ」
「はい♪」

     
こうして楽しめるのなら、当分はこのままでいいかもしれない。