〜もう一度微笑む、そのために〜


「──和尚!!」

『飲む打つ買う』をモットーとする多々良柳水は、今日も元気に京都の華やかな夜へと
繰り出そうとしていたところだった。不意に呼び止められ、一瞬身体がぎこちなく硬直する
ものの、振り返って声の主を確認すると呆れた顔つきになる。

「なんじゃ、大輔か」
「なんだ、じゃないよ。目を離すと、すぐ消えるんだから……」

やってきたのは、小学生くらいの少年。鼻の頭や膝小僧に絆創膏を貼りつけた、今時
珍しくやんちゃそうな雰囲気を持つ子供だった。
彼は宝城大輔。柳水がまとめ役を務めるネットワーク“遍窟寺”の一員だ。

「和尚……あの、さ。ちょっとお願いがあるんだけど」
「ん? 一緒についてきたいのか?」

柳水──和尚がにやりと笑うと、大輔は頬を赤くした。

「ち、違うよ!! オレは……!」
「隠すな隠すな。男なら誰でもそう思うもんじゃ……まして、お主のように一人の女に
縛られておる身ではのう」
「だ、だから、違うんだってば!!」

和尚の『遊び』には、好奇心に負けた大輔もついていったことが一度だけある。
もっともその後、それを知った“遍窟寺”の面々の何人かに、こっぴどく叱られてしまったが。
大輔は真っ赤になりつつ、和尚の前に回りこんだ。

「欲しいものがあるんだ」
「金なら出せんぞ」
「それなら和尚に頼まないよ」

手厳しい一言のように聞こえるが、事実である。

「オレが欲しいのはさ……」

和尚が耳を寄せると、大輔は小声で告げた。
少年の欲しいものを聞いて、和尚は不思議そうに首を傾げる。

「それなら無いこともないが……何に使うんじゃ?」
「ちょっと、ね。どうしても必要なんだ」

どうやら話す気はないらしいと踏んだ和尚は、懐から古ぼけた鍵を取り出した。

「わしの部屋の戸棚、右上から三段目にあるから、勝手に持っていけ」
「ありがと!」
「言っておくが」

大輔の頭を乱暴に掻き回しつつ、和尚は一つしかない目でじろりと睨む。

「菊にバレても、わしは知らんからな」
「うん、分かってる」

もう一度礼を言うと、大輔は寺の中へと駆けていった。
和尚は無精髭でざらつく顎を撫でながら、喉の奥で唸る。おそらく危険はないだろうが、
やはり気にかかる。
それに、ああは言ったが、菊──化野菊がこのことを知ったら、間違いなく自分にも説教
……だけでは済まないはずだ。
じわり、と和尚の額に汗が浮かぶ。

「仕方あるまい……少々、手を打つか」

     

     
「──まったく! 少しは時と場所を選びなさいよ!」

十代半ばくらいの少女が叫ぶその横を、稲妻が走る。本物のそれと比べれば、可愛いもの
かもしれないが、並の人間なら黒焦げだろう。
少女は冷や汗が背を伝うのを感じつつ、ひたすら走った。彼女の背後に迫るのは、紫電を
纏うイタチのような獣──雷獣だ。
周囲に放電しながら、雷獣が少女に迫る。

「水! 水! ……ああっ、もう! ちょっとは手ぇ抜け!」
「ぐるぅおおおっ!!」

元々吊り目がちな瞳を更に吊り上げ叫ぶものの、逆上している獣には通用しない。
少女は舌打ちし、とにかく逃げた。だが、完全に姿を隠すわけにもいかない。こいつを
街中に放つことだけは阻止しなくては。
それが彼女──河口真澄の最後の意地だった。

     

事の起こりは、小遣い稼ぎに仕事を一つ請け負ってからだ。
真澄は、ろくでなしでごく潰しの父親から金を取り立てる日々を送りつつ、自分でもしっかり
稼いでいる。喫茶店「エンジェルブレス」のウェイトレスはあくまで安定した表の稼ぎ口。
人間たちの知らない夜の住人──妖怪たちの情報網を辿れば、真澄にもこなせそうな“仕事”は
意外と多い。

今回は雷獣の子供の捜索。天空にある隠れ里を勝手に飛び出した雷獣の行方を捜しているという。
調べてみると、雷獣が逃げた頃の隠れ里の位置が、ちょうど京都市の真上だった。
これ幸いとばかりに捜し始め、とある小さな公園で運良く見つけたと思ったのだが──。

(ちょっと甘く見てたかな……)

数メートルの距離を置いて、対峙する。
木々の間から差し込む夕暮れの明かりが、一人と一体を照らし出す。雷獣は唸り声を上げ、金色の
毛を逆立てている。

「あの、ね。もうやめない? 私は敵じゃないのよ?」

できるだけ優しく、諭すように告げる。
だが、雷獣の態度に変化はなく、むしろ警戒心を強めているようだった。

(……困った)

身を守る術なら少々扱えるが、色々と制約が掛けられているせいでこの状況では使いにくいし、
そもそも雷獣を傷つけては元も子もない。万が一殺してしまえば、報酬は無しになる。
真澄の迷いを感じ取ったのか、雷獣が動いた。

「──っ!」

速い!
まさしく稲妻のような素早さだった。上半身を仰け反らせた真澄の数cm隣を通り過ぎていく。
ほんの一瞬、肌をチリチリと灼くような痛みが走る。

「いい加減にしろ!」

叫ぶと同時に真澄の身体が反転し、右足が華麗な弧を描く。
素人には真似できない強烈な蹴りが、雷獣の腹部に炸裂した。だが、強靭な肉体をもつ妖怪には
さほど通用しなかったのか、雷獣はバランスを崩しただけだ。

「ぐるるるるっ!!」
「子供ってわりには結構頑丈ね……こっちと違って」

さすがに悔しそうに真澄は呟いた。
雷獣の唸り声は低く響き、その身に渦巻く怒りを表しているようだった。どうも火に油を注いで
しまった気もする。

(う……やりすぎたか)

たかが一発蹴り入れたくらいで、と思わなくもないが、少し気が短すぎたのも事実だ。真澄は
自分の堪え性の無さを反省した。元々気が長い方ではないが、どうも最近、感情のコントロールが
上手くいかない。
その原因は──分かっていた。

「なんで……本気になっちゃったかな」

朱雀院涼。
父の所属するネットワーク“遍窟寺”の一員。人間だが、先祖代々退魔師をしてきた家系
とやらで、彼もそうした技を使いこなす。
そして彼に対して……真澄は少なからず想いを寄せていた。

「だいたい、私みたいなスタイル良し性格良し経済観念まで完璧な美少女を無視して、
なんであんな春夏秋冬関係なしに万年常春な子を選ぶのよ……もうっ」

苛立ち紛れに足元を蹴りつけながら、真澄は唇を噛んだ。
だが、彼の隣にいるのが自分ではないことより、そのことに傷ついている自分を自覚する
方が悔しかった。
そんな弱さを、誰にも見せたくないのに。

「ガァッ!!」
「!」

真澄の隙をつき、雷獣が走った。半ば這うようにして彼女の足元へと近づく。
剥きだしになった鋭い牙が迫る。

(──ヤバいっ!)

真澄の全身を戦慄が包む。
彼女は並みの妖怪より打たれ強いとは言えない。所詮、人と妖怪の混血児だ。
が、その時。

「──我が敵を撃て! “紅蓮の弾丸”!!」

男の声が響くと同時に、真澄の視界が真っ赤に染まった。凄まじい熱気が彼女と雷獣を
吹き飛ばし、地面に打ちつけた。

「……なっ!?」

何が起こったのか、分からなかった。身体を起こしながら、声のした方を見る。

(……誰?)

まだ若い──おそらく二十歳には達していない青年だ。鍛えられた体つきや精悍さが漂う
雰囲気の一方で、どこか子供っぽさが抜け切っていない印象がある。
そして青年の周囲には、淡く輝く紙切れが何枚も宙に漂っていた。明らかに尋常ではない
気配を、その紙切れから感じる。

「ちょっと、あんた一体……!」
「奴の動きを止める!」

真澄の問いかけを無視し、青年が紙切れの一枚を手に取った。
人差し指と中指に挟まれた紙には、びっしりと文字が書かれており、それ自体が紋様に
なっている。「呪符」──そんな言葉が真澄の脳裏に浮かぶ。

「我が敵を捕らえよ! “深緑の縛め”!!」

青年が紙切れを地面に押しつけると、そこから緑色の蔦が伸び始めた。普通の蔦ではない
──妖術によって作られたものだ。
真澄がそう分析した瞬間、蔦は雷獣の下肢を絡め取った。雷獣は逃れようとするものの、
蔦はそう簡単に千切れない。悔しそうな鳴き声を、雷獣が洩らす。

「……ふぅ、これでよし」
「全然よくないわよっ!」

近づいていき、拳骨を一発。
深窓の令嬢と称してもいい外見と雰囲気からは想像もできない一撃が、青年の後頭部に
炸裂する。

「な……なんで殴るんだよ!」
「私ごとまとめて吹き飛ばしたでしょうが!」
「仕方ないだろ、あの場合」
「仕方なくないっ!」

真澄はもう一発、青年にお見舞いしてやった。

     

     
「……で、あんた何者?」
「あ……えーっと……か、河口さんの知りあいで、さ」
「あのろくでなしの?」

先程の“力”を見ると、やはり彼も“遍窟寺”の一員なのだろうか。
しかし真澄は彼を知らない。これでも遍窟寺には頻繁に顔を出しているのだが……。

「名前は?」
「ああ、俺はだい……」
「だい?」
「い、いや」

妙にしどろもどろになった青年は、額に手を当てて何やら考えている。

「だい……だい……そう、俺は大五郎っていうんだ」
「だいごろう?」

何度か目を瞬かせた後、真澄は吹き出した。そのまま、お腹を抱えながら笑う。
青年──大五郎は恥ずかしさに顔を赤らめつつ、唇を尖らせた。

「お、俺の名前なんてどうだっていいだろ! それより、さっきのはどういうことだよ?」
「さっき?」
「隙だらけだったじゃないか……真澄ね、じゃない、あんたらしくない」

彼が真面目な口調で言い出したので、真澄も笑いを引っ込めた。

「何を悩んでるか知らないけどさ……下手したら大怪我してたかもしれないんだぞ」
「平気よ、これでも妖怪の端くれなんだから」
「……そういうことじゃないだろ」

初対面のはずなのに、彼は真澄と知り合いであるかのような口振りで話す。
ただ、真澄にも大五郎とは初対面ではない気がしていた。話し方や仕草、表情などが誰かに
似ている。誰なのだろうか……?

「ね、本当に会ったこと、ない?」
「ないよ、うん。全然、ちっとも」

強調されると、なお怪しい。
真澄はじろじろと見つめた後、ふとあることに気がついて周囲を見回した。この辺りは
人通りが決して少ないわけではない。だというのに、これだけの騒ぎを起こしても、しんと
静まり返っている。

「大五郎くん、何かした?」
「“人払い”の結界を張ったんだ。ちょっと特殊なやつだから、結界内には妖怪か俺みたいな
能力を持つ奴しかいない。邪魔は入らないよ」
「そっか……」

真澄は、ほんの少しだけ張り詰めさせていたものを緩めた。

「……私らしくない、か。そうだね……きっと、そうなんだと思うけど」
「……」
「別にね、悩んでるわけじゃないよ。ちょっと……自分の中で踏ん切りがつかないだけ」
「踏ん切り?」

こんなことまで喋ってもいいのかな、と思いながら、真澄は不思議と素直に心を開いていた。
見知らぬ他人だという以上の気安さが、そうさせたのかもしれない。

「今までのことを無かったことにして顔を合わせるなんて嫌だし、だからって今の気持ちを
引きずったままなんてもっと嫌」
「だったら……どうするんだよ。涼さんには、もう……」

次の台詞を飲み込んだ彼を、真澄は見つめた。
『好きな人がいる』
どうせだったら、はっきり言ってしまえばいいのに──と思う。そんな中途半端な優しさは、
真澄にとって嬉しくはない。
けれど、少しだけ笑みがこぼれる。

「大五郎くんは……お節介だね」
「そうかな……」

大五郎は頭を掻きながら、呟いた。

「でも俺、あんたが泣いてるとこ……また見たくないからさ」
「! なんで私が泣いたこと知ってるのよ! ていうか、いつ見たの!!」
「あ」

慌てて口を塞ぐが、もはや誤魔化しようもない。
真澄が京都へ来て数ヶ月。その間で泣いたことなど、数えるほどしかなかった。もちろん、
泣いている真澄を見た者は更に少ない。
最も心当たりがあるのは──。

「もしかして……君って──」

この時、真澄も大五郎も完全に失念していた。
雷獣の存在を。

「がるううううううぅぅっ!!」

全身から激しい放電を起こし、蔦を焼き尽くす。と同時に空高く跳躍する。
2人の頭上を影が覆い、それはそのまま稲妻となって一気に襲い掛かった。

「!」
「──姉ちゃん!」

反応の遅れた真澄を、大五郎が庇う。雷獣の爪が左の肩口を切り裂いた。

「くっ……! “紅蓮の弾丸”っ!!」

流れ出る鮮血に構わず、大五郎は呪符に拳を叩きつけ、炎を雷獣へ放つ。だが振り向きざまの
一撃は、素早く動く獣にかすりもしなかった。
雷獣の次の標的は──真澄だ。

(せめて水があれば!)

彼女の唯一の攻撃手段には、どうしても水が必要なのだ。
公園内のどこかに水飲み場くらいはあるだろう。が、それを見つける前にこうなってしまった。
もはや、真澄に武器はない。

「──っ!」

稲妻が迸った。
真澄は半ば倒れるようにして、それを避ける。

(まずい……っ)

すぐに起き上がろうとするが、雷獣の方が遥かに早い。牙が、ぬらりと光った。
一瞬過ぎった死の予感に、真澄の身体が凍りつく。

「真澄姉ちゃんっ!」

知っている。
もっと幼くて、もっと頼りない声だけれど、真澄はその声を知っていた。
宝城大輔──あの単純で生意気な少年は、そのくせとても傷つきやすいのだ。何より、素直に
なれないところは自分とよく似ている。
だから……。

「──あっさり死んだら、あの道楽親父に笑われるでしょうが!」

拳を雷獣の顎に叩き込んだ!
完全に不意をついた一撃に、雷獣の身体が吹き飛ぶ。無論、真澄も無傷ではすまない。無造作に
振るった手が牙によって傷つき、血が零れる。

ぽたっ……。

「……え?」

微かな水音に、真澄は思わず視線を下に向けた。そして、小さく息を呑む。
水だ。
ありえるはずのない場所に、水が少しずつ溢れ出していた。いや、生み出されている。

(これって──まさか!?)

真澄の中で一つの推測が浮かびかけたが、今は雷獣の方が先だ。
そのまま手元にできた水溜りに手を突き、意思を集中する。無から有を生み出し、それを自在に
操る──物理法則を超えた力を、彼女は振るうことができる。
蛇神の血を引いている真澄が操るのは、水だ。

「それだけバチバチ放電してるなら──」

真澄の双眸がすっと細められた。

「これは効くわよね!!」

ごおっ!!!

水が動いた。流れたのではなく、意志を持ったように雷獣へと走る。まるで蛇のように波打ち
ながら、雷獣の腹部を撃った。

「ぎゃうっ!!」

電気を纏っている妖怪に、その一撃はかなり効いたようだった。半ば意識を失ってしまったのか、
雷獣は大地に倒れ伏したまま動かない。
思わず、真澄の唇から安堵の吐息が洩れる。

「……正当防衛よね、これは」

彼女はそんな風に呟いたが、あまり反省している素振りはなかった。

     

     
「……はい、これで終わり、っと」

大五郎の左肩と自分の手に簡単な応急処置を施した後、真澄はそっと雷獣に近づいた。

「危ないぞ」
「大丈夫……この子は、怖がってただけだから」

そう言うと、真澄は雷獣の身体をそっと撫でた。ショックのせいか放電はなくなっており、
サラサラとした柔らかい感触が心地よかった。
注意した立場がないと思ったのか、大五郎は不満そうな表情になる。

「どうして分かるんだよ」
「分かっちゃうの、自然とね」

相手の感情を読み取る力も、父親譲りだ。

「……ま、だからって本当に知りたい気持ちが分かるわけじゃないし、知りたくない時に
分かっちゃうことだってあるんだから……不便なんだけど」

想い人の気持ちの行く先を知ることができず、そして気づき始めた時には何もかもが遅く、
彼女の傷口をただ広げるだけの結果を与えただけだった。
役に立たない力だと、真澄は思う。

(でも、ね……)

ちらりと、大五郎を見つめた。
彼も興味を持ったのか、雷獣をじっと観察している。その好奇心に満ちた瞳は、真澄には
見慣れたものだ。
だから目の前の青年の気持ちは、術など使わなくても分かる。

「でも、時々は嬉しいこともあるから」
「?」
「さーてと、お仕事はこれで完了! 後は依頼人にこの子を返すだけね」

首を傾げる大五郎に、真澄は微笑みかけた。

「──で、悪いんだけど、遍窟寺の誰かに迎えに来てもらえない? この子を抱えていくと
目立っちゃうから。……いい?」
「ああ、分かった。あ、でも俺……携帯持ってないや」
「公園の傍に公衆電話があったから、そこで連絡取ればいいでしょ? 私はここにいるから」
「うん……あ、あのさ」

一度走り出そうとした体が、くるりと振り返った。

「元気、出してくれよな。……その、男なんていくらでもいるわけだし、あんたならきっと
モテるだろうし──」
「馬鹿言ってないで、さっさと行く!」
「は、はいっ!」

慌てて駆け出す青年の後ろ姿を見送りながら、真澄は苦笑した。

「つくづくお節介なんだから……お子様のくせに」

そして、

「──どこに隠れてるか知らないけど、いるんでしょ?」

少し棘を含んだ声で、彼女は周囲に向けて声を張り上げた。
大五郎の張った結界によって、人の気配は全くない。だが、真澄は確信していた。

「大方、あの姿になって無茶しないかどうか、和尚か誰かに頼まれたんでしょ?
もちろん、報酬つきで」
「……あいつは注意力散漫で助かる。楽な仕事だな」

真澄にごく近い茂みから、男の声が発せられる。

「この、ぐうたら親父。少しはマシな稼ぎ方したらどうなのよ」
「どんな稼ぎだろうと、金は金だ」
「じゃあ、その稼ぎ全部こっちに回してもらうから」

一瞬、茂みの奥の気配が怯んだように言葉を途切らせた。

「……お前、親子の情というやつはないのか」
「あるわけないでしょ、そっちが先に切り捨てたくせに」
「まあ、とにかく……あいつに惚れるんじゃないぞ」
「阿呆」

真澄は一言で切り捨てた。

「あの子は弟みたいなもので、恋愛対象にはなりえないの」
「“今”はな」
「しつこい。下世話な心配してないで、さっさと借金返しなさいよね」
「……ふん」

話はそれだけと決めたのか、声の主──河口智治の気配がすっと消えかかる。
と、真澄が思い出したように口を開いた。

「ねえ」
「……なんだ」
「一応、言っておくわ。借りを作るのも癪だから」

そっぽを向いたまま、真澄は少し言い淀んだ後で、唇から言葉を紡いだ。

「──ありがと」
「…………明日は槍が降るな。気をつけんといかんようだ」

言葉の端に笑いを滲ませると、父の気配が完全に消える。
真澄は少し頬を赤く染めていたが、自分の気持ちを誤魔化すように溜め息を吐いた。

「まったく……周りにああいう男しかいないから貧乏くじ引くのよ、私って」

しかし悔しいけれど、自分の気持ちが少しは落ち着いた気がする。まだ全てに整理を
つけられたわけではないし、答えだって何一つ見つかっていない。
それでも、今なら涼や桜子と会っても嫌な感情をぶつけてしまうことはないはずだ。

「……後ろ向きなのは、私らしくないもんね」

優しく、穏やかな風が吹く。
真澄は風になびく黒髪を押さえつつ、小さく微笑んだ。

     

……その後、真澄とあの青年が“再会”を果たすには、8年の歳月が必要となる。