ONLY 静まり返った暗い回廊に、規則正しい足音が響く。 明かりなど灯していない空間でも、それは迷うことなく。 回廊の淀んだ空気と闇を割るように、進む影はひとつ。 ところどころに設けられた、中庭を望める窓から差し込む月光に照らされて。 光の届かない闇と澄んだ月光のフーガの中を歩いていくのは、銀髪の聖騎士。いや、まだ見習いだろうか。鋭く大人びた薄水色の瞳と、その整った顔立ちに残る幼さが、アンバランスな雰囲気を醸し出し、見る者の目を捉えて離さないだろう。 「………」 光、闇、光、そしてまた闇、と回廊を彩る静かな色に染まりながら、少年は無言で歩いていく。 両手に抱えた数冊の書を時折持ち直すほかは、夜の中庭に目を向けることも、月明かりに足を止めることもなく、ただ黙々と。それはまるで、己を取り巻く世界全てを拒絶するかのようでもあった。 長い回廊は、やがて建物の奥へと続き、古ぼけた階段へと少年を誘う。 さすがに、踊り場にある天窓くらいでは、充分に月明かりも届かず、足元は薄闇に覆われていた。 「……光珠(ライトニング)」 立ち止まり、少年が短く呪文を唱えると、手の平に乗るほどの小さな明かりが闇の中に浮かび上がる。神聖魔法で作り出した光の珠は、少年を先導するように進んでいく。照らされる銀髪をさらりと揺らして、少年が階段を上がっていくと、同じような光珠を作り、降りてくる人影に出会った。 「アーカンジェル」 階段の上から見下ろす形で、少年に声をかけたのは、金髪の女騎士。こちらも聖騎士見習いだろうか、年の頃はアーカンジェルと呼ばれた少年よりも多少、上と見える。 「……フェンリエッタか」 足を止め、見上げた先に女騎士の姿を認め、アーカンジェルはホッと息を吐く。 まだ深夜というほどの時間帯ではないが、夜間に教団内を歩いていると不愉快な目に遭うことが多く、気を張っていた少年の表情がわずかに緩む。 「どうしたんだ、その魔道書は?図書室へ行くのか?」 「あぁ。ボッシュ様に頼まれてね。返却しに行くところだ」 出会ったのが友人であることに安堵していた少年の瞳は、先ほどまでとは違い、どこか優しい色を帯びていた。 数少ないどころか、気を許せる相手など彼女以外にいない少年にとって、フェンリエッタは唯一、親友と呼べる大切な存在だった。 蜂蜜色の豊かな髪を躍らせながら、フェンリエッタは階段を降りてくる。 「こんな時間に頼まれものか?急ぎでないのなら、明日でもいいだろうに」 「ボッシュ様もそう言って下さったけどね。早い方がいいだろうと思ったんだ」 自分が頼まれたわけでもないのに、不満げに唇を尖らせたフェンは、少年が両腕に抱えた本を半分ほど取り上げた。 「図書室までつきあってやる」 さっさと親友に背を向けて、階段を上がっていくその背中に、アーカンジェルはぎこちなくお礼の言葉をかけた。 図書室は、最上階の一角にあった。 利用する者など限られているためか、はたまた広いスペースを占領するためか、建物の隅へと追いやられている印象が拭えない。埃っぽく、昼間でも薄暗いその部屋は、夜訪れると寂寥感さえ感じられる。 それでも、アーカンジェルはこの空間が好きだった。 もともと本を読むのは好きだったし、この空間でなら、ひとりになれる。 大勢の人たちの中にいても、心のどこかで他人を信じられない自分。いつか誰かに己の罪を断罪されるのだという不安。 人を疑いながらも、その中で生きていかなければならないという矛盾が、アーカンジェルの心を慢性的に疲労させていた。 誰もいない図書室でひとりになれる時間は、仮初めとは言え、一時の安らぎを与えてくれる。 その束の間の心の休息が、窒息しそうなアーカンジェルには必要だった。 多分、それは彼の横に立つ女騎士も同様なのだろう。彼女はホッと安堵の息を吐きながら、共犯者の彼に問う。 「どの棚に戻せばいいんだ?」 「左奥の……一番下の段だ」 二人で図書室の奥へと向かう。目当ての書棚の前に屈み込み、アーカンジェルが空いているスペースへ魔道書を丁寧に片付けていく。 横で待つフェンを振り返り、残りの本を受け取ろうと手を伸ばすと、白い小箱が滑り落ちてきた。 「あ……すまない、アーク」 光珠と差し込む月光に照らされて、小さな箱は光を弾きながら、伸ばされていた手の中にすっぽりと収まる。小箱と言っても、布張りの上質な物で、小さな金色の留め金がひとつついていた。 落とさずに済んでよかったと思いながら、アークは小箱の持ち主へとそれを差し出す。 「なんだい?これ」 「……さぁ?まだ中を見ていないからな」 魔道書を床に置き、小箱を受け取ったフェンリエッタは、形の良い指先で引っ掻くように箱の留め金を外した。 親友が中身を確かめている間に、少年は残りの本を全て書棚へと片付ける。 隙間なく埋められた本棚に満足し、アーカンジェルは親友を振り返った。 いつの間にか彼女の作り出した光珠は消え、窓から差し込む月明かりだけがフェンリエッタの手元を照らしていた。 つまらなそうに箱の中身を見ていた彼女は、傍らの少年の視線に気付き、顔を上げた。 「終わったのか」 「あぁ、片付いたよ」 「……」 フェンリエッタは無言で箱の口を閉じ、無造作にそれを親友の少年へ放った。 「?フェン?」 「誕生日プレゼントだと。何を考えているんだか、あのじーさまは」 大袈裟に両手を広げて肩を竦めながら、フェンリエッタは近くにあった椅子を引いてドカッと腰を降ろす。 「……猊下から?」 アークの質問には、無言で頷き肯定の意を示す金髪の騎士。その若草色の瞳には、苛立ちに近い感情が揺らめいていた。 こちらに渡したということは、中を見てもいいということだろうと判断し、アーカンジェルはそっと小箱の留め金を外す。 窓から差し込む僅かな月明かりの下に姿を現したのは、緑色の石を使った見事なブローチだった。 石の周囲を金色の土台がぐるりと囲み、細やかな装飾が施されている。 女性の装飾品や宝石などにはほとんど知識のないアーカンジェルだったが、そんな彼の目から見ても充分に高価なものであることは想像がつく。 フェンリエッタへの高価な贈り物は、箱の外観と同じ白い布が張られた内側に、静かに沈黙していた。 「……とてもきれいだけど……しばらくは、使えないんじゃないか?」 「まったくだ。修行中の身で、そんな高価なものを身につけるわけにはいかないからな。それくらいの知恵も回らないほど耄碌したかと思うと情けない」 自分の祖父にあたり、また四相神教団の最高峰に位置する猊下を辛辣にこき下ろす孫娘。 「だいたい、一介の聖騎士見習いを特別扱いするような行動は謹んで欲しいよな。かといって、意固地に辞退して余計な騒ぎを起こすのも得策じゃない。だから、黙って受け取って早々に辞してきた」 「猊下は純粋に君の誕生日をお祝いしたかっただけだろう。そんなに邪険にすることないのに」 フェンの隣の椅子に腰掛けながら、少年はとりなすように言う。ただ、俯いたその顔はどんな表情をしているのか、長い銀髪と闇に隠れてしまっていたが。 「あのじーさんを見てると、何も知らないとは幸せなことだと思うよ。……誕生日が来て、ひとつ歳をとる度に、自分の罪がひとつ増えていく気がしてるっていうのに」 背を椅子の背もたれに預けて、彼女は天井を見上げながら呟いた。 いつも強気で不遜なその表情は、今は自嘲気味な笑みに塗り替えられ。若草色の瞳だけが、強い意志を手放すまいとでも言うように、闇の中で煌いていた。 「……」 同じ罪を背負った共犯者の少年は、かける言葉を持たず、戦友とも呼べる金髪の女騎士を見ていた。何事にも屈しまいとする彼女の強い眼差しが、少年の支えでもあった。彼女のように強く生きられたら、と時々思う。自分は、痛む心を壊れないように繋ぎとめるだけで必死だから。 生まれてきてはいけなかった子どもが、今も生きているという罪。 それは毎年ひとつずつ、確実に重くなっていく。 歳を重ねるたびに罪は増え。いつかその重みで動けなくなるのだろうか。 「……君は、おめでとうと言わないんだな」 ポツリとこぼれた言葉は、決して非難するわけではなく。むしろ信頼感を滲ませた安堵の色を帯びて。 天井を見上げていた緑色の眼差しが、少年に向けられた気配を感じ、アーカンジェルは視線を上げた。 「……言って欲しいのかい?」 「まさか。ちっともめでたく思えない」 生まれてきたことそのものを間違いだと知っている二人が、誕生日を祝えるはずもない。 白い蓋を閉じて、苦笑と共に閉じ込めた緑色の贈り物。 人の愚かさを虚しく示すその箱をフェンリエッタに返しながら、アーカンジェルは暗く笑って言った。 「同感だな。敢えて言うなら、『ありがとう』だろう」 「あぁ、それは最大の言祝ぎだな」 少年の言いたい意味を聡く感じ取り、彼女は満足気に微笑んだ。 今日まで、生き残ってくれてありがとう。 私を置き去りにしないでくれて。 それは、生きるという戦場での、戦友からの最高の誉め言葉。 ……それでも。 いつか、君に「誕生日おめでとう」と、心から言ってくれる存在が現れるように。 そう願うのは、自分勝手だろうか。 同じ傷を持つ自分には、決して言えないその言葉を。 笑顔と温もりに包んで言ってくれる存在を望むのは。 鏡のように同じ思いを持つ二人。 そのことをお互いに知ることはなかったけれど。 fin. |
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