Reverse



 神殿へと続く細い道を、十にも満たぬほどの少年が俯きながら歩いていた。
 広い街道とは違い石畳も敷かれていない農道は、時折土ぼこりを舞い上げ、少年の伸びかけた髪を嬲っていく。
 きちんと手入れをすれば美しいはずのまっすぐな銀髪は、どこか不揃いで、目のいい者なら、所々焼け焦げたような跡があることに気付いただろう。―――いや、髪を見るまでもなく、少年の整った顔には、いくつもの無粋な痣や傷が残っていた。
 少年の出で立ちとは対照的な、梅雨の合間の気持ちよく晴れ上がった昼下がり。
 まばらに点在する民家を繋ぐように、田畑に囲まれた一本道が伸びている。人影と言えば農作業をする男が遠目に見えるだけだった。
「アーク」
 前方からかけられた声に気付き、少年―――アーカンジェル―――は、立ち止まって俯いていた顔を上げた。
 小さな一軒屋から老齢の夫人が足早に出てくる。白髪交じりの髪は、農作業の邪魔にならないよう布でまとめられ、使い込まれた前掛けには、小さく泥が撥ねていた。
「ワイスさんの奥さん……」
「今から、神殿へ行くのかい?もう学校の勉強は終わっただろう?」
 人の良さそうなふっくらとした丸顔が、心配そうに少年を見下ろしていた。
「はい。でも……その、今日は神官さまにもう少し教団についてお話をしていただこうかと」
「……」
 老婦人の顔が、一層痛ましげに歪められた。
 王家のある街から程近いこの農村に、美しい親子が住みだしたのは数年前だった。人の口には戸が立てられないとはよく言ったもので、親子が加奈川圏王に捨てられた愛妾とその息子らしいという噂は、ここに住むものならば誰でも知っていることだった。気まぐれな母親が、時折息子に手を上げているらしいことも。
下手に他人が口出しをすれば、アークへの風当たりは強くなる。そう知ってからは、老婦人は少年を庇うことも助けることもできずに、ただ気を揉むばかりだった。
 今日も恐らく、母親の機嫌は悪く、家を追い出されたのだろう。幼い少年には行く当てなどない。それでも母を庇う利発な少年を、老婦人は痛ましく思う。
「アーク。神官さまのお話もいいけどね。ちょっとうちに寄っていかないかい?もうすぐクッキーが焼けるんだ。食べてお行き」
「ありがとうございます。でも……」
「いいからいいから。ほら、うちのじいさん、いつもの裏庭にいるからさ。ちょっと話し相手になってやってよ」
 年に似合わぬ遠慮を見せる少年の背を、老婦人は有無を言わさずに押しやる。遠慮ではなく、母親の機嫌を気にしての躊躇いなのかもしれないが。
 この年の子どもなら、甘いお菓子を手放しで喜ぶというのに……。
 裏庭へと向かう少年の背を見送りながら、老婦人は彼の幸せを四相神へ祈った。

「なんじゃ、小僧か」
「こんにちは。ワイスさん」
 小さな裏庭は、多種多様な木々が生い茂り、連日の雨で湿った空気を纏っていた。隙間なく埋めた、とでも言うように密集した木々はきちんと手入れされていて、鬱蒼とした暗さや圧迫感はない。
 その緑の真ん中に立っていた老人は、アーカンジェルの姿を見つけると、クイクイと手招きをした。
「?」
「奥さんにクッキーを食ってけ、とでも言われたんじゃろ?朝から張り切っとったからな。まぁしばらくつきあっていけ」
 老人は、アークの事情などお見通しのような口調で言う。自分の家内のことも『奥さん』と呼ぶワイスは、少し風変わりな老人として近所では有名だった。決して偏屈ではないが、一般的な大人には付き合いづらいらしく、どこか遠巻きにされるような存在だった。
「昨日の雨でな、甕が溢れたかと思ったんだが……」
 老人の視線の先には、ちょうどアーカンジェルの肩くらいまでの高さの甕がひとつ、芝生の上に鎮座していた。赤茶色の甕には水が一杯に張られているが、入れ換えはしていないのだろう。甕の内側にはびっしりと苔が生えているのが見えた。
「それ程溢れずに済んだらしい。ほれ、そこにボウフラが元気に泳いどるじゃろ?」
「はぁ……」
 ワイス老人の指差す先に、確かに小さな虫がピコピコと動いていた。
「ボウフラを見ていたんですか?」
「うん?別にそういうわけじゃないが。甕が倒れたりでもしてたら、この手じゃ起こせんからな。様子を見に来たんじゃわ」
 老人は肩から先のない左腕を、袖の上からパシパシと叩く。中身のない袖はゆらりと頼りなく揺れた。
 昔、傭兵をしていたという老人は、戦争で片腕を失ったという。それを機会に第一線を退いた彼の話は、さすがに経験豊富で話題に富み、アーカンジェルは面白く拝聴することが多々あった。
「ボウフラは、なんで逆立ちしてるんじゃろな」
「尾の端で呼吸をするためでしょう?前に教えてもらいましたよ」
「それなら、頭で呼吸すれば、逆立ちにならずに済むのにな。難儀なヤツじゃわい」
 ワイスはため息をつきながら、甕を覗き込む。
「確かに、ずっと逆さまなのは大変でしょうね」
「ボウフラにとっては、それが正しい位置なんじゃ。逆さまとは思っとらんよ」
 逆さまになっているのではなく、逆立ちをしている姿こそが正しい位置なのだと。
 なんとも相槌の打ちようがなく、アーカンジェルは黙って甕の中を覗き込む。相変わらず、黒褐色の蚊の幼虫は、ピコピコと小さく動いていた。

「あんたは、正しい位置か?小僧」
「え?」
 唐突に頭上から降ってきた老人の言葉に、思わずアーカンジェルは顔を上げる。
 見上げたワイスの表情は、先程見た奥さんの顔とよく似ていた。
「人は、水の中では上下が分からん。あんたは今、逆さまなんじゃろ。だから苦しいんじゃ」
「……」
「水に押し込める手ではなく、水から助け上げてくれる手があればよいのにな」
残念ながらワシの手は、奥さんを守るだけで精一杯だ、と残った一本の腕を上げてみせる隻腕の老人。
 何とも言えない悲しそうな顔を作るワイスから、アーカンジェルは視線を逸らした。
「私は、別に……」
「苦しくないと、言うんじゃろ?自分の正しい位置も分かっとらん証拠じゃな」
 責めるわけではなく、やさしい口調で言った老人は、片手で少年の頭をポンポンと叩く。
「ボウフラの話を覚えておけ、小僧。いつかワシの話の意味が分かるじゃろ」
「……」

奥さんが持ってきてくれたクッキーは、どこかほろ苦い味がした。



                            Fin.
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