Black Night

 僅かな夜風は、昼の熱気を吹き飛ばすほどに激しくはなく。
 吹いては止み、また微かに揺れる繰り返しに、窓際に立つ聖人は軽い苛立ちを覚える。風に揺られて捲り上がる書類の音が耳障りで、いつまでも片付かない仕事を督促されているような気分になるからだろうか―――。
 いや、違うな……。
 放り出した書類が乱雑に積まれた机から視線を外し、アーカンジェルはため息とともに夜空を見上げた。
 視界を遮るものは何もなく、開け放たれた窓からは、降るような星の煌きと、どこまでも広がる漆黒の闇が見えた。
「……」
 しばらく、その闇を見上げた青年は、諦めたように再びため息をついて身を翻す。部屋の中ほどまで歩を進め、黒檀の机から書類を一枚手に取ると、立ったまま目を通し始めた。
 重厚な机の隅には、書類の山に追いやられたかのように、小さな笹が置かれている。少し萎びたその笹には、紙の短冊が一つだけ揺れていた。

「……」
 しばらく書類を読み進めたアーカンジェルだが、肝心の内容が全然頭に入らない。何度目かのため息をつくと、書類を机に戻して、代わりに小さな笹を手に取った。
 神聖統合軍総帥執務室という厳めしい部屋には、少々不釣合いな緑の葉。細い茎に吊るされた短冊には、何も書かれていないように見える。それもそのはず―――短冊そのものが真っ黒なのだから。
 七夕という雅な響きをもつ今日この日には。
 離れ離れになった恋人が一年に一度だけ逢えるという伝承の日。
 そんな言い伝えすらも気にかけてしまうとは、我ながら情けないと苦笑を浮かべながらも、聖人は逸る気持ちを持て余していた。
 約束など、していない。
 逢える保証など、どこにもない。
 それでも。
 もしかしたら。
 ひょっとして。
 そう期待してしまうのは、何故だろうか……。

 身の入らない書類仕事を諦め、アーカンジェルは笹を手にしたまま再び窓へと向かった。腰ほどの高さの窓枠に腰掛けると、僅かな風に揺れる短冊の音が耳に届く。
 手を伸ばし、眇めるように笹を夜空へと向けると、闇夜に溶け込む短冊の色に少しだけ心が落ち着いた。
「……」
 何をするわけでもなく、暫くの間そうしていると、急に眠気が襲ってきた。
 最近、少し忙しかったからな……。
 ぼんやりとした頭でそう思いながらも、今更のように疲労を思い出した身体を寝台まで運ぶのも面倒で。
 窓枠に腰掛けた不安定な姿勢のまま、アーカンジェルは目を閉じた。

「アーカンジェル?」
 気遣うような小さな声と、そっと頬に触れる手の感触に、うたた寝をしていた聖人は目を開けた。顔を上げると、困ったような竜王の顔がそこにあった。
「あ……れ?ウル?」
 久しぶりの再会だと言うのに、何とも間の抜けた声が喉から洩れる。夢の続きか何なのか、咄嗟に状況が飲み込めず、アーカンジェルは目を瞬いた。
「どうしたんだ、こんなところで?具合でも悪いのか?」
「いや……そんなことはない」
「それならベッドか、せめてソファで寝てくれ」
 小言めいたことを言うなり、ウランボルグは誓約者を腕に抱え上げる。あっさりと窓枠を乗り越えて室内に入ると、とりあえず長椅子へと向かった。
「ウ、ウル!自分で歩けるから!」
「もう着いたぞ」
 広い執務室と言えど、数歩で辿りつける程度の距離。口論する暇もなく長椅子に下ろされ、アーカンジェルは仕方なく文句を飲み込む。
 おかげで頭がハッキリ冴えたところで、傍らのドラゴンに向き直る―――と同時に、再び腕の中に抱きすくめられた。
「逢いたかった」
「……私もだよ」
 色々と言いたいこと、聞きたいことは山ほどあったが、まぁいいか……とアーカンジェルは苦笑した。
 ドラゴンの背中に手を回すと、カサリと音を立てて萎びた笹が床へ落ちた。
「ん?何だ?」
 誓約者を抱きしめたまま、ウランボルグは視線だけを床へと落とす。性能のいいドラゴンの耳は、微かな音も拾ったらしい。
「ああ、笹だよ。今日は七夕だからね」
「七夕……?」
 すっかり忘れていた笹を床から拾い上げ、アーカンジェルは恋人に見せた。不思議そうに笹を見つめるウランボルグに、陽界の風習を説明する。
「願い事を短冊に書いて笹に吊るしたり、飾り付けをしたりするんだよ」
「まじないのようなものか?」
「そんな大げさなものじゃないよ。せいぜい気休めくらいかな」
 効果の程は知らないと、さらりと言ってのけた聖人は、笑って肩をすくめる。
そんなものより自分の実力を頼りにしなければ、大陸統一などやっていられない。
物珍しいのか、笹を受け取ったウランボルグは、ひっくり返したり、手触りを確かめたりしている。
不意打ちのように見せる幼げな表情は、成体になった竜王を年相応に見せ、アーカンジェルは小さく微笑んだ。
「ん?この紙……何か書いてあるな」
「……あッ!」
慌てたアーカンジェルは、反射的に恋人から笹を奪い返そうとするが、逞しい片腕に抱きこまれ、身動きを封じられた。
「ウルッ!」
「なんだ?」
「……それを返しなさい」
「イヤだ。何を隠している?」
 ドラゴンは空いているもう片方の手で、短冊を明かりに透かす。
 抱きすくめられたままのアーカンジェルは、どうすることもできず、せめて赤くなった顔を見られないよう、恋人の胸に顔を伏せた。
 一言だけ、黒い短冊に書かれていたのは―――。

『ウルに会いたい』

何も書かれていないように見えたのもそのはず。
黒い紙に、黒インクで書いてあったのだから。

恥ずかしがり屋の恋人のこと。きっと、仲間たちの冷やかしを受けないよう、見えないように書いたのだろう。
それならば書かなければいいのに、と何事にも率直な竜王は思ってしまうが、それでもひっそりと願いを書いた恋人の想いを嬉しいとも思う。

「……叶ったのなら、もう要らないな」
 頭上から降るやさしい声に、アーカンジェルは少しだけ顔を上げる。
床に落ちたのは、用を終えてハラリと舞う黒い短冊と、ひとつに重なる二人の黒い影―――。


Fin.
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