SWEET VALENTINE


 赤い髪を翻した学生が一人、人気のない校内を歩いていく。
放課後も始まったばかりの時間だというのに、部活に向かう生徒や他愛のないおしゃべりに興じる者の姿はない。それもそのはず、テスト期間直前の今日は部活も休止。ほとんどの生徒は、我先にと自宅へ帰ってテスト勉強をするのだろう。
 その『ほとんどの生徒』から漏れた成績下位者の由利鎌之介は、特に急ぐでもなく冷え込む廊下を歩いていく。呼び出しに応じて向かう先は、体育館の裏でも屋上でもなく、『休憩所』と――そのまんまの呼び名で――呼ばれているパブリックスペース。二月十四日の放課後の呼び出しとくれば、大抵の男子生徒なら浮かれる状況なのだろうが、残念ながらここ勇士学園は男子高。呼び出し相手も当然、男子。チョコの贈呈でもなさそうだし、場所的に考えても鎌之介の好む喧嘩の呼び出しではなさそうだ。
「ったく……喧嘩じゃねぇなら、何なんだよ……」
 呼び出し相手に悪態をつきながらも律儀に向かう理由は、
「……別に、無視する理由も、ねぇし……」
 本人にもよく分かっていなかった。

 校舎の二階、東側に面した休憩所は、廊下の一角が大きく張り出したようなものだった。特に扉も仕切りもなく、部屋になっているわけでもない。奥にはガラス戸が三枚ほどあり、テラスへ出られるようになっている。夏にはそのガラス戸を開けてカフェテラスのようにするのだが、真冬の今は締め切られている。
 北側に置かれた自販機が三台ほど、モーター音をうならせているのが耳につく。
いくつかのテーブルと、簡素なイス。いかにもあり合わせ、といった感じの不揃いなそれらの一角に目的の人物を見つけると、鎌之介は歩み寄った。
「おい。何だよ、こんなことに呼び出して」
 廊下側に背を向けて本を読んでいたらしい生徒が鎌之介を振り返った。
「テストのヤマカンだよ。お前の予想、当たるって聞いたから」
「はぁ!?…んだよ、それ」
 思いもしなかった言葉に呆れた鎌之介は、ポカンと立ち尽くす。確かに鎌之介はテストのヤマカンはよく当たる。但し、出題されそうな箇所が分かっても、その部分を覚えられるかどうかは別問題だ。結果、底辺の成績に甘んじているわけで。
「教えろよ。ジュースくらいおごってやっから」
 鎌之介を呼び出した生徒――霧隠才蔵――は、ポケットの財布を探りながら席を立った。
「……」
 問答無用で押し切られたような状況に、軽い不満が募る。唇を尖らせた鎌之介は、才蔵の座っていた席の前にどっかりと腰を下ろした。さっさと帰るつもりで持って来た荷物も、乱暴に隣へ放り出す。
「何がいいんだ?」
 自販機の前で小銭を出した才蔵が、振り返りながら鎌之介に問う。
「日本酒」
「アホ。ねぇよ」
「んじゃ、お茶」
「意外と地味なチョイスだな」
「その自販機、他に甘いもんしかねーんだよ」
 不機嫌そうに答える鎌之介。別にテスト範囲のヤマカン予想を教えるのがイヤなわけではないが、才蔵のペースで押し切られている現状はあまり面白くない。缶ジュース一本ごときで懐柔できると思われるのは癪にさわる。
「……」
 どこか拗ねた様子の鎌之介を少し見つめた後、才蔵は改めて自販機に向き直る。鎌之介の言葉通り、自販機にはおしるこ、イチゴミルク、ココアなど、誰のセレクトか知らないが異常に偏ったラインナップが揃っていた。

「急に呼び出して悪かったな」
「……別に、用事もなかったし」
「いや、その、俺もちょっと勝手だったっていうか、強引だったっていうか……まぁ、その、悪かった」
 ごにょごにょと謝りながら、缶を手にした才蔵は席に戻る。
 ――本当は、テストの範囲なんて口実で。何でもいいから一緒にいる時間を作りたかった、なんて言ったら大笑いされるだろうか?
「ほ、ほら、どっちがいいんだ?」
 鎌之介の目の前に差し出される烏龍茶と緑茶。『お茶』と漠然と注文したにも関わらず、少しでも鎌之介の意向に寄り添ってくれようとする――些細な気遣いに鎌之介も機嫌を直す。我ながら単純だとも思うが仕方ない。時折見せる才蔵のこんなさり気ないやさしさが、心地いいのだから。
「……こっち」
 受け取った缶の熱さと、少しだけ触れた指のぬくもりが心地よかった。

 才蔵がまず開いたのは、先程まで見ていた社会科の教科書だった。
「社会の範囲が『教科書全部』とか鬼だろ。甚八!」
 三学期最後の期末テストだからと、型破りな社会科教師は大盤振る舞いしてくれた。日本史の教科書丸々全部が出題範囲だという。
「鎌之介。あのオッサン、どの辺出してくると思う?」
 お前なら何となく本能で分かるだろ?――そんな内心の声が聞こえてきそうな形相の才蔵に、鎌之介は少し困ったように眉を寄せる。
 まだ開けていない温かい缶を手の中で転がしながら聞き返した。
「どこ、って言われてもな……。そもそも日本史の教科書って、どこからどこまで載ってんの?」
「……そこからかよ、お前」
 どうやら先は長そうだ。

 日本史を皮切りに、現代国語、数学……と数科目のヤマカン予想を終える頃、人気のない休憩所は薄暗く冷え込んできた。温かかったお茶も既に飲み終え、空の缶は隣のテーブルに押しやられている。
「次は、生物……だな。六郎センセも範囲広いんだよなぁ」
 ぼやきながら教科書を取り替える才蔵を横目に、いい加減集中力の切れた鎌之介は自分の荷物をごそごそと漁り出す。
「何か長引きそうだしさ、菓子食いながらやろーぜ。才蔵、何食う?」
 どーん!と一抱えはありそうな菓子袋がテーブルの上に出現した。
「なんだ、そのアホな量……」
「もらったんだよ、皆から!今日バレンタインだろ?」
「……」
 ――男子校だぞ、ココ。
 胡乱げな顔を見せる転校生に、「恒例なの!」と鎌之介は説明した。バレンタインやホワイトデー、ハロウィンなど行事ごとに皆が菓子をくれるのだ。クラス内外問わず、学年も問わず。一体誰から何をもらったのか、鎌之介自身も把握していない。それではお返しはどうするんだ?と思うかもしれないが、もらった菓子は休み時間などに結局皆で食べるので、あまり気にしたことはない。
「バレンタイン……にしては、チョコがねぇーみてぇだけど?」
「甘いものは嫌いだっつったら、せんべいとかにしてくれた」
 ポテチ、プリッツ、おにぎりせんべい、みりん揚げ、キャベツ太郎、うまい棒……結構な量と種類である。
「意外と人気者なんだな、お前」
「そーいうお前はどーなんだよ」
「あー……まぁ、一応?」
 才蔵の言葉と共に、制服のポケットから出てきたのは、チロルチョコ一個。教育実習生として来ている幼馴染みからもらった、義理と呼ぶにも程遠い同情票である。
 ちなみに、男子生徒として通学している伊佐那海は……
『ちゃんと用意したんだけどね!あんまりおいしそうでね!昨日、食べちゃったのぉぉ〜〜!ごめんね、才蔵〜〜!』
 ……ということだった。

「なんだ、それ。ダッセ!」
「俺もそう思う」
 鎌之介の呆れ声に、溜息で答える才蔵。伊佐那海の伊佐那海らしい行動に呆れての溜息だったのだが、鎌之介は違う意味にとった。
「……あー……、才蔵……チョコ、欲しかったワケ?」
 伊佐那海のチョコが、という部分は飲み込んで。
「ん?いや、別に?俺も甘いもん、そう好きじゃねぇし」
「好きじゃ、ない……」
 チョコの話だということはわかっているが、才蔵の口から出たその言葉がなんだか鎌之介の心を落ち着かなくさせる。
「?なんだよ?」
 そわそわしている様子の鎌之介に疑問を覚えながら、才蔵は手の中で弄んでいたチョコの包みを剥き始める。
「そ、それ!……食うのか?」
「そりゃ、まぁ、食いモン捨てるわけにいかねぇし……。お前、チョコ嫌いなんだろ?」
「え、あ……お、おう」
「なら、いーじゃねぇか」
 鎌之介のモヤモヤする感情を余所に、才蔵はぱくりと小さなチョコを口に放り込む。
 その長い指とか、ちろりとのぞいた赤い舌とか。
 何故か気になって―――鎌之介は、パッと顔を背けた。
「……」
 気を逸らそうと、山積みの菓子に手を伸ばす。ふいに、
「鎌」
 呼ばれて顔を上げると、すぐそばに才蔵の顔が近づいていて。
「何……んッ!?」
 鼻腔をくすぐる甘いチョコの香りとか、顔に触れる才蔵の髪とか。
 それよりもなによりも
 唇に触れる柔らかい感触が。
「はぁっ……才蔵……っ、んっ」
 一瞬離れて、また塞がれる。
 甘いチョコの味が侵入してきて、口の中に広がった。

 あぁ、甘い……けど、悪くねぇ。

「……なぁ、まだ、甘いの嫌いかよ?」
「嫌いじゃ……ねぇ、よ」
 赤くなった顔を伏せて言えば、才蔵は笑ってまた顔を近づけた。

 脳天を蕩けさせるような、甘さに溺れる――。
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