「あ?」
 手ぬぐいを繰る手を止めて、胡乱げに鎌之介を振り返る才蔵。珍しく静かにしていたから忘れかけていたが、そう言えば濡れ鼠のような奴が三和土にいた。そう思い出しながら立ち上がった才蔵は、ぎくり、と身を強張らせた。
 暗がりのせいか、どこか心許ない雰囲気を纏った鎌之介は、手ぬぐいを握り締めて立っている。いつの間にか上着を脱ぎ捨て、薄着になった鎌之介は線の細さを惜しげもなく晒していた。普段ならまだしも、雨に濡れた今はぺたりと張り付いた服が身体の線を浮き上がらせ―――扇情的に見せる。
 つう、と音もなく頬を伝う雫、とか。乱れた濡れ髪、とか。気まずげに才蔵を見上げてくる瞳、とか。
 ―――目のやり場に、困る。
 動揺した己に焦り、才蔵は殊更、ぶっきら棒に言った。
「お前、濡れたままじゃねーか」
「こんな手ぬぐい一枚じゃ、どーにもなんねぇよ……」
 いつものように無意味なほど喧嘩腰に怒鳴ってくるかと思ったが、返ってきた応えは――不機嫌そうではあったものの――予想外に静かで。その弱々しい答えに、才蔵は、眩暈のような錯覚を覚える。
 ―――なんだ?この違和感は。
「……お前、どっか痛いのか?」
 少し考えた末、才蔵が口にした言葉に、鎌之介は不思議そうに首を傾げた。
「はぁ?なんで?」
「いや、なんか元気ねぇっつーか」
「そんなんじゃねぇよ!」
 鎌之介は声を張り上げた。
 自分の間抜けなくしゃみで、真剣に作業をしていた才蔵の瞳が見られなくなったことが悔しかったとか。もう少し才蔵を見ていたかったとか――そんなことは口が裂けても言えるわけがない。
 フイッと横を向いた拍子に、くしゃん!ともう一度鎌之介の口からくしゃみが飛び出る。拭いきれなかった雨の雫が、三和土と廊下に飛び散った。
「あぁ。寒いのか」
 ようやく思い至った、という感じで才蔵は呟いた。
 夏とは言え、突然の雨に気温は急降下している。室内にいて難を逃れた才蔵はともかく、鎌之介は戸外で雨に打たれたのだ。体温を奪われ、気温の変化に身体がついていけなくても当然だろう。よく見れば、濡れた鎌之介の身体は小さく震えていた。
「仕方ねぇな」
 才蔵は溜息をつくと、廊下の端に手ぬぐいの束を――使用済みのものも、使用前のものもひとまとめにして――置いた。次に鎌之介の腰に手を伸ばし、一気にその軽い身体を肩に担ぎ上げる。
「……っ!?」
 視界がぐるんと回転して、何がどうなったのか一瞬うろたえる鎌之介。腹に当たる硬い感触――これは才蔵の肩、だ。ぐらぐらする不安定な状態に、思わずしがみつく先を探して、顔の横で揺れていた黒髪をむんずと掴んだ。
 視界に映る三和土に脱ぎ捨てた己の上着と手袋。いつもより少し高い視点。宙に浮いた己の足。様々な状況から、才蔵の肩に俵担ぎされていることを理解し、鎌之介は抗議の声を上げた。
「……才、蔵っ!何しやがる!?」
「風呂まで運んでやる」
 髪を掴まれた程度ではビクともしない忍びは、喚く鎌之介を肩に載せたままずんずんと廊下を歩き出した。
「なっ……風呂くらい、自分で行ける!余計なことすんな!」
「びしょ濡れのまま廊下を歩かれると迷惑なんだよ」
「そんなん知るか!下ろせ!」
「……黙ってろ」
 バタバタともがく鎌之介を取り落とすこともなく、才蔵は低い声で言い放った。
「……っ」
 至近距離での恫喝が効いたのか、鎌之介は静かになった。今のうちに、と足を早めて風呂場へ向かう。こんな真夏に風邪でもひかれたら、迷惑過ぎるにも程がある。
 才蔵は何も言わず、廊下を進んでいく。静かに降り続ける雨音がそれ以外の音を消すのか、家屋にいるはずの人の気配がしない。幾度か通路の角を曲がっても、誰にも会わないのは好都合だった。今の状態を見られれば、また鎌之介が喚き出すのは必至だから。
「……」
 肩口から、じんわりと濡れていく才蔵の服。濡れた鎌之介を担いでいれば当然のこと。冷たいはずの雨水が、鎌之介の体温と相俟って才蔵に伝わってくる。熱いのか冷たいの曖昧なそれは。
 それは、どこか溶け合っていくような、侵食されていくような感覚で。
 じわりじわりと。二人の境界が―――曖昧になっていく。
 ―――クソッ!
 才蔵は唇を噛み締める。そんなつもりではなかった。乱暴さを装って担ぎ上げて……顔を見なければ、平気だと思ったのに。
 震える細い肢体。しがみついてくる手。耳元で聞こえる息遣い。そして、熱――。
 錯覚だと分かっていても、閨の中で求められているような気分に陥る。
 早くなる鼓動が鎌之介には聞こえていないだろうことが、救いだった。

 広い湯殿はがらんどうだった。誰も使っていないにもかかわらず湯船が湯気を上げているのは、雨に濡れた者のために気の利く小姓が沸かしておいてくれたのだろう。
 才蔵は脱衣所ではなく、風呂場へ直行した。開け放した引き戸を後ろ手に閉め、
「ほらよ」
 担いでいた鎌之介を木板の上へ下ろす。肩にかかっていた重みが消えると同時に、触れていた熱も引き離され、ひやりとした感覚に襲われる。――熱い風呂の傍だというのに。
「お、おう……」
 向かい合った二人は、どちらともなくぎこちない笑みを口の端に乗せた。
「才蔵まで、濡れちまったな」
 鎌之介は、ぱたぱたと――取れるわけもないのに――濡れた才蔵の肩口をはたいて言った。水を含んだ忍び装束はその部分だけ色を替え、深く濃い闇色に染まっている。
 触れ合っていたその場所は、二人が溶け合っていた証拠のようで。
 鎌之介は触れていた指を、気恥ずかしげにそっと離した。
「ついでに俺も入るかな」
「へっ?……才蔵!?」
 才蔵は、濡れた己の上衣をばさりと一気に脱いだ。
 それが原因だったわけでもないだろうが、治まっていたくしゃみが鎌之介の口からまた零れる。恐らく、熱を与え合っていた身体が離れたことで、鎌之介の寒さもぶり返したのだろう。
「……仕方ねぇな」
 才蔵は笑いながらもう一度、先程と同じ台詞を吐く。
 そして今度は、担ぎ上げるのではなく――鎌之介を抱き寄せて、その唇を奪った。
 引き離された熱を再び混じり合わせるように。熱く。
「さい、ぞ……っ!」
 呼吸を乱した鎌之介が、才蔵の腕の中で抗議の声を上げる。だが、震える身体は、熱を、才蔵の熱を求めていた。才蔵の腕に添えられた冷たい指先に、ぎゅっと力が込められる。
 へそ曲がりな、その無言の要求に。
「……寒いんだろ?」
 声も封じ込めるように、口付ける。
 冷えた身体が求めるのは、熱い唇。それは本能のようなものだと言い訳して。
 深くなっていく口付けに――溺れていく。

 それは、夕立のような一瞬の情動かもしれない。
 すぐに終わってしまう気紛れな。
 それでもいい。今はこの通り過ぎる季節の情動に身を任せて。

 目を閉じて互いの熱に酔う二人の耳に、雨音はもう聞こえない。


 




 了
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