★その唇に、

「これでいいのか?」
「……いいの」
 目の前の黒い毛並みに顔をうずめながら、鎌之介は答えた。問いの主が近付く気配にも頭は上げない。甚八の長靴が立てる無機質な音は、動かない鎌之介の横で止まった。
「顔くらい、見せてやりゃいいのに」
「イヤだ」
 先程まで甚八と話していた相手は、きっと上田へ戻るのだろう。自分がここにいるとは知らぬまま、帰ればいい。知らせてやる必要も義理もない。そもそも突き放した相手がどこにいようが、アイツは気にしないだろう。
 視界を塞いでいても、船が動き出したのは、甲板の揺れで分かる。それとは別の動きを不思議に思い顔を上げれば、黒豹――ヴェロニカが立ち上がり、前足を突っ張るように身体を伸ばした。
 ずっと寄りかかっていたから、重かったのだろうか……そう思うと何故か、ジリ、と胸の奥が焦げる。縋る先を失った鎌之介の手は、固い甲板へ力なく落ちた。
 そのまま黒豹は他の場所へ行ってしまうかと思ったが、少しだけ体勢を変えて再び鎌之介の目の前に寝そべる。と、ちらりと誘うように視線を向けたあと、目を閉じた。
「……」
 鎌之介は恐る恐る手を伸ばすと、艶のある黒い肢体にもう一度身を預けた。知らぬ内に詰めていた息をほっと吐く。手の平や頬から伝わる体温が心地よかった。
「コイツ……気持ちいいよな……」
「ヴェロニカも嫌がってねぇのは珍しいぜ。気に入られたようだな」
「じゃ、触りまくっていい?」
「ははぁ。遂に海賊の嫁になる決心がついたか」
「なんでそうなる。俺は男だって言ってんだろ」
 眉を寄せて抗議しても、甚八は軽く笑い飛ばす。そのまま、どっかと甲板に座り込んで続けた。
「ヴェロニカを触りまくっていいのは俺様の嫁だけなんだよ。お前ならいつでも大歓迎だからなー?」
「……嘘つけ」
 ――そんな気はないくせに。
 フイ、と鎌之介は首を動かし、調子のいい男から視線を外した。
 先程のやりとりを聞いていれば、甚八が誰を想っているかなど丸分かりだ。それでも敢えて軽口を叩いてくるのは……。
「……情けねぇ」
 気遣われる、なんて――。
 特に理由もなくここまで同行してきてしまったが、甚八は鎌之介に何も尋ねてはこなかった。その大らかさに甘えて、上田からの使いが来ても自分はいないことにしてくれとだけ望んだ。
 鎌之介の様子がいつもと違うことは気がついているだろうに、普段通りに接して来る。これがこの男なりの気遣いだというくらいは鎌之介にも分かるのだ。ふさぎ込んでいる己を励ますための軽口だと。

「ま、気持ちはわかるぜ」
 俺様もフラレちまったから身だからなぁーと豪快に笑う甚八にイラついて、一旦外した視線を元に戻す。何を勝手に分かったような口を聞いているのだ、コイツは。
「そんなんじゃねぇっつの!」
「お前がそんなに落ち込むなんざ、どうせあの頼りない与頭が原因なんだろうよ?」
「そうだけど……そうじゃねぇよ!」
 フッたとかフラレたとかの色恋沙汰じゃないのだ、こっちは。
 何があったのかなど話してもいないのに、一緒にされるのは面白くない。
 ――いや、結局は似たようなものか。
『相手にならねぇ』
 相手にしてもらえなかった、という点においては。
「……」
 勘違いしてんじゃねぇと怒鳴りかけた口を閉じ、先程と同じ言葉が鎌之介の唇から零れる。
「情けねぇ、よな……」
 力なく頭を黒豹の背に乗せる。相手にされないなどいつものことなのに、何故か力が抜けてしまったようで。
「……」
 隣にしゃがみ込んだ甚八が煙草の煙をふーっと宙へ吐き出す。鎌之介は、その様をただぼんやりと眺めていた。
「なんか……らしくねぇんじゃねーか?」
「そんなこと、」
 わかっている。
 いつもの自分なら、何を言われようと、どれだけ邪険にされようと、気にせずにただひたすらに黒尽くめの背を追ったはずだ。
 殺す、殺す、アイツを殺す!ただそれだけのために自分は上田へ来たのだ。
 なのに……動けなかった。動けなくなった。言葉も出なかった。何も考えられなくなった。
 どうすればいいのか――、まるで分からなくなった。
 あの時、何が今までと違ったのか……。

「……クソッ!」
 鎌之介は拳を強く握り締める。混乱する自分に訳が分からない。
 何故だろう、こんなに胸が痛いのは――。傷を負ったわけでもないのに、内側から滲み出てくるような痛み。ちっとも高揚しない、不愉快な胸の痛み。こんな痛みは、知らない。
 痛みを堪える幼児のように、鎌之介は手足を縮めて蹲る。
『滾らねーよ』
 そりゃそうだ、こんな腑抜け野郎!
『気分転換にもならねぇ』
 そういって背中を向けた男を、何故自分は追わなかったのか。追えなかったのか。
 何故?何故だ?
「わかんねぇ、んだよ……」
自分の心が。

「……考え過ぎると、煮詰まるぞ?」
 蹲った鎌之介の朱頭を、甚八がポンとやさしく叩いた。
 その仕草は、触れる指の感触は、否が応にもあの男を思い出させて、鎌之介は顔を顰める。
「さわんな……」
 あの時のような激しい情動はない。その違和感に戸惑いながら鎌之介は弱々しく手を払い、顔を上げた。睨みあげる先には、当然あの男ではなく甚八の顔がある――そのことに、何故か動揺した鎌之介を余所に、甚八は短くなった吸殻を海へ投げ捨てて言った。
「傷の舐めあいくらい、いーだろ?」
 低い声とともに、近付く顔。――アイツじゃない、顔。
 おどけた口調とは裏腹に甚八の手は、やさしく鎌之介に伸びる。乱れた額の朱髪をゆっくりかき上げられて、鎌之介は眩しい陽光に目を細めた。だがすぐに、間近に寄った甚八の顔が陰になり、日差しを遮ってくれる。
「何……」
 問う声と互いの息遣いが触れる距離で。煙草の匂いが鼻につく。
 あぁ、そういやアイツは煙草なんて吸わなかったな……。
 髭だって伸ばしてねぇし、顔に傷もねぇ。瞳の色だって違う。
 ――違う。アイツじゃ、ない。

「……」
 近付く唇は、触れ合う寸前で止まった。
「……泣きそうな顔、してんじゃねぇよ」
「して、ねぇし」
 震える唇を開いた瞬間、瞳から溢れた何かが、鎌之介の頬を伝った。
「……」
 ポンと鎌之介の頭をひとつたたいて、甚八は無言のまま立ち上がった。遠ざかる足音を聞きながら、鎌之介は俯いて拳を握りしめる。血色を失った白い拳に、ぽたぽたと生温かい雫が落ちた。滲む視界のせいで歪んで見えるその拳を、傍らの温もりに押し当てて、息を吐く。
 抗議か返事か――ぐるっと小さく喉を鳴らした獣の毛色にすら、焦がれた男を思い出させられて、鎌之介の唇が戦慄いた。触れるもの、目に映るもの、聞こえる音、何もかもが、
「さ、い……」
 紡がれた言葉は意味を成さぬまま途切れた。
 口にしてはならない気がする。その名前は、まだ。
 零れてしまいそうなその名を決して呼ばぬよう、鎌之介は唇を噛み締めた。
 言葉の代わりに眦から雫が零れ落ちる。幾筋も。幾筋も……。


終。




鎌ちゃんは感情が未分化で、快・不快の大雑把な区別しかないと思うんですよね。
寂しいとか切ないとか愛しいとか、ちょっと複雑な感情はよくわからなくて混乱するんじゃないかなー。とりあえずあの忍びを殴り隊。
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