★19

 自室に戻ると、姫は羽織っていたガウンを脱ぐとそのまま床に落とした。絨毯の上に音も立てずに広がるその服を執事が拾う様を横目に見つつ、ベッドへ向かう。ひどく疲れた気がする。長い一日だったとも思う。
「姫、足の傷はいかがですか」
「ん……、平気よ」
 ガウンを壁際のハンガーに掛けた執事から零れる労わりの声。癖になっているような、ほんの少し眉を寄せた顔。いつもと変わらぬそのやさしさが、今は何故か無性に心に染みる。姫はベッドに腰掛けると、傷ついた左足を跪く執事に差し出した。
「……どこが平気なんですか」
 ルームシューズを脱がせ、姫の足を検分したライズは溜め息とともにぼやく。巻かれている包帯には、じわりと血が滲んでいた。クッションのついた足置き台に姫の細い足を乗せると、執事は部屋に準備しておいた消毒薬や新しい包帯を取ってきた。
 再び姫の前にしゃがみ込む執事に、少しだけ拗ねた声で強がりを言う。
「別に痛くないもの。昔から怪我とか傷とかには強いの、ライズも知ってるでしょ」
「だからといって、放っておいていいわけではありませんよ」
 言い切ったライズは、器用な手つきで包帯を取り替え始める。
「……いいのよ。あんな靴を履いて無事でいるより、裸足で傷つく方がマシだわ」
「姫。馬車の中でも言いましたが、王妃となるお方が子どものように走り回ってはいけませんよ」
「王妃になんてならないっ!」
「半蔵様は――いい青年ではないですか」
「いや!私は、あなたがいいっ!」
 視線を伏せるライズの首筋に、姫は抱きついた。足置き台が倒れ、包帯と消毒薬が絨毯の上に散らばる。足先に転がった邪魔な包帯を蹴飛ばしながら、姫は一層強い力で執事を抱きしめた。
 抱きつかれたままの姿勢で「姫」と短く嗜める声が少しだけ震えていたような気もするが、姫は幼子のように首を横に振る。

「……っ」
 儚げな背中を思わず抱き返してしまいそうになる手をぐっと握り込んで、ライズは姫の身体を引き離した。潤んだ秘色の瞳と視線が合い、嗜める言葉は宙に消える。
 涙が零れぬよう目を見開いた姫は、己から離れようとするライズを繋ぎ止めたくて必死に言葉を紡ぐ。
「あんな靴じゃ、走れないの。ライズ」
「姫はもう、走らなくてもいいんですよ」
 高いヒールをはいて、ゆっくり歩いて……そんな生活を守ってくれる手が差し伸べられているのだから。逆らって抗って傷つくより、素直にその手を取ればいい。
「いやよ……」
「多少退屈な生活でも、守って下さる方がいらっしゃるのですから……」
 姫の幸せを願うライズの言葉にも、姫は頑なに首を振る。
「そんなの、いや」
 走れない靴を履かされて、王宮と言う鳥籠に飼われるつもりはない。
 自由に走りたい。傷ついてもいいから、自由に。
 守るという言葉の裏で、閉じ込められるなど真っ平だ。
「私は、誰かに守って欲しいんじゃない!一緒に、生きていきたいの!」
 あなたと一緒に。
 今朝のように一緒の馬に乗って。雨の中、一緒に走って。
 そんな小さな思い出を、これからも紡いでいきたい。
「それなら、姫。これからは……半蔵様と生きていくのです。幼い頃から傍にいた執事との恋など、ただの夢物語です」
「夢物語なんかじゃない!私はいま、ここに生きているの。人形じゃない。誰かの所有物でもない。私のことなど人形にしか思っていない男と、一緒に生きていくことなんてできるわけないわ!私には私の意志がある。心がある。だから、分かるのよ……あなたを愛しているって!」
 他の誰でもない、あなただけを。
 勘違いなどではない。愛されたから愛したわけでもない。誰にもあなたの代わりなどできやしない。
 隣にいるのは、あなたじゃなければ意味はない。
 望むものは、それだけ。それだけだから――!
「あなたじゃなきゃ、だめなの!キスして、ライズ……」
「……」
 濡れた瞳が煌く。雨に打たれた子犬のようにも見えるそれは決して力強いものではない。しかし、輝きは失わず、逸らされることもなく、まっすぐに見つめてくるその瞳の気高さは――。飼われる愛玩動物ではなく、自力で生きていく逞しい野生を秘めている。傷つくことも多いだろう。けれど決して痛みから目を逸らさないその姿に、惹かれなかったと言えば嘘になる。
 そう、この高貴な魂は、傷つかぬよう守ってもらう手など欲していない。傷ついても自分の足で立ち上がるために、少しだけ――差し伸べられる手を欲している。
 例えば、古びた髪飾り。些細な言葉。涙を拭う手。そんな小さな勇気を少女に与えてきたのは誰だ?
 今ここで見捨てることができるなら、とうの昔にできていたはずだろうに。
 息を呑んだまま姫を見つめるライズの指が、ぴくりと動いた。

「私が、私として生きていくための……勇気をちょうだい」
 背に守られるよりも、一緒に戦える武器を。愛という名の絆を。心強さを。
 縋るわけじゃない。頼るわけじゃない。
 自分の足で立って生きていくために、あなたが欲しい……!
 引き離されたはずの姫の指が、再びゆっくりと男の顔に触れる。ゆるりと頬を撫でる指先は、人形にはない熱を孕んでいた。
「お願い。あなたに私をあげるから。全部、あげるから」
「姫……」
 掠れた声が男の喉から漏れる。
 目を逸らして、自分の心を騙していたのは、他ならぬ自分の方だった。いつだってこの少女は、まっすぐに自分を求めてくれていたというのに。
「私と一緒に、歩いて。ライズ!」
 傷ついてもいいから。血を流しても構わないから。
 血を吐くような悲痛な声で姫は叫ぶ。
「……ッ!」
 ライズの喉が声にならぬ音を立てた。
 これ見よがしに姫の手にキスをしていったあの男……嫉妬を覚えた自分を誤魔化せない。横柄で強引なあんな男に、渡すなど……できない。
 一緒に戦う。その覚悟をするだけでよかったのだ。身分とか、姫の幸せとか、様々なものに囚われて、大切なことを見失っていたのだろう。
「姫」
 無意識に上げた指先が、燃えるような赤毛を掠める。やわらかな髪の合間に触れた少しだけ固い感触に、ライズの指が止まった。
 髪色と同じ、バラの髪飾り――。それはライズにとっても大切なもの。姫に笑っていて欲しくて、懸命に考え抜いた贈り物。あの時の、姫を一途に思っていた心の結晶。
 震える指で触れれば、視界が晴れるように心がクリアになっていく。あの頃と同じ、ただ純粋な想いは、少しも色褪せてなどいない――!
 押し殺せると思っていた心が、封じた想いが堰を打ったように流れ出す。それはライズの口から零れ落ちた。
「私は……ただの執事です。何も、お約束できません。けれど、」
 言いかけた唇を白い指先がそっと押さえる。
「いいの。約束なんていらない。……大好きよ、ライズ」
「姫……愛しています」
 ようやく微笑んだバラ色の唇に、ライズは熱い唇を押し当てた。
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