Introduction
 私が登山に興味を持ちはじめた、中学生の頃だった。
 古い国土地理院の地図に、富士山の旧須山登山道をみつけた。広大な富士の裾野に頼りなく引かれていた点線。それは
大草原を直角に上へ上へと延びていた。富士山という「神の山」に、まっすぐに延びていた。
 そのときから私の「果てしなき旅」がはじまったのである。
 この『フェアリ―の森へ』という物語は、「果てしなき旅の途中で」という一連のエッセイを書く中で、数年前より膨らんできた
ものだった。
 できれば大人の目ではなく、社会のいろいろなものに関心を持ちはじめ、家庭という巣からそろそろ飛び出したくなる十四
・五歳の少年の目をとおして、自然を見つめてみたかった。それも私が育った富士山の広大な自然を。
 旅は少年が叔父(おじ)から聞いた妖精(ようせい)(フェアリ―)の森の話からはじまる。叔父の記憶の中から現れる妖精は
少年にとって、あるときは母であったり、妹であったりする。少年はむしょうにその妖精に会いたくなる。緑まぶしい里村から、
牛や羊の遊ぶ花の大草原へ、そして「神の山」へいたる森へ。春に咲くアシタカツツジ、オキナグサやナデシコ、夏のセンブリ
からマツムシソウ。草をしとねに岩を枕とする少年の憧憬(どうけい)の旅は続く。
 1泊2日の旅を自然と出会いながら描くうちに、季節を追って一年という時間に膨張していたが、それだからこそ、たくさんの
植物や動物と「ふれあう」ことができた。少年の謙虚(けんきょ)でいて、やさしい思いやりは、素朴でおおらかな人々との田舎
暮らしによって育(はぐく)まれたものと、私は信じている。
 私はネパ―ル・ヒマラヤ旅行中、2度にわたり「雪男」の頭皮を見る機会を得た。また氷河や4〜5000メ―トルの雪の世界
は、そのダイナミックな景観をして「雪男」の存在を私に確信させた。「雪男」の存在を信じるならば、妖精を信じるのはしごく
当然ののことである。
 カモシカや鳥、チョウなどの虫たち、そして花たち。霧や風、光。自然の中に私たちが溶け込んでいけばいくほど、人間は
ミクロ化して、コロボックルとなる。
 あるとき、自衛隊のヘリコプ―に乗って、富士山の裾野を俯瞰(ふかん)したことがあったが、衝撃であった。そう、人間が
鳥になる時ってあるんだ。
 人はいつでも童話の世界に入ることができる。『フェアリ―の森へ』はその入り口である。