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齊藤俊秀の我がサッカー人生 11 2012 3月号掲載 |
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★★★ 日々是チャレンジ ★★★ |
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これまでのサッカー人生を振り返るとチャレンジの連続であった。小学生 |
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時代にサッカーをやめなかったことで達成した全国優勝。入院生活から復活 |
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した中学時代。1、2年生時の早期敗退をバネに3年生で全国制覇を成し遂 |
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げた高校時代。親元を離れてスタートした大学生活では4年生の時にユニバ |
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ーシアードで世界一を達成。エスパルスに入団し、人生初の外国人監督の元 |
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でチームでの優勝と日本代表に上り詰めた20代。全治半年から1年と診断さ |
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れた2度の大怪我からの復活と慢性的な怪我に悩まされたエスパルスの晩年。 |
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新しい自分探しの旅となった湘南ベルマーレ時代。そしてJリーグを目指す |
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藤枝MYFCでの選手兼任監督としての挑戦。JFLで戦うチャンスを得た |
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今年は、チームの真価が問われる一年となる。 |
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「日々是チャレンジ。」晴れの日はもちろん、曇っても雨の日も風の日も常 |
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に挑戦し続ける。どんなことも素直に受け入れ、ありのままの自分であり続 |
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ける。自信を持ち、努力をし、最後まであきらめない。4月に39歳を迎える |
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が、年月を重ねるほどサッカーが楽しくなり、サッカー人生を送れることに |
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に喜びと幸せをかみしめている。今後も謙虚にかつ大胆にチャレンジを続け |
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ていきたい。 |
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一年間ありがとうございました。これからもよろしくお願いします。 |
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齊藤俊秀の我がサッカー人生 10 2012 2月号掲載 |
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★★★ サッカーの母国イングランド ★★★ |
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私はちょうど今、イングランドに滞在している。サッカーの母国イングラ |
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ンドを訪れるのは4回目。トットナム、チェルシーといったビッグクラブに練 |
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習参加した20代以来、久々の武者修行である。 |
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私がイングランドサッカーに大きな影響を受けたのは、エスパルス時代の |
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恩師アルディレスとペリマンの存在に他ならない。トットナムのレジェンド |
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である2人の影響力は現在もなお絶大。今回はペリマンがジェネラルマネー |
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ジャーを務める3部のエクシターシティというチームに深く帯同する機会を |
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頂いた。 |
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ホームゲームには5千人近い観客が集まり、100ページにも及ぶマッチ |
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デープログラムが発行される。ピッチでは全力でのプレーが繰り広げられ、 |
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一瞬足りとも隙のない雰囲気がスタジアムを覆う。選手、スタッフ、サポー |
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ター、ボランティア。チームに関わるすべての人々が誇りとリスペクト、 |
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そして自らを捧げる気持ちを抱いている。 |
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さらに特筆すべき点は、ピッチ内外でジェントルマン精神が深く根付い |
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ていることである。100年の歴史が築き上げたサッカー文化は、日本が |
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見習うべき点がたくさんある。自分の中に新たなモチベーションが湧き出す |
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かけがえのない経験となった。 |
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今回はトレーニングに参加し、オーガナイズもした。サッカーに言葉はい |
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らない。サッカーに国境はない。サッカーは世界を結ぶ素晴らしいスポーツ |
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だと改めて実感した。 (1月21日執筆) |
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齊藤俊秀の我がサッカー人生 9 2011 12月号掲載 |
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★★★元祖サッカー王国藤枝へ★★★ |
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ベルマーレでの2年間が終わった。エスパルスからはフロントとして戻る |
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選択肢を頂いた。しかし、選手として復活を遂げた自分には、ユニフォームを |
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脱ぐことに折り合いがつかなかった。アスリートとして限界まで追求したい。 |
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身体がボロボロになるまで戦いたい。29年間、私を成長させ続けてくれたサッ |
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カーのフィールドから簡単に離れることはできなかった。 |
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そんな時、伝統あるサッカーのまち藤枝でサッカーを続けるチャンスにめ |
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ぐり会えた。藤枝MYFCのビジョンを小山代表から聞いた時、私の心は震 |
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えた。アマチュアであろうが、県リーグであろうが、36歳を迎えるタイミン |
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グであった私にとって、この上ないやりがいを感じた。不思議なほど何のた |
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めらいもなく藤枝MYFCへの加入を決断したことを今でも鮮明に覚えている。 |
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やはり自分にはピッチで戦うことが性に合っている。汗を流し泥臭く自分 |
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をさらけ出すことが生き甲斐だと再認識した。仕事と両立しながらサッカーを |
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プレーする仲間との出会い。土のグラウンドでの練習、そしてグラウンド整備。 |
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限られた時間内でのナイター利用。水道水を飲み干し、用具も十分にない環境。 |
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13年のプロ生活でいつの間にか失っていたハングリー精神、サッカーの原点 |
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を思い出させてくれた。 |
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齊藤俊秀の我がサッカー人生 8 2011 11月号掲載 |
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★★★ 日本を代表して戦うということ ★★★ |
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少年時代、1986年のメキシコW杯予選を戦う日本代表はまさにあこが |
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れの存在だった。そんな日の丸のユニフォームが目標となったのは、私と同 |
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世代の選手たちが身にまとう姿を見るようになってから。 |
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プロ1年目の夏。25歳以下B代表のデンマーク遠征を経て、A代表に初召 |
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集された。学生からJリーグデビューし、さらに代表にも選出されるとは、 |
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半年前には想像もできないことだった。 |
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デビュー戦となったウルグアイとの国際Aマッチ。ピッチに立った時の緊 |
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張感は今も忘れることができない。翌年のフランスW杯予選を戦い、そして |
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98年、日本サッカー史上初のワールドカップ本大会に参戦。本大会での出場 |
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機会はなかったが、激動のアジア予選からフランスまでの経験は、10年以上 |
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経った今もなお鮮明に記憶がよみがえる。 |
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一挙手一投足に注目が集まる代表の試合は、テストマッチであっても決勝 |
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戦のような緊迫感があった。1プレーでもミスできない雰囲気さえあった。 |
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その経験からどんなささいなプレーでも大切にする姿勢を学んだ。また、国 |
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を代表して戦うことの重みや責任感を身にしみて感じた。同じことは対戦チ |
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ームからも感じ取ることができた。特に99年コパアメリカで対戦したペルー、 |
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パラグアイ、ボリビア。国を背負って戦う代表戦の厳しさを見せつけられた |
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経験であった。世界と戦うには、日本人としての覚悟が必要なことを痛いほ |
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ど感じたのだった。 |
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齊藤俊秀の我がサッカー人生 7 2011 10月号掲載 |
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★★★ 再生、湘南ベルマーレ時代 ★★★ |
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「選手としてこのままでは終わりたくない。」スタメン4試合、練習さえも |
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思うようにならない左膝の状態に引退も覚悟したエスパルスでのラストイヤ |
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ー(2006年)は自問自答の日々だった。しかし、依然としてサッカーに対 |
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する強い想いが自分を支配していた。 |
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2007年から在籍したJ2湘南ベルマーレは、枯れ木に水を注ぐかのよ |
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うに私を再生してくれた。初年度は公式戦50試合中48試合、2年目は43試 |
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合中39試合にプレー。2試合を除いてフル出場を果たした。「20試合出場で |
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きれば本望だろう。」晩年の苦しみを間近で見ていたエスパルスの番記者に |
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は想像し難い奇跡だった。勝負の世界で喜怒哀楽を繰り返した2年間は本当 |
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に幸せだった。選手として必要とされたことはこの上ない喜びであり、これ |
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ほど選手冥利に尽きるものはなかった。 |
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当初は単純に自身の再起とJ1昇格の目標に向かい邁進していた。J1 |
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昇格こそ叶わなかったが、湘南での日々を重ねるごとに、それらに匹敵する |
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いや、それら以上に価値ある別の要素を見つけ出すことができた。1つは私 |
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に光を降り注いでくれた仲間や湘南の地との出逢い。もう1つは素晴らしい |
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仲間や環境に対し、心から深く感謝する私自身の心境の変化だった。エスパ |
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ルスでキャリアを終えていたら得ることができなかった境地であろう。仲間 |
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に対する配慮、周囲への感謝、誰かに恩返ししたい切なる想い。人間として |
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大切な原点を思い出させてくれた湘南ベルマーレでの軌跡は一生の財産である。 |
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齊藤俊秀の我がサッカー人生 6 2011 9月号掲載 |
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★★★ 清水エスパルス時代 ★★★ |
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大学卒業後の進路は地元エスパルス。社会人としてのあらゆる生き方を |
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模索した上で、プロサッカー選手になることを決断した。故郷清水を選択 |
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したことは、甘えを捨て退路を断つ意志表示でもあった。 |
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大学まで培ったサッカー観でプロの世界に挑もうとしていた私にとって、 |
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アルディレス、ペリマンとの出会いは衝撃的だった。10時30分から始まる |
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全体練習が終わるのは13時過ぎ。その後、若手の居残り練習が始まり、14時 |
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15時に終了するのは日常茶飯事であった。試合翌日の練習でも、怪我人を |
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除きフルメニューを消化した。 |
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プロ2年目。代表選手という立場からプロの世界に安住の地を見出だそ |
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うとしていた私に、W杯優勝経験のあるアルディレスが発した生涯忘れら |
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れない言葉がある。「やる気のないマラドーナとやる気満々のホペイロ |
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(用具係)がいたら、何のためらいもなくホペイロを試合に使う。」 |
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常にオープンマインドな姿勢で前進(成長)し、殻を破り続ける意志を持つ |
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重要性を学んだ。身嗜み、服装などの規律を含め、「紳士(真摯)たれ」とい |
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う人生の教訓を2人から得た。新人王、優勝から始まり、フランスW杯も |
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経験したが2度の大怪我を経て、晩年は残留争い、メンバー落ちなど酸い |
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も甘いも経験した。11年ものエスパルスでの時間は濃密ではあったが、ど |
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こかに区切りがあっても良かったとも感じている。 |
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そして12年目。サッカー人生を賭け、湘南ベルマーレで新たなチャレン |
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ジをスタートした。 |
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齊藤俊秀の我がサッカー人生 5 2011 8月号掲載 |
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★★★ 人生の縮図、大学時代 ★★★ |
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人生で初めて親元から離れ、大都会東京でスタートした大学生としての新 |
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生活。井の中の蛙になりかけていた自分を見つめ直す貴重な機会となった。 |
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未成年から成人になり変わる4年間を寮で過ごした日々は、自立する大人へ |
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向かう階段のようだった。 |
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将来を嘱望された駅伝、ラグビー、野球部などの学生達との出会いは、自 |
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分の価値観を洗い直し、全国各地から早稲田の学舎に集った仲間との学校生 |
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活は、人間性を磨くチャンスを与えてくれた。 |
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多くの偉大な選手を輩出した名門早稲田大学ア式蹴球部は、大学サッカー |
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界を牽引すべき宿命を背負っていた。 |
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藤枝東で高校3冠を達成、後に日本代表で活躍した炎のストライカー、 |
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恩師松永章監督の下、大学選手権を2連覇した裏では、創部以来在籍した1部 |
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リーグの歴史を守るべく、常に2部降格の重圧と戦っていた。プロチーム以上 |
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の勝負への執念、執着心があったと言っても過言ではない。 |
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1年生はグラウンド整備から雑用までのすべてを全うする義務があったが、 |
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時々ミスがあると過酷な走り込みが待っていた。38歳になった今もなお身体に |
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無理が効くのは、大学時代の鍛練の賜物かもしれない。 |
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靭帯断裂、半月板切除という選手生命を脅かす怪我を乗り越え、4年時には |
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ユニバーシアード福岡大会で史上初の優勝を達成。ロシア、韓国といった優勝 |
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常連国を打ち破っての世界一は、長い共同生活から培った仲間達との兄弟家族 |
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のような信頼関係によって成し得た栄光だった。 |
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齊藤俊秀の我がサッカー人生 4 2011 7月号掲載 |
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★★★ 飛躍の時、高校時代 ★★★ |
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清水東高校が選手権で初めて全国制覇したのは、私が小学3年生の時。ブ |
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ラウン管越しに固唾を飲んで見守った選手たちの雄姿は、私の脳裏に強く刻 |
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まれた。 |
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それから7年後、憧れの選手たちの後輩となった私は、華やかな部分から |
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は想像できない厳しさを経験したのだった。日々の練習からの鬼気迫る雰囲 |
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気、試合に対する背水の陣とも言える覚悟。先輩たちの姿勢から、伝統のブ |
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ルーユニフォームを身に纏う重みを痛烈に感じた。文武両道を全うし、地域 |
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の模範となるべく一瞬たりとも隙を見せてはならない日々は、私の人生の大 |
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きな道標となった。 |
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1、2年時、選手権全国大会において早期敗退を繰り返し、人目を避け、 |
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敗軍のように清水に帰還したことは忘れられない思い出である。 |
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最終学年で迎えた地元静岡開催の高校総体。選手宣誓の大役を担い、決勝 |
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戦では東海大一(現東海大翔洋)との同郷対決を制し、全国制覇を達成する |
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ことができた。地元で生まれ育ち、子どもの頃から気心知れた仲間と成し遂げ |
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た夢のような優勝だった。全員がバランス良く力を発揮した努力型チームで |
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頂点を極めたことは、私の人生観に大きな影響を及ぼした。 |
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日本一の裏付けとなる特別な戦術や練習方法などは一切覚えていない。 |
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いや、存在しなかった。「努力は嘘をつかない、実直な想いは実を結ぶ、仲間 |
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との信頼から生まれるパワーは無限大。」謙虚な姿勢で文武両道を貫き、人 |
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間性を磨いた日々の積み重ねが、優勝という大きな賜物をもたらしたのだっ |
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だった。 |
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齊藤俊秀の我がサッカー人生 3 2011 6月号掲載 |
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★★★ 人生の岐路、中学生時代 ★★★ |
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小学生時代に激動の日々を過ごした反動は、中学生になって徐々に現れた。 |
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冬場の部活動は17時に終わるなど、小学生の頃よりも激減した練習量に、サ |
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ッカーにおける目標を失いつつあった。ナショナルトレセンにも呼ばれたが、 |
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成長期の早い仲間達との体力差を痛感し、練習を苦痛に感じたものだった。 |
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さらに追い打ちをかけたのは、1年生の終わりに患った髄膜炎。1ヶ月半 |
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の入院生活で、体力はおろか学力まで急降下してしまった。2年生も5月に |
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入り、ようやく登校することができたが、授業についていくことができず、 |
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体育では走りたくとも歩くことが精一杯の体力に愕然とした。 |
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「慌てなくていい。俊秀だってゆっくり進む時があっていいんだよ。」 |
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サッカー部の恩師に掛けて頂いたお言葉が心の支えとなった。向こう見 |
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ずになることなく、自発的に努力をする強い意志が芽生えた。入院以前は |
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皆無だった自主トレをスタートし、学業に対する取り組み方も劇的に変化。 |
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元に戻りたい、みんなに追い付きたいという一心だった。幸いにも半年 |
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後には、人並みの体力に戻っていた。 |
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中学時代の病気による試練は、自分自身の成長の大きな糧となり、高 |
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校時代の躍進への大きな原動力となった。我が人生にとって大きなター |
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ニングポイントと言っても過言ではない。当時の療養経験で得た忍耐力、 |
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反骨心、努力への目覚めが、私の人生における情熱の根底を担っている。 |
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齊藤俊秀の我がサッカー人生 2 2011 5月号掲載 |
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★★★ 糧となった小学校時代 ★★★ |
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プロ野球選手を夢見た私が有度一サッカー少年団に入部したきっかけは、 |
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友達が皆サッカーをやり始めたことだった。学校から帰宅後、手持ちぶさた |
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にしていた私を、仲間たちがサッカーへと導いてくれた。 |
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中学では野球部に入ると宣言していた私の世界観が変わったのは、選抜チ |
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ーム清水FCの入団テストに合格した3年生の時。日本一が至上命題であっ |
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た清水FCは、非常に厳しい規律のある集団だった。挨拶、身だしなみは当 |
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然のこと、リフティングのノルマをクリアした者から練習に参加できること、 |
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合宿では付け添えのシソやパセリに至るまで、すべての食べ物を食べ終わる |
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まで席を立てないことなど。泣きながらリフティングをする仲間や23時近く |
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まで涙を流しながら食事をする仲間もいた。どんな相手と戦っても全力を尽 |
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くして勝つこと。簡単にタッチへ逃れるプレーをしようものなら大目玉を |
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喰らった。体格が一回り違う一学年上の選手と対峙する時も、簡単に抜かれ |
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ることは決して許されなかった。土のグラウンドで身体を張り続けて刻ま |
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れた勲章(傷痕)は、今も私の足にしっかりと残っている。日本一を成し遂げ、 |
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出場した大会を総なめにした多くの裏付けがあった。 |
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小学校時代に学んだことは1対1、キック、ヘディングなど基礎的なこと |
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ばかり。それ以上に、我慢強さ、忍耐力、精神力、責任感の重要性を痛烈に |
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学んだ。体格の大きな選手に対抗するために、頭を使うことも養った。 |
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小学校時代の経験が私の人生に大きな影響を及ぼしたのだった。 |
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齊藤俊秀の我がサッカー人生 1 2011 4月号掲載 |
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◆◆◆ サッカーとの出逢い◆◆◆ |
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東日本太平洋沖地震で被害に遭われた皆様に、心よりお見舞いを申し上げます。 |
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私、齊藤俊秀は2年前より志太榛原地域をホームタウンとする藤枝MYFCで選手 |
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兼監督としてプレーしています。今回は今なおサッカーをプレーする私のルーツを |
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振り返ります。 |
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私が生まれ育った清水市(現静岡市)は、転勤族だった家族がたどり着いた最終 |
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到着地だった。物心ついた頃からサッカーに触れ、現在もサッカー人として生きる |
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私の運命の始まりであった。巨人軍に憧れていた幼少時代だったが、仲間がサッカー |
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の世界に導いてくれた。負けず嫌いの性格も手伝って、清水FCにも選ばれるよう |
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になった。しかし、寝ても覚めてもサッカーをやっていた少年ではなかった。そん |
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な私がサッカーから切っても切れなくなったのは高学年になってから。練習が楽し |
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くなり、仲間と試合で勝つ喜びを知ったのもこのころだった。トヨタカップで来日 |
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した外国選手のプレーに魅せられ、サッカーを観る楽しさを知ったのも、やはりこ |
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のころだった。小学6年時には全日本少年サッカー大会で日本一を経験。県大会 |
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(現NTTカップ)では有度一小で連覇を達成した。振り返れば、一心不乱にボー |
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ルを追いかけた日々がもたらしてくれた賜物だった。 |
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小学生時代に培った経験と当時お世話になった厳しくも温かい素晴らしい先生方 |
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のご指導が、現在の私の糧となっている。 |
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