チャイム。授業が終わって昼食の時間。教師はチャイムとほぼ同時に退散していた。それまで授業を進めることなくドアの近くで待機していた。みんな早くご飯食べたいでしょ、とのことだ。素直に感謝している生徒は多かったものの、そういうのを見たことも含めて僕の気分はむしろ不機嫌な方になるのだ。
「おういーっす」
でかい弁当箱と水筒を両手にでかい男がこちらの席まで来た。彼が僕の前の席の椅子にどすんと座った。かわいそうに。でも僕には関係ないことだ。おう、と返事をする。向こうも彼の席を使って楽しいお弁当の時間を過すのだ。窓際の女子一人の椅子が少し犠牲になっても仕方ないだろう。それよりも彼の大きい弁当箱が僕の机のスペースを結構占領することの方が僕にとっては大事なのだ。慣れたから抗議する気はもうない。黙々と食べるのみだ。一日三食。決まった時間に食事をしていると、どこか退屈になってくる。食事というのは生きるために必要な栄養を摂取するための作業でしかないような感じがしてきて。そこから想像が膨らんで、毎日その作業を繰り返しているのだ、なんて思ったりすると急に食事だけでなく自分の人生全てがつまらないもののように感じてしまう。だから昼休みに昼食というのはあまり好きになれなかった。もし食事の時間を大幅にずらしたり、回数を変えたりしても自分の人生はそう変わらない。面倒な学校と面倒な家の時間の繰り返しがそれだけで変化するはずがないと知っているから、仕方なく決まった時間に食事をすることにしていた。そうしていれば、人生への不満がそのまま食事への不満にスケールダウンしたまま生きていけるのだから。
「いやあこれだけが学校にいる楽しみだよ」
岡田が大量の頬の肉で目を押し潰した最大限の笑顔で言う。暑苦しいやつめ。きっと学校にいるやつの多くにとって最大の楽しみは昼食だろう。勉強しなくていい。誰かと話していてもいい。天国だ。だが彼が言うと他の生徒とは違った意味が含まれる。それは決して彼が太っていることに関係しているわけではない。
「まあ、楽だけどな」
適当に相槌を打ちながら箸を進める。この弁当だって僕にとっては楽しみではない。それにこの場から早く去りたかった。気のせいだといいのだが、彼ののん気な声のせいで周囲の気配がこちらを厳しく刺しているようだった。
「本当にもうさあ」ご飯を口に運ぶ間にそこまで言って、咀嚼のため黙る。飲み込む前に僕は彼に注意する。「愚痴は小声で」僕のその声も周りに配慮した声だった。「ああ、すまんすまん」彼の謝罪はさらに小さい声になって、ぺこぺこと頭を動かす動きさえ小さくなっていた。
「痛い思いをするのはお前の方なんだからな」僕は口に入れても問題ないだけの量を一気にかき込み、それらを噛むのもそこそこに一気にお茶で流した。そして皮肉を言う。「お前は太ってる分、刺さる視線も多かろうに」
苦笑い。ふひ、と岡田は笑う。「それに芝浜はすぐ教室から出てっちゃうからね」
「ならお前も外に出ればいいのに」
僕は弁当を空にして、口の中にあるのをお茶と一緒に飲み込む。見るとそこそこボリュームのある岡田の弁当はほとんど既に彼の腹の中だったがまだ残っている。今日はこっちの勝ちだ。しかし彼の食べるスピードの凄いこと。やはり口の大きさが決め手なのだろうか。
「外に行くより、ここで座ってた方が楽じゃないか」そう言うのはわかっていたので「なら勉強するとか」とすぐに次の提案を出す。だがこれも「休み時間はラノベの時間って決めてるからだめ」と却下される。
「結局そうなるんだな」弁当箱を鞄の中に入れてから溜め息と一緒に立ち上がる。彼なりの反抗のつもりなのだろう。岡田はにこにこしている。「せめて刺激しないようにしないとな」と言ってやると「そうするしかない」とにこにこしたまま頷いた。それにしても表情の意味がよくわからない。こちらは笑顔とは無縁な顔をしている。

教室から出て、真っ直ぐに外に出る。他の教室に知り合いはいないが、外には一人だけいる。外に出てからは小走りで移動する。今日はいるだろうか。いるかどうかはその場に行くまでわからない。遠くから姿を見られるような場所では彼女の縄張りとして意味がない。校庭の端。伸びた雑草を踏みながら進んで今はもう使われていない建物の裏側に回るとそこに少女が潜んでいた。
「お、いた」
近付くまでに散々音を立てていたから彼女は高校生らしい姿でこちらを見ていた。胸元を軽くはだけていたり、スカートを短くしていたり。品行方正な女子高生としては問題があるのだろうが、しかしこの程度なら教師も注意するくらいだろう。そんな生徒はたくさんいて見飽きていることだろう。髪を染めていないだけまだ上出来なのかもしれない。真っ黒であることは肩にかかっている髪の末端が制服の黒よりも濃いことからも疑いようがない。
「やっほ」佐々木春の挨拶はトーンがいくらか低かった。まぶたが微妙に下がっていて、真っ黒な目に光沢が見えない。不機嫌そうなのを無視して、彼女に近寄りすぎないように距離に気を付けながら自分が座るスペースを探る。適当な位置に腰掛けながら彼女を見る。見ながら位置を調節する。春は新しい煙草を取り出して、口にくわえていた。煙草のケースを鞄の中に落として、次にそこからライターが出てくる。右手でそれをいじって火がついた。左手の人差し指と中指で口の煙草を固定する。そしてライターの火が煙草にもつく。煙が出たのを見て、ライターの火が消えて次の瞬間には鞄の中へ落下していった。唇の中央で包むように煙草をくわえているのが左手に支えられていて、すぐほんの僅かに突き出すような形になっている唇から離れる。そして目を細めて煙草の先から出る白い煙を眺める。口から吹き出される細くて非常に薄い煙がそこを通過した。その彼女の一連の動作が僕はたまらなく好きだった。わざわざ座る位置を微調整するのもその顔をよりいい角度で見たいからなのだ。目と唇がセクシーでありながら無機質な表情は退廃的な色を帯びていてたまらなく美しく見える。そんな綺麗な表情を見せられてしまうと「健康によくないから煙草はやめた方がいい」なんて言葉は絶対に出せなくなる。そんな雰囲気をぶち壊すようなことはもったいなすぎて僕にはできない。
彼女がもう一度煙草に口をつけて煙を含んだ。そして口から離れた煙草の先端をこちらに向ける。「何か面白いこと、あった?」さっきと違って声のトーンも目の光も友好的だ。喫煙を楽しんでいる時にお邪魔すると、教師かと思って煙草の隠蔽に急ぐ彼女はいつもあのように不機嫌な顔を見せながら内心ほっとしているのだ。驚かすようなことをして悪いとは思うが、どうしようもない。「ないよ。全然」基本的にお互い面白いことはない。「そっか。こっちもだ」もう一度吸ってから携帯灰皿が出てきてそれに煙草を押しつける。処理してから次の一本へ手を伸ばすことはない。臭いを気にしているのだとか。隠れて吸っていても臭いで教師にばれたら仕方ないということでなるべく吸わないように、と言っていたが僕としてはもっと吸っていてほしいなんて思ってしまう。きっと控えめにしても気付かれる時には気付かれるのだから。時に見逃してしまうくらい彼女の美しい時間は短いのは残念だ。
「そういやさ、この建物、お化けが出るって噂あるって知ってる?」彼女の欲望を満たすためのアイテムばかり入っている鞄から次に出てきたのはコンビニのおにぎりだった。彼女の昼食はこれからなのだ。「いや、知らないけど」そう答えると包装を指定の順番で丁寧に開封しながら教えてくれた。「学校の七不思議、ってあるじゃん。うちの学校の七不思議の一つらしいんだけどさ」右手でつまんだカットテープをはがして包装を左右に分離させる。「なんでも、ここの地下から幽霊の声が聞こえるらしいんだよねえ」左、右と取り除いて三角の黒いおにぎりが手に残る。それを両手の指の先端で持って口に運ぶ。ぱり、と海苔が鳴って山が削られる。「地下、ねえ」春が咀嚼している間、そう呟いて間を持たせる。どうして地下なのだろうか。使われていないのだから別にただ単にこの中から声が聞こえるだけでよさそうなのに。「それでねえ、その幽霊の声が変なんだよねえ」
「変、ってどんな」
「女の喘ぎ声なんだって」春がそう言った直後「は」と唖然とした声が無意識に出てきた。「喘ぎ声?」彼女の言った特徴的なワードを反復するとおにぎりを口に含む春は、ん、と閉じた口から声らしいものを出しながら首肯した。「喘ぎ声って、七不思議的にどうなのそれ」と聞く。七不思議としてのホラーな雰囲気が官能のせいで一気に台無しになっている気がした。「怖くはないけど、多感な高校生には大人気」にやりと口元を上げて言った。それを聞いて僕は、だろうなあ、と溜め息をつく。「一体誰がそんな噂を流したのやら」それには春も、さあ、と首をかしげて食事を進めるだけだった。しばらく無言の後、「他にはどんな不思議があるんだ」と尋ねた。
「さあ。聞いたことない」
「こっちもない」
そのようなブームは過ぎ去ってしまっているのか。あるいは元々この学校には伝えるほどの不思議な現象がないのかもしれない。
「あ」思いつく。「それなら適当に七不思議を作るってのはどうだ。面白いことがあまり起こらない、とか」そう提案すると春もすぐに「七不思議その二。未成年が煙草を吸うと怒られる」と返してきた。「それは学校じゃなくて社会の不思議だなあ」そんな感じで七不思議として不満を言い合った。

戻る