読書について

 大学で専門にしていたのは国語です。悪夢のようですが、本当の話です。普段の私を知る人(主に先生ですが)が初めてこの事を知ると、だいたい7〜8割の人が「体育か音楽だと思ってた」と驚きます。始めに出会った頃、やはり「どう考えてもお前が国語科だとは思えない」と言っていた友人が、我が家に来て本棚を見てから、「分かった。国語科だということを認める」と白旗を揚げたというエピソードがあったりします。小説やらマンガやら雑誌やら、200冊以上の本がぎっしりと詰めてあったのだからそれもいたしかたないと思いますが。

 さて、その国語科ですが、残念ながら「僕は古典文学ゼミに入って枕草子の研究をするんだ」とか「万葉ゼミに入って、万葉仮名を読みこなしたい」という目的を持って入ったわけではありません。簡単に言うと、「国語だけで受験できたから」(※2次試験の話で、1次試験はしっかりと英語・国語・数学・世界史・地学と5教科受験しましたよ)です。

 もともと、勉強そのものも好きではありませんでしたが、特に受験のための勉強ほどつまらないものはありませんでした。知る喜びより、覚える苦しみの方が上回ってしまっていたからでしょう。そんなわけで、高校時代はまったくの勉強嫌いで、陸上と読書ばかりしてすごしていました。成績は当たり前のように低空飛行を続け、英語(勉強しないとぜったいにできるようにならない教科)など、学年●05人中●00番(●には同じ数字が入ります(∵U))という衝撃的な順位になったこともあります。さすがにこの時は冷や汗がでました。

 しかし、そんな状態でいたにもかかわらず、曲がりなりにも大学に受かったのは国語がそれなりの武器になってくれたからです。そしてそれは、どんな時も欠かすことなく読書を続けていたからだと、今でも思います。

 読書を通して身についた力はいろいろあります。まず、前述通り国語が知らず知らずのうちに得意になっていたこと。古文と漢文の文法と最低限の単語ぐらいは勉強しましたが、その他に国語の勉強をしたつもりはありません。しかし、文章を速く読んだり正確に読み解いたりする力が読書を通して身についていたためか、文章読解や漢字の問題などで困ったことはほとんどありませんでした。それから、活字に対するアレルギーが全くないこと。何かを読む、という行動は、実際に生活していく中では欠かすことができません。欠かしても生活を送ることはできるかもしれませんが、それではきっと足りないものが出てくることでしょう。例えば、電化製品を買ったときについてくる説明書ですが、読み込むといろいろなことが書いてあるんですね。ビデオデッキなど、ずいぶん多機能なものが増えていると思いますが、録画と再生しか使っていないなんて事もあるのではないでしょうか。説明書をよく読んでおくと、それ以外の便利な機能があるかもしれませんし、ちょっとしたトラブルならなんとなく予想がつこうというものです。また、これが読書の一番の目的かもしれませんが、様々な知識が増えたということがあります。多いだけで頭でっかちなところもあるかもしれませんが、あるに越したことはないかなと思っています。「百聞は一見に如かず」という言葉があって、それに乗ったかのように「体験、体験」と言われることも多い昨今ですが、要は知識と体験のバランスなんだと思います。

 いずれにしても、読書は必要なものだと思います。人は、様々な知的財産を生み出してきました。そして、それを記録するのに一番多く使われているのが、文字による記録です。その内容が難しい学術的なものであっても、人生についてのものであっても、恋愛についてのものであっても、記録されている形式はほとんど変わりません。先人たちが生み出し、私たちが享受している知的財産を次代につなげるためにも、やはり読書は欠かせないものなのです。

 と、小難しいことを考えながら、子供たちに読書を勧めています。

(03/08/31)

【BACK】