番外
諸井慶徳著作集 第3巻
ひのきしん叙説より P114〜118
現実の人間社会において極めて切実な問題は金銭の事柄であろう。 世界中多くの人が常に血眼になって追い求めているもの、それは金である。 「生命の次に何が大切か」こう尋ねられる時「それは金だ」と昂然として答える人が大抵であろう。 ひどいのになると「生命よりも大切だ」くらいに思っていないでもない。 そして金をより多く手に入れんとしてやっきになっているのである。 尤も一頃の如く食糧難になって来ると「金よりも食物の方が大切だ」という風潮もあろう。 しかしこれは食糧難という生命の際会しているからでもあり、かつインフレの中にあり金の価値が低下しているから特にしかるのであって、これは一つの変則的な一時現象に過ぎない。 処で金とはそれほど価値あるものであろうか。 それは確かにそうである。 人間生活は金という経済手段を媒介としなければ一日も営むことが許されぬからである。 しからば金そのものが無条件的に大切なのであろうか。 これが重要問題なのである。実にこの点の把握の如何によって、人生の行路は明暗その処を異にする。 この道の信仰においてはっきりと教えられる重要眼目の一つは、この金に対する正しき見解への推進である。 我々にとっては金そのものよりも、金に伴う理が大切なのである。 理のなき金、理に反する金、これ等はよしや獲得されても望ましいものではない。 理のある金、理のこもった金こそは最も大切な好ましいものなのである。 ではその「理」とはどういうことであろうか。 「理」一般に関する概念的説明は他の機会に譲ることにして、ここにはただ「金の理」についての説明に止めたい。 そもそも金の多いのは固より少ないのよりよいことかも知れない。 しかしただ多い少ないということよりも、まず根本的な問題となるのは、その金の出来工合で、如何にして金が出来たかという金の性質因縁である。 金として一番大切なのは、実にその量よりもその質である。 よしや百万円の大金であっても、つぶれる理の百万円であっては何にもならない。 それに反し、神の意に叶い、他人のためにも利益を与え、自分も結構を頂けるならば、そうした伸びる理の千円の方が余程尊くもあり望ましくもある。 世には随分質の悪い金がある。 初めから心に悪事を計画する泥棒や詐欺は勿論、たとえ法律には触れないでも、事実は人に迷惑をかけ、人を苦しめて、自分だけは金儲けになるというような金は最も悪質の金である。 又不用意のためにつくられる悪銭も多い。 表面だけ体裁よくつくろって通り一遍の仕事しかしないのに、給料や賃金だけ規定にもまして請求するというようなのがそれである。 このような悪銭は、結局は自分の手元におさまるはずのものではなくして、他人のものである。 かくて当然身につかずに出て行くのである。 まさに「悪銭身につかず」の諺の如くである。しかし実は単に身につかぬだけではない、金はつかぬが理がついて行く。 この「他人のものを自分の所へ一時でも無理に集めたために、その間他人に迷惑をかけ、自分も悪い心をつかった」これが金のとりもつ悪因縁として残されるのである。 ここに涙をもって果たさなければならなくなる。 どこの親でも子供に金を残してやりたいと考えているが、金を残して子供に与えるのが親の真の目的ではない。 子供に「しあわせ」な生活をさせたいというのが親の目的である。目的は決して金そのものではない。 「しあわせ」が目的なのである。 しかるにただ金さえあればいいと思っている。 そこに大きな過誤があるのである。かくして親はひたすら金を残して、それによって子供を極楽に行かせたいと思っているのに、かえって逆にその金のために子供を地獄へ落とすような反対の結果に導く悪性質の金がある。 金は神が授けてくださるものである。 そして又神がとり上げ給うものである。 金は交換の媒介手段である。 そこには動くことが前提される。 動かない金は無価値である。 「おあし」という如く金には足がある。 動く中でも神の御心にお喜び頂くような理をつくり、他人に救かってもらうような理を伴った働きからこそ、真に金の価値を全うせしめるものである。 金も又神の思召のままに授かり行く。 金のはからいに我を忘れるよりも、神意に叶うべき働きに己れを投げ入れて行くことが大切である。 ふじゆうなきやうにしてやらう かみのこゝろにもたれつけ と詠い給うたのはこのことを力強く諭されたのである。 この道のたすけ一条に挺身する者は、均しく無量の感慨をもってこの御歌を日夜吟誦するであろう。 それは自ずから金のはからいを忘れる処に、かえって神の御量りの辱けなさをまざまざと見出した体証の世界に生きる人々であるからである。 労働によって賃金を得る、商売によって利潤を得る、勤務によって給料を得る、いずれもそれはそれぞれの働きを世の中に捧げる処に自ずから授かる天の与えである限り、結構なものであろう。 多種多様色とりどりの仕事がある処に複雑な人の世が趣き深く営まれて行く。 何がいい、何が悪いというような画一的なものではない。 しかし根本は神の御心に添わして頂き、世の中のため、他人のため、よかれかしと念ずる心情あるのでなければ、そこには理の添わぬ金の獲得になって行く。 それも一時頬かむりで通り抜けることが出来るかも知れないが、長い眼をもって眺める時に、結局自分自らの墓穴を掘るに均しいことがわかる。 素晴らしい理を伴う金、限りなき理を宿す金、それはよしや一時は少額のものであっても、それこそ我々の頂くべき金、使うべき金でなければならない。 金の理を悟らんがためには、我々は金の入り方と共に、金の出方を反省するがよい。如何なる出方で出て行くか、如何なる使われ方で使われて行くか、それを思い見る時に、我々は理の一斑を今更のように知り得るであろう。 金をめぐり金を動かす我々人間として、最も好ましい歩み方は次の入れ方と出し方であろう。 (イ)神の御心に叶い、世のため人のためになる働きをすることによって、自然に授けてもらい (ロ)神の御心に叶い、世のため人のためになる働きへと出来るだけ捧げていく この心をもって営まれる経済生活こそ、我々の信仰の目標である。 |