天理教 Q & A


HOME


うきしま掲示板への書き込み、読み直してみると天理教Q&Aになっています。
ですので、こちらに載せることにしました。

青色質問で、茶色答えです。
話題は飛ぶし、かなりトンチンカンな答えもありますが、御容赦のほどを。

「教理のことは何も知らない・わからない」という方、まずは「天の定規」をお読みください。
その方がより理解できると思います。

富士市内には教会は何箇所くらいありますか?

富士市内には20箇所あります。


普通の家みたいな建物に看板がかかっているところもありますが、キリスト教会のように24時間出入り自由なのでしょうか?

夜になると鍵をかける教会もあり、開いている教会もあります。


教会名は地名ではないんですか?

地名の場合もありますが、教会成り立ちの過程で決めた名前もあります。


入会金とかお布施とかきまっているんですか?

入会・退会というものはありません。
御供の額も決まっていません。


お坊さんのように教会の人はお布施で生活しているんですか?

商人はお客のお金で、職人は施主のお金で、役人は納税者のお金で、家主は店子のお金で、サラリーマンは取引先のお金で、というのなら、お布施で生活しているということになるかと思います。
他からの収入で生活している教会の人もいます。


会長さんの役目とは牧師さんや神父さん、住職さんみたいに祭主というかそこで一番えらい人なんですよね? ちなみに会長さんの所でも人生相談みたいなことしているんですか?

相談事があれば、信者であるなしに関わらずもちろん応じます。


(教会で)普段はどんなことをされているんですか?

・月次祭、朝夕のおつとめ、またその準備、片付けなど。
・お願いづとめ、時間を決めて毎日することもあるし、お願いされればその時にもします。
・信者さんのお宅の祭典日(講社祭)にはそちらでおつとめ、また神様のお話をします。
・地鎮祭、葬儀、結婚式の祭官
・病人へのおさづけ取次ぎ
・布教

ざっとこんなところでしょうか。

教会の雑用もありますね。
庭を掃いたり、植木の剪定をしたり、花の世話をしたり。


天理教は神道なんですよね?

歴史的に、明治政府の公認を得るために神道の一派として申請していた、といったところでしょうか。


お盆は仏教ですよね? 天理教的な霊祭ってなにかやるんですか?

天理教では春秋のお彼岸にみたま祭をします。
大阪のほうではお盆に祭をするところもあるみたいです。
浮嶋分教会では、お盆は特にしていません。


毎月の祭典と(霊祭と)なにかちがうんですか?
内容だとか、お墓参りをするとか?

霊祭は、おつとめの後、祖霊殿で祭主が祭文奏上、礼拝し、それから参拝者が順次参拝します。
墓参もありますね。


結婚式とか葬式とかやる側と行く側、あまり神道の儀式って出たこと無いんですがどうしていますか?

葬式は、明治時代まではお寺の専売特許でした。
神官は葬儀を執り行っていなかったそうです。

結婚式も、今では当たり前のように神社で挙げますが、最初に神道式の結婚式を挙げたのは大正天皇でしたから、それほど歴史的には古くありませんね。
それ以前は人前式でした。
時代劇なんかでやってる「たかさごや〜」みたいなものを想像できますね。

天理教では教祖の前で盃を取り交わし、親神様にお礼のおつとめをします。
ですから、神前結婚とはちょっと違うでしょう。


成人式とか七五三、お宮参りなど日本の伝統儀式みたいなものもやるんですか?
神社は神道でも宗派が違うからそれぞれの教会にいくんですか?

日本の節目節目に行われる儀式を「天理教ではどうする」というようなことは決まっていません。
しかし、親神様に奉告したいという気持ちは大切ですから、その心を持って参拝されたらよいかと思います。


(上記と関連) それって、「生きていることに感謝する」ってところですか?

生きることが当たり前な今の日本、七五三は単なるイベントになっています。
でも、乳幼児死亡率の高かった昔、3歳、5歳、7歳と、年を重ねて無事に生きる、ということはとてもありがたいこと、めでたいことでした。

生きていることが当たり前の国にいる、というのはしあわせなことなのですが、そのぶん、生きる喜びは希薄になりますね。
ですから、「生きていることに感謝する」というのはとても大切なことだと思います。


昔の人は天理教の人が拝んでくれると病気がよくなるから「おがみやさん」と呼んでいたと聞いたことがあります。

天理教では「おさづけ」と言って、「なむてんりわうのみこと」と親神様を拝んで病んでいる所、痛いところを撫でます。

子どもがいたずらしたり、ふざけていて、時に度が過ぎて、おデコをぶつけたりヒザ小僧をすりむいたりしたら、お母さんはやさしく抱きしめて「大丈夫だよ…」と痛いところを撫でますね。
いたずら、悪ふざけのことは置いておいて、まず「楽にしてやりたい」と思いますよね。

親神様は人間の親ですから、「痛い、痛い」と子どもが泣いていたら、撫でてやりたい、楽にしてやりたいと思うのです。
ただ、人間は直接神様に触れることはできませんから、よふぼくが代理となって撫でる行為をする、それがおさづけです。

※よふぼく : 別席という話を9回聴いておさづけの理を拝戴したひとのこと。


精神病など目に見えないばあい(他人から見ておかしい状態の人)や3大成人病の元肥満などの場合はどうなのでしょうか?

精神病はなかなか治りにくいようですね。
1度のおさづけで治ってしまう人もいれば、修養科というところで何回も修養することでだんだんと回復する人もいます。


スマトラ沖地震ではたくさんの犠牲者が出ましたが、被災地の一つスリランカで、津波による精神的ショックをおさづけで治癒しようと活動している人たちがいます。


肥満はストレスから来たり遺伝だったりしますが、予防医学となると病気ではないのでしょうか、それにはまず原因のストレスを解消するようになるのでしょうか?

「心の守りが身の守り」という教えがあります。
「病の元は心から」「心の埃、身に障り付く」とも教えていただいています。
ストレスというか、心の在り方をどう変えていくかということでしょう。


「痛い痛いの飛んでいけ〜」て脂肪も精神疾患もとんでいくといいんですが・・・・

肥満というのは脂肪が多いということ、栄養を蓄えているということですね。
肥満が病気原因のひとつというのは、必要以上に溜め込んでいる、ということ。
必要以上に「ほしい」と思い、身を使うことを「おしい」と感じている。
「欲」の心が強いということかもしれません。

ひとつの悟り方として、このように考えることもできる、ということです。
肥満は悪い、と言っているのではありませんので、誤解のないようにお願いします。


ちなみに病気治癒の奇跡は現代でもあるんですかねぇ?

あります。


最近すごく調子が悪い。
肩凝りからと思うけど、耳鳴り、めまい、頭痛、そのたもろもろ・・・・
それこそ「おさづけ」を体感してみたい気分。

ぜひ、体感してください。

よふぼく(おさづけの理を拝戴した人)ならどなたでも取次ぐことができます。

ところで、「自分のおさづけは効く」とか「効かない」とか言われる方があります。
が、難行苦行、厳しい修行して会得するのではなく、別席の話を9回聴いたらおさづけは戴けるのです。
「効く、効かない」は親神様の働きなんですね。

もちろん、日々に心のほこりを払うよう心掛けることはしないといけないんですけどね。

おさづけの効き方には個人差があります。
なぜなのかは、神のみぞ知る、としか答えられませんけど^^


おさづけを取り次ぐ人はそれなりといっては失礼ですが、
治してあげたい、助かってもらいたいというきもちでお祈りしてくれると思うのですが、
おさづけをしてもらう人は

1・気休めだろう
2・藁をもつかむ思い
3・かならずよくなる
4・治ればラッキー
などいろいろの思惑があると思います。

信者だけでなく信者でない人は特にためしに御願いする程度の気持ちでもご利益はあるのでしょうか?

人間はみな、親神様にとってかわいいわが子です。
信者であろうとなかろうと、たすけたい一条なのです。

ただ、おさづけが効くのか効かないのかには個人差があり、その時々によっても違います。
取次ぐ方が「今日の夕食なんだろう」と思いながらでも、効く時は効きます。
取次がれる人があくびをしていても、効く時は利くでしょう。
その辺は親神様の深遠なる思召によりますので、なんとも言えません。
しかし、取次がないより取次いだ方が御利益はあります、たとえそれが薄紙一枚の差だとしても。

傾向として、無心になっている状態の方が効能は現れやすいようです。
出直した方におさづけを取次ぐと、「硬直していた身体が柔らかくなる」というのはよく聞きます。

一生懸命願っても、みかぐらうた九下り目にありますが、
「よく(欲)があるならやめてくれ、かみ(神)のうけとり(受け取り)でけん(出来ん)から」
欲があったらよろしくないと。

おさづけを取次ぐ時に「効かなかったらどうしよう」と考えたこともありましたが、そんな時は「働かれるのは親神様、教祖」と自分に言い聞かせつつ取次ぎました。
よふぼくはおさづけを取次ぐだけなんですね。
おさづけの理を拝戴するのは、超能力を授かることではないんです。

おさづけによって御利益をいただいたとしても、心遣いや行いを改めることがなければ旧の木阿弥です
大切なのは、陽気ぐらしの方向に心の向きが変わってゆくことです。
心通りの守護ですから、心がよい方向に変われば運命もよい方向に変わることになります。


理という言葉をよくきくんですがお授けの理以外にも理って言葉はどういうときにつかうんですか?

年限の理、旬刻限の理、教祖存命の理、一手一つの理、こうのうの理、天然自然の理、……
たくさんありますね。
三原典の一つ『おさしづ』には、ほんとにたくさん出てきます。

「理」とはとても深くて広い言葉です。
ある意味どうとでも解釈できる言葉なのですが、別の言葉にすると、物事の成り立ち、筋道、法則、つじつま、道理、こんなところでしょうか。
「理」が出てきたら、これらに当てはめてみると意味がわかってくるかと思います。


>理って言葉はどういうときにつかうんですか?

人を煙に巻くときに使います^^
「理」を使わなくてすむものなら使わないほうがよいのではないかと個人的には思っています。
理に適ったことばの使い方をしたいものです。


間違っているものはありますか?

1.駅前とかで手かざしをしている宗教(私はこれは天理教じゃないとおもうんですが・・・)
2.太鼓見たいのをたたきながら念仏のようなことを唱えている(法被を着ているらしいので天理教?)
3.道端にいる占い師は天理教の人(そういうことも教えてるのか偶然なのか???)


>1.駅前とかで手かざしをしている宗教

真光ですね、手かざしは。
おさづけは、手を振り悪い箇所を撫でますから違いますね。



>2.太鼓見たいのをたたきながら…

日蓮宗系だと思いますけど。
法被を着ていませんでしたが、うちわ太鼓をたたきながらお題目を唱え歩いているのを見たことがあります。
天理教の神名流しは、拍子木をたたきながらよろづよ八首を歌うのがふつうです。



>3.道端にいる占い師

占いを通して布教している人はいるようですが、身近にはいないのでどんな風にやっているのかわかりません。


占いのこともう少ししりたかったなぁ・・・勉強方法とかそんなサイトないかなぁ。
でも占いを否定していないということはたしかなようですね。

天理教の教理に占いはありません。
ですから、占いの中身は他所で学んだはずです。

占いによって未来がわかれば対処する心のあり方や身の処し方もわかるわけですから、人だすけの方法としては便利かもしれません。
ただし、占いはあくまでも人を導くための入り口ですね。

付け加えれば、人だすけの場数を踏んでいると人のいんねんが見えてくることもありますので、第一線の布教師に「占いが必要か」と問えば、「別に…」という答えが帰ってくるでしょう。


本で『天理教徒キリスト教の対話』の本を読ませていただきましたが、元の神といわれているので一神教とは大きく違うと思いますが、俗に言うカルト宗教にたいして(統一教会やエホバ、仏教系の怪しい団体など)はどういう立場をとられているのでしょう?

救出団体があったり相談窓口があったり、もしくはすべて神と認めているからあえて争わないのですか?

カルト教団といわれる団体は、宗教の名を騙り悪質な集金行為をしているところです。
宗教ではないということですね。
しかし、表向き違法でなければ宗教法人の認可は受けることができます。
オウム真理教の登場によって審査はかなり厳しくなりましたが、できなくはありません。

正常な人間ならば宗教として正しいのか怪しいのか判断できるでしょうが、カルト教団は心の倒れた状態の人たちにつけこむ輩ですから、気をつけなければいけません。

もっとも日本人は宗教に対して免疫がない、というかあまりに無知であり、成否の判断ができにくいという、それはそれで問題です。

また、統一協会やオウムなどは正常な人間を監禁によって心の倒れた状態に持っていく、いわゆるマインドコントロールを行いますので、つかまらないようにかなりの注意が必要です。

天理教の本部にはマインドコントロールから開放するセクションがあるようです。


静岡(東部地区)で牧師さんやお坊さんが俗に言うカルトの対策セミナーなどひらいていますが、天理教では「一緒に家族の脱会にむけて・・・」とか「脱会した人のケア」などはそれぞれの教会ではないということですね。
そのためには奈良まで行く必要があると。

「脱会した人のケア」をしている教会は、奈良に行かなくともあると思います。
表立ってPRしていないかもです。

身上の障り、家庭の事情などで困っている人たちをたすけるというのは教会の役割ですが、その「困っている」内容は多岐に亘っています。
福祉、アルコール依存症、あるいは青少年問題など、得意分野のある教会長さんたちがいます。
しかしそれは、現実目の前にいる人との関わりにおいて会得していった事、と思います。

カルト被害者のおたすけ、実際にそれらの人との関わりがなかったなら、救済のノウハウなどかなり高度で、根気のいることでしょうから、たとえ興味があったとしてもそれほど深くは勉強しないのではないでしょうか。

私自身、マインドコントロールに関する書籍は何冊か読みましたが、実際に関わるとなるとかなり厳しいでしょうね。


調べていて思ったのは親神様という神様は心がひろいなぁと言うことはわかりました。

「反対するのもかわいいわが子」と親神様は仰せです。
テロリストも例外ではありません。
とっても広いですね。


天理教は芸術というか音楽とか力を入れているようですね。

ここのホームページでも見ましたが鼓笛隊とか教えているようですね。
この子達は信者さんなんですか?それとも行儀見習というか宗派関係なくお世話になっているんですか?
また発表の場は富士祭りとか???
地元ではあまり見たことが無い気がするのですが・・・

おつとめは音楽ですから、音楽的感性を育てるのは大切なことだと思います。

音楽家とか小説家とか漫画家とか、創作活動をしている人が「天から降ってきた」とか「誰かが書(描)かせた」なんて言っているのを聞いたことがあるかと思います。
芸術と神様の関係はとても深いものではないでしょうか。

鼓笛隊はどなたに参加していただいてもよい、というか大歓迎なのですが、現状は教会や信者さんの子弟がほとんどです。
富士祭はこどもおぢばがえりと時期が重なりますので、そちらで発表するのはむずかしいでしょう。


天理教の文化・芸術などはどうなんでしょう?
芸能人を育てているとか、何らかの保存会があるとか・・・

天理教の信者さんが「中島みゆき」のように芸能人になることはあっても、育ててはいないと思います。
ただ、天理高校や天理教校学園高校など、音楽系の部活動に力を入れていますから、卒業生がそちら方面で活躍することはあるでしょう。
保存会のほうは、よくわかりません。


キリスト教は進化論を否定していますが、なんとなく天理教の創造から現代までの成り立ちは進化論的に思えるのですが・・・
でも日本書紀やこじきなどの古文なんかにしてみるといざなぎといざなみはアダムとイブなのかなぁ・・・

進化論って簡単に言うと、環境の変化があり、また突然変異があり、環境に適応したものが生き残るという自然淘汰があって、結果として進化してきた、ということですよね?
天理教の見方だと、九億九万九千九百九十九年かかって、親神様がだんだんとお育て下さった、ということなんだと思います。

人間の胎内で精子と卵子が結合すると、生命の進化の過程をなぞり、魚になったり獣になったりして、最後に人間となって生まれてくるそうです。
これは進化論とちょっと違いますよね。

アダムとイブはいきなり人間ですね。
夫婦になるということと神様が直接つくられたということとは意味が違うでしょう。


教祖120年祭とは内容がいつもの祭典とはちがうんですか?

教祖百二十年祭の内容ですが、いつもの祭典とほとんど同じです。
しかし、その意味するところが違ってきます。

いつもの月次祭は、天理教が始まったその日に由来する祭です。
百二十年祭は、教祖がこの世からお隠れあそばしたその日に由来します。
教祖の年祭は10年に一度のことですから特に大切な日だといえるでしょう。


詰所と母屋って何がちがうんですか?

詰所(つめしょ)と母屋(もや)、同じといえば同じなんですが。
母屋のうち、教会本部直属教会の信者修行所を詰所と言います。
管理は各直属教会がしています。

本部が管理している母屋は、詰所とは言いません。
私たちの泊まったのは八母屋でしたが、通常はほとんど使っていないと思います。
十二母屋や三十八母屋は研修会を開いたり、学生が合宿するときに使ったりします。
十ニ母屋には千人風呂があるので便利です。
ちなみに三十八母屋にはVIPルームがあります。

百母屋は青年会ひのきしん隊の宿舎になっています。


VIPとは?外国から要人がきたり?
千人風呂?大きいお風呂ってこと?昔は風呂屋をやっていたなごり?

教祖百年祭の時、当時横綱だった千代の富士が神殿中庭で土俵入りの奉納をしました。
その時、三十八母屋に泊まったと聞いています。

宗教関係の国際会議なども開いたりしますので、バチカンからのお客さんとか仏教関係とか、あるいは大学教授とか宿泊していると思います。

千人風呂は大きいですね。
千人いっぺんには入れないですけど^^
十二母屋やその近くの詰所に宿泊すれば入れます。
それと、お風呂屋さんたちの営業の関係で、宿泊していない一般の方は入れません。

天理教が蒸し風呂の経営をしていたのは事実ですが、明治15年には廃止していますからなごりということはないです。


青年会ひのきしん隊って?

「おやさとやかた」のふしんに携わるというのが発足当時の目的だったのですが、「おやさと」のさまざまな普請の手伝いや行事のための建物・テント設営、あるいは解体作業などもしています。
夜は修練といって、お勤めの練習や講話、感話大会などが行われます。
毎月1日から24日までつとめます。

信仰を求める人がいます。
多いです。
でも、世間で疲れた人、精神的に問題を抱えた人、犯罪に手を染めていた人などもいたりします。
そんな人たちのリフレッシュできる場でもあります。

青年会員は15才から40才までとなっています。
が、青年会ひのきしん隊は、40を過ぎてもOBというカタチで入れますので、50才の人も60才を過ぎた人もいます。
もちろん男だけです。

80才のおじいさんでも可能なんですよ。
団体生活についていければ、の話ですが。


昔合宿の朝。夜明け前、同室の方が何かを唱えていた。
後から知った話彼女は天理教の信者さんだった。
これは朝づとめというもの?教会に行かないでもどこにいてもできるものなんですね。
寝ぼけていたこともあり何を言っていたのか聞き取れませんでしたが・・・・

今でもよく天理教の教会の前をとおるとカネの音のような太鼓のような音は聞こえます。
音楽にも聞こえるし、念仏にも聞こえる・・・・
まぁお寺のお経もなんていっているかわからないのでその類なんだろうとおもっていますが・・・

現代日本語での意味をしりたいですね・・・多分大和言葉なので古典の苦手な上草書はよめないので・・・
というか何をしているのか興味深々・・・・

朝夕のおつとめは、拍子木、チャンポン、太鼓、すりがねの四つの鳴物を使います。
うたは、第一節の
「あしきをはらうてたすけたまへ てんりわうのみこと」
これを、21回となえます。

次に第二節の
「ちよとはなしかみのいふこときいてくれ あしきのことはいはんでな このよのぢいとてんとをかたどりて ふうふをこしらへきたるでな これハこのよのはじめだし なむてんりわうのみこと」
これを1回。

そして第三節
「あしきをはらうてたすけせきこむ いちれつすましてかんろだい」
これを3回1セットで3セットとなえます。

意味を簡単に書きます。
第一節
(人間から)悪しきこと、心のホコリを払いますからどうかたすけてください天理王命。

第二節
(親神様から)ちょっと話をする、神の言うことを聞いてくれ。
お前たちにとって悪いことはない。
この世の地と天とを象って夫婦をこしらえてきた。
これがこの世のはじめだしである。

第三節
(親神様は)悪しきを払ってたすけを急き込んでいる。
世界の人間の心を澄ましてかんろだいを建設するというたすけを。

第二節ですが、元始まりの話をさしています。
元始まりの話は、『天理教教典』第三章元の理にあります。
http://www.tenrikyo.or.jp/ja/teaching/teach/motonori.html

元始まりの話を、もっと詳しく知りたいのでしたら、こちらを読んでみて下さい。
http://www.h6.dion.ne.jp/~nanka/oyasama01.html


最近夜明け前に目がさめます。
天理教では早起きが何とか・・・と言われているようですが(言葉がわからない)
早起きは三文の得ではありませんが早起きすると何か良いでしょうか・・・・

早く起きて朝づとめをするってこと???

まず、早起きについて。
教祖の教えは、早起きではなく朝起きです。
『稿本天理教教祖伝逸話篇』に出ています。
以下

朝、起こされるのと

 教祖が、飯降よしゑにお聞かせ下されたお話に、 「朝起き、正直、働き。朝、起こされるのと、人を起こすのとでは、大きく徳、不徳に分かれるで。蔭でよく働き、人を褒めるは正直。聞いて行わないのは、その身が嘘になるで。もう少し、もう少しと、働いた上に働くのは、欲ではなく、真実の働きやで。」と。


死んだ瞬間を(天理教では)出直したっていいますよね?
では、出直して新しい着物をかりて生まれ変わるまでってどういう状態なのでしょう?
日本神話的に黄泉の国?

出直した瞬間に生まれ変わったら胎児には魂が無いことになるし、動物や昆虫などの魂に生まれ変わることも無ければ世界の人口は変わらないことになりますよね・・・・

天国とか地獄という概念は無いようにおもいますが、俗に言う霊現象に関しては出直せない人ってことなんでしょうか?
霊の存在は否定?

一般に「あの世」とか「極楽」とかいうところですが、教理では「神が抱きしめている」という表現をしています。
仏教の地獄、極楽みたいな、「あの世」のイメージが浮かぶような話は聞いていません。
この世に陽気ぐらし世界をつくるのですから「あの世」はどちらかというと、生まれ変わってくるまでの「待機場所」という感じでしょう。

今世の生き方によって、次に生まれてくる時期が遅れたり早まったりもするようです。
早く帰ってきてほしい、とみんなに惜しまれて出直した人は、きっと早く生まれ変って来るのでしょうね。


>出直した瞬間に生まれ変わったら胎児には魂が無いことになる

生きながらにしての出直し、というのがあります。
ほとんど意識がなかったり、痴呆になったりで、抜け殻のような状態の人、すでに新しい身体を借りて胎内で育っている、なんてこともあると聞きます。


>動物や昆虫などの魂

人間は他の生物を摂取することで生きています。
教祖は、食事に出された魚や小エビに「皆んなに、おいしいと言うて食べてもろうて、今度は出世しておいでや。」と仰せになりました。
さらに、「皆んなも、食べる時には、おいしい、おいしいと言うてやっておくれ。人間に、おいしいと言うて食べてもろうたら、喜ばれた理で、今度は出世して、生まれ替わる度毎に、人間の方へ近うなって来るのやで」とも。
いまは獣でもいずれ人間になるものはいるかと思います。
逆に、残虐非道を繰り返した者は畜生に生まれ変わるとも聞いています。
人口が増えていることを、教祖は否定されなかったようです。


>霊の存在は否定?

おふでさきには、
このよふにかまいつきものばけものも かならすあるとさらにをもうな 十四号 16
この世にかまい憑き物化け物も 必ず有ると更に思うな
とあります。

「有ると更に思うな」とはっきり示されています。
○○の祟りだからお祓いで…、なんていうのは筋違いで、自分のまいた種が生えたのだからそれをしっかり反省し刈り取ることが大事なのだ、と、そう仰っていると解釈できます。

人に恨まれるようなことをすれば、いずれ通り返しの道があり、わが身に災いが降りかかるでしょう。
しかし、それが霊によってかは…。
霊をどのようなものと解釈するかで変わるでしょう。
親神様が、霊という姿を見せて本人に反省を促すってことも、可能性としてはあるでしょうね。


八百万の神はいても霊はいないってことですかね・・・・幽霊と神は霊的と目に見えないから同じ言うことも、俗に言う守護霊とかも天理教的には基本的には無いってことなんですね・・・・
でも生まれ変わる事に関してはわかりました。

日本には八百万の神がいます。
その中には人間を祭ったものもありますね。

豊臣神社は豊臣秀吉、東照宮は徳川家康ですね。
神田明神は平将門を祭っています。
小泉首相参拝で物議をかもしている靖国神社は戦没者を祭っていますよね。

日本ではキリスト教のように神と人間とが完全に分けられていません。
線引きはかなりあいまいかと思います。
守護霊も神として扱うのかで解釈も変わるでしょう。

天理教としてはご先祖さんは黙って見守っている、祟ったりしない存在と考えれます。
祖霊殿というご先祖さんをお祭りするところがあります。
遺徳を讃えるという、どちらかというと記念碑的性格を持っていますけど。
昔は人間の魂は、わけみたま(分け御魂)と言って親神様から分かれたものと説明していましたし。

霊とは、魂に人格の残っているもの、としたら存在します。

『稿本天理教教祖伝逸話篇』の「一一〇 魂は生き通し」には次のようにあります。
こかん様も秀司先生も出直された後の逸話でしょう。

 教祖は、参拝人のない時は、お居間に一人でおいでになるのが常であった。そんな時は、よく、反故の紙の皺を伸ばしたり、御供を入れる袋を折ったりなされていた。
 お側の者が、「お一人で、お寂しゅうございましょう。」
と、申し上げると、教祖は、
 「こかんや秀司が来てくれるから、少しも寂しいことはないで。」
と、仰せられるのであった。
 又、教祖がお居間に一人でおいでになるのに、時々、誰かとお話しになっているようなお声が、聞こえることもあった。
 又、ある夜遅く、お側に仕える梶本ひさに、
 「秀司やこかんが、遠方から帰って来たので、こんなに足がねまった。一つ、揉んでんか。」
と、仰せになったこともある。
 又、ある時、味醂を召し上がっていたが、三杯お口にされて、
 「正善、玉姫も、一しょに飲んでいるのや。]
と、仰せられたこともあった。


霊感のある人が本部の神殿を案内され、教祖殿で教祖御存命の説明を受けた時、「ああ、さっき廊下ですれ違いました」と答えた、という話もあります。

海外での話。
ある婦人が、おさづけを取次がれている途中、気持ちよくなりうとうとしました。
そして、取次ぎが終わると目を覚まして、「赤い服を着た白髪のおばあさんが見えたが、あれはなんだったの?」と言ったそうです。
その人は天理教のことなどなにも知らず、ましてや教祖の知識などまったくありませんでした。
「霊現象」と解釈する人もあるでしょう。


ずいぶんと経ちますけど、こんなことがありました。
私が一人で教会の夕づとめをしている時。
拍子木を叩きながら「今日は後ろに何人かいるなぁ」と思いました。
人の気配を感じたんです。

そのうち3歳くらいの子どもがトコトコ上段に上がってきて、私の背中に抱きつこうとしたんです。
「うわあ!」
心の中で叫んでしまいました。

私の身体に触れるか触れないかというところで子どもの気配は消えたんですけどね。
おつとめの途中で、まったく動けませんでしたから、ほんとびっくりしました。

天理教において、霊に関する教理はほとんどありません。
死んだら、生まれかわるまで親神様に抱かれている。
それだけです。

しかし、世界は親神様の身体であり、私たちは親神様の懐住まいをしているわけです。
魂が抱かれているところも、私たちの住んでいるところも、ほとんど変わらないかもしれませんね。


親神様に抱かれている=宇宙に抱かれている=魂は存在する=俗に言う霊現象もないとはいえないのかなぁ・・・・
科学では証明できない分感じる人にしかわからないでしょうけどあるんですね。

『正文遺韻抄』(諸井政一 著)という本があります。
「禍神の有無に就いて」という題で出ているんですが、読みにくい字を使っているので、わかりやすいように書き換えて引用しましょう。

「ある時、増井様(教祖高弟のひとり)など、御前に侍りて、荒神の祟りありたる事を打ち語り、禍(まが)つ神の祟りという事も全くあるものにや、などと、言い合いしかば、教祖、微笑み給いて『どの様な神もみなあるで。人の心の理から、どんな神も出来るで。人は神と言うであろ、又見える利益が、神の姿とも云うてあろ。人の心の理から、どんな神も出来るのやで』と御聞かせ被下しと。」

このよふにかまいつきものばけものも かならすあるとさらにをもうな 十四号 16
この世にかまい憑き物化け物も 必ず有ると更に思うな

このおふでさき、有ると思うと化け物が出来てきてしまうので、「思ってはダメ!」っていうことになるでしょうか。


結婚する事や離婚する事はこれも何らかの因縁というかいわれはあるんですか?
家族になること(子供がうまれることなど)は前世の縁とか・・・・

結婚について。

せんしよのいんねんよせてしうごふする これハまつだいしかとをさまる 一号 74

というおふでさきがあります。
前生のいんねん寄せて守護する、これは末代しかと治まるってことですね。

人間が創られてから永い間、何度も何度も生まれ変わってきました。
人間は一人では生きていけませんから、お互いに助け合いながら生きていくうちに、縁の深い人、浅い人がおのずとできてきます。

親子、夫婦の間柄となるとかなり縁が深いでしょう。
明治三十一年三月三十日のおさしづにも
親と成り子と成るは、いんねん事情から成りたもの。親を孝行せず、親という理忘れ、親に不孝すれば、今度の世は何になるとも分かり難ない/\。
とあります。

親が子となり子が親となり恩の報じ合いをする、とも聞いています。


ようきぐらしが完成するというか天理教的に将来の地球はどうなるのでしょうか?

人をつくったきっかけはようき暮らしらしがみたいから、と言うのはわかりました。
しかし今の世界は争いや災害などが多くみられます。

災害も心構え1つなのかもしれませんが借りに戦争などがない世の中になったとしたら・・・・
争いがないような世界を作る心構えの宗教である事はわかりますが。

「どうなるの」かというより、人間はどうしたいのか、とこのごろ思い始めています。

地球温暖化は人間(特に先進国)の性急な利便性追求によって起こってきました。
狂牛病も、人間が牛に共食いさせることで現れてきたのだと思います。
しかも自分が儲けるために、狂牛病の牛を、さも問題ないかのように平気で大量に販売しています。
氷山の一角でしかありませんけど。

おふでさきには次のようにあります。

このさきハせかいぢううハ一れつに よろづたがいにたすけするなら 十二号 93
月日にもその心をばうけとりて どんなたすけもするとをもゑよ 十二号 94
このたすけどふゆう事にをもうかな ほふそせんよにたしかうけやう 十二号 95
またゝすけりうけ一れつどこまでも いつもほふさくをしゑたいから 十二号 96

この先は世界中の人間が互いに救けするならば、月日(親神様)にもその人間の心を受け取ってどんな救けもすると思え。
この救けどうゆう事に思うか、それは疱瘡にならないよう確かに請け合う。
また他の救けとして、立毛(草木の生えること)をどこまでも、いつも豊作を教えたいのだ。

親神様は、人間の心しだいで、より住みやすいようにしてやろうと思召しています。

しんぢつの心しだいのこのたすけ やますしなずによハりなきよふ 三号 99

真実の心次第のこの救けというのは、病まず死なずに弱りなきよう。
病気にもかからず、定命(115歳)まで健康に働けるようにくらせることがたすかった状態なのだと仰っています。


親神様はいまの人間のあり方をとても残念に思われています。
天変地異は残念の表れです。

このせかい山ぐゑなそもかみなりも ぢしんをふかぜ月日りいふく 六号 91
この世界山崩えなども雷も地震大風月日立腹 。

かみなりもぢしんをふかぜ水つきも  これわ月日のざねんりいふく 八号 58
雷も地震大風水つきもこれは月日の残念立腹。


では、どうしたらいいのでしょうか?
うきしまHPの目次にも書いてありますが引用しましょう。

せかいぢういちれつわみなきよたいや たにんとゆうわさらにないぞや
世界中一列は皆兄弟や 他人と言うは更に無いぞや

このもとをしりたるものハないのでな それが月日のざねんばかりや
この元を知りたる者は無いのでな それが月日の残念ばかりや

高山にくらしているもたにそこに くらしているもをなしたまひい
高山に暮らしているも谷底に 暮らしているも同じ魂

それよりもたん/\つかうどふぐわな みな月日よりかしものなるぞ
それよりも段々使う道具はな 皆月日より貸し物なるぞ

それしらすみなにんけんの心でわ なんどたかびくあるとをもふて
それ知らず皆人間の心では 何ど高低有ると思うて

月日にハこのしんぢつをせかいぢうへ どふぞしいかりしよちさしたい
月日にはこの真実を世界中へ どうぞしっかり承知さしたい

これさいかたしかにしよちしたならば むほんのねへわきれてしまうに
これさいか確かに承知したならば 謀反の根は切れてしまうに
(『おふでさき』十三号43〜49 )

世界中の人間は親神様の子どもであり、したがって私たちは同じ親を持つ兄弟姉妹です。
しかし、陽気ぐらしを見たい故、親神様が人間をお創りくだされたという元を知らないのは、月日(親神)にとって残念ばかりであります。
高山(権力、財力を持つ支配階級)で世界を動かす者も谷底(一般民衆)にいる者も、その魂には優劣も貴賤もなく平等です。
そもそも、この世界は親神様の身体であり、その中で、私たちはそれぞれに身体をお借りし、生きています。
しかし、それを知らず、性別、肌の色、住む所、職業、所得など、様々な場面で分け隔てをしています。
月日(親神)は、人間すべからく兄弟姉妹であること、陽気ぐらしをするために創られたことを、なんとしても承知させたいと思し召しています。
これさえ心底から承知したならば、となり近所や職場でのいさかいから国同士の戦争まで、起こるようなことはないとの仰せです。


繰り返し続く、永久にというか過ちを繰り返して永遠に続くんでしょうか・・・・
そのうちに神様が人間の過ちに痺れを切らしたりして。

人類が文明を手に入れてからどれくらい経つのでしょう。
地球の歴史からしたらほんの一瞬です。
神様が痺れを切らすにはもっと先ではないでしょうか。
その前に人類滅亡の危機が、自分自身の手で訪れてしまうかもしれません。
なーんて、これでは話が終わってしまいますね。

親神様はずっとずっと長い間、人間を育み続けてきました。

月日よりたん/\心つくしきり そのゆへなるのにんけんである 六号 88
月日より段々心尽し切り その上なるの人間である。

親神様は人間の親ですから、なにもせず放って置くようなことはなさらないでしょう。
手を変え品を変え、過ちに気づくよう仕向けるでしょう。
その親神様のメッセージを理解するには、教祖のお教え下されたことに照らせば見えてくると思います。
もっとも、人間には欲がありますので、なかなかむずかしいんですけど。


信者の方はどうやって勉強するんですか?
おふでさきとかおさしずとか読み漁るんですか?

修養科で3ヶ月間勉強するのが一番近道です。
その後、検定講習を受ければかなり勉強したことになります。
仕事を持っている人にはむずかしいんですけどね。

独学なら、おふでさき、おさしづ、みかぐらうたは三原典ですから、それらの解説本を読むことになりますね。
体験談の本を読むよりはるかに退屈で根気がいりますけど。
あと、『天理教教典』の解説本でしょうか。

全5巻『ひとことはなし』中山正善(著)を読むと、いかに教理が体系的にまとまっているのかということがわかります。
天理教学の根幹をなしている本です。
『諸井慶徳著作集』諸井 慶徳 (著)なんてのもありますが、むずかしいらしいです。
『ジュニア版天理教の歴史』あたりは読みやすいでしょう。

三原典を直接読むこと。
おふでさきは注釈つきの物がありますからまだよいのですが、おさしづは難解すぎるので、1ページ読まないうちに投げてしまうでしょう^^
おさしづに手を出すのは、ある程度わかってからでないとムリですね。
というか、おさしづ読んでわかる人はほんの一握り、というのが現状だと思います。


キリスト教の教会では日曜なりつきに何日かは教会に足をはこび神父さんや牧師さんの話を聖書を元に聞きにいきますが天理教では,教会長さんの話を月次祭にきくのが信者さんですか?
でもなんとなく今までの調べてきた中ではまずはお勤めありきってかんじかしますね。
3原典を読むよりも・・・・
ということはキリスト教徒のようにいつでもどこでも祈るより大事なのは朝晩のお勤めですか???

>キリスト教の教会では日曜なりつきに何日かは教会に足をはこび神父さんや牧師さんの話を聖書を元に聞きにいきますが…

親神様をお祭している家庭があり、月に一度「宅祭」とか「講社祭」と呼んでますがおつとめをします。
座りづとめだけのところもあるし、十二下りを踊る家庭もあります。
会長さんはそこで神様の話をします。
月次祭では一方通行の話だけになりますが、宅祭なら細かなことも、私的なことでも質問できますね。

教会に毎日参拝される方もあります。
会長さん、奥さんに自分の相談事をすることもありますし、神様のことで知りたいことを尋ねたりします。


>天理教では,教会長さんの話を月次祭にきくのが信者さんですか?

『天理教教典』には「教祖のひながたにならい、たすけにはげむ。口と心と行とは
常に一致して、うまずたゆまず、理をみつめて進む。」とあります。
教祖のひながたは言動一致しています。
教祖には親神様が入り込んでいますから、心は親神様そのものです。
その心通りになされた日々の行い、また人に語った言葉が教祖伝として残っています。
ひながたは人間がたどるために示されたのですから、ひながたにならい生きている人が「信者」ということになります。


>まずはお勤めありきってかんじかしますね。
>3原典を読むよりも・・・・

おつとめはとっても大事です。
教祖がお姿を隠されたのは、おつとめの完成を急がれたからだし、親神様が教祖にお下がりになったのも、おつとめを人間に教えるため、と言っても過言ではないでしょう。

しかし、「…反対する者も可愛我が子、念ずる者は尚の事。なれど、念ずる者でも、用いねば反対同様のもの。…」【明治二十九年四月二十一日】というおさしづがあります。

「念ずる者」とは「なむてんりわうのみこと」と唱える者、おつとめする者でしょう。
「用いねば反対同様」とありますが、用いなければならないのが心遣いであり、その行いということです。
念ずるだけではだめなんです。


携帯電話やビデオなどを買うとマニュアルがついてきますね。
三原典はマニュアルのようなものです。
マニュアルそのもので電話はかけられないし、録画もできません。
でも、マニュアルを読まないと使えないですね、携帯電話もビデオも。
ほかの人に聞くこともできますが、同じ機種を使っている人でないとわかりません。
話の内容がわかる人はマニュアルをすでに読んでいて機械を扱える人ってことですよね?

機械を扱うためにあるのがマニュアルですが、三原典はどのように生きるかという道しるべと言えるでしょう。
「用いねば反対同様」です。



>キリスト教徒のようにいつでもどこでも祈るより大事なのは朝晩のお勤めですか???

朝夕のおつとめはその日一日のお願いであり、お礼です。
一番大切なおつとめは、おぢばでつとめられる「かづらづとめ」です。
それに準じているのが、それぞれの教会でつとめられる月次祭です。

電車の移動中でも自分の決めた時間になると十二下りのおつとめをする人もいますから、いつでもどこでも祈ることはできますね。
そこまで私はしませんけど^^


3原典とお勤めがそろってこそってことですね・・・・

おふでさき、みかぐらうた、おさしづを三原典と呼びます。

『おふでさき』は、教祖が筆をとって直々に書かれたものです。
内容的には、原理原則、要(かなめ)の言葉が記されています。
すべての基本はおふでさきにあり、といったところでしょうか。

『みかぐらうた』はおつとめの地歌、つまり祈りの言葉ですね。
これも教祖が書かれたのですが、原本がありません。
官憲の取締りによって没収されたのか、圧迫干渉の中で紛失したのか定かではないです。

『おさしづ』は教祖を通しての啓示と、本席である飯降伊藏という方を通しての啓示から成っています。
教祖が直接書かれたのではなく、口述筆記です。
側で筆をとる人が何人かで書き取り、後で照らし合わせてできたものです。

飯降伊藏という方は「扇の伺い」を教祖から戴いていたので、扇を持つと親神様がお下がりになり啓示を述べられました。
教祖がお隠れになった後は、この「扇の伺い」によって親神様の指図を仰いだわけですね。

この啓示を、書き取りの方が三人で筆記することでできて来ました。
ただ口述筆記ですので、漏れ落ちや誤字、読点の打ち間違いもあると思われます。
明治20年から明治40年まで、20年間分ありますから量は膨大です。

内容的には、基本のおふでさきに対し、応用のおさしづと言えます。
おさしづは親神様の方からお話になる場合と、人間がお尋ねしてその答えを戴くという2パターンがあります。
普遍的な啓示と、個々人への2種類ってことですね。
もちろん、お尋ねした答えが普遍的内容を持っていることもありますから大雑把な分け方ですが。


時代背景からして仕方ないし、もったいないけど直筆のものがそろえばいいのにね。
隠して持っていたものが現在の元になったりしてるんですよね。
本部からすれば「処分しろ」と言った手前のこってないでしょうし。


おふでさきの原本はしっかり残っています。
そして、真筆か写本か、はたまた他人の作なのか、厳密に筆跡鑑定をしています。

しばらくの間、おふでさきは「ないこと」になっていました。
ある時、おふでさきを警察に没収される危険が生じたので、「焼いてしまった」ことにしました。
本部は「処分しろ」と指示したのではなく、処分したように見せかけたんです。


年代的に親様や本席にあったことのある人はもういないでしょうけど、もうおさづけ以外のたとえば「扇の伺い」のような特別な力等許されている人はいないんですか?

「元治元年の春から、教祖は、熱心に信心する人々に、扇のさづけを渡された。これを頂いた者は、五、六十人あった…」と『稿本天理教教祖伝』にあります。
しかし、人間というものは欲の深いもので、自分の都合のいいように使ってしまったようです。
相場や博打で使ったりとか。
「今年はどの作物がよく取れるか」なんて伺ったことがあったかもです。
でも、結果を他の人に黙っていたら自分だけ儲けることができちゃうし、それって、よくないことですよね。
けっきょく本席様へのお許ししか残らなかったんですね。


今でも昔のように布教している人はいるんですか?
病気を拝ませてくださいって・・・・

布教している人はいます。
海外では言葉の問題がありますから、まずおさづけ、でしょう。
海外の方が、効いたかどうかわかりやすいってのがありますね。

国内ではパンフレットを配ったり、「お話を聞いてください」的なやり方が多いと思います。
日本では、なかなかおさづけさせてくれないし、取次いでも医療が進んでいますから、おさづけが効いたという実感が持てない人がほとんどなんじゃないでしょうか。
日本人は宗教に拒否反応を示すのが多数ですし、むずかしいです。
そういう意味でおさづけは、日本人には効きづらいかも。


今では科学が発達しているのでたとえば雨乞いなどしなくてもそれほど昔ほどではないから神様も必要ないとおもわれているのでしょうか。

かなり科学は発達し、その恩恵を私たちは受けています。
しかし、地球の人口でいえばほんの一握りの人間だけです。

大多数の人たちは、貧しいがゆえに恩恵にあずかることができません。
そしてその貧しさは、一握りの金持ちの搾取が原因なのです。
日本もその片棒を担いでいるんですよね。

必要なんだと思いますよ。

月日にハせかいぢううハみなわが子 かハいいゝばいこれが一ちよ  十七号 16
月日には世界中は皆我が子 可愛い一杯これが一条


病人への心遣いのアドバイスは?

ほこり(埃)の心遣いは、はらわないと病気に行き着くんですが、人にアドバイスする時には注意が必要です。

それは、その人を「たすけたい」と思っているのか「やっつけたい」と思っているのか、ということです。
その人に対し、「にくらしい」とか「気に入らない」という心が少しでもあったなら、「自分自身がほこり(埃)を積んでいる」ってことになりますね。

また、自分のことを棚に上げて「八つのほこり」を責め道具に使ってしまったら、争いごとのタネを蒔いているようなもので治まっていきません。

まずは自分自身の埃をはらうこと。
そして、相手のことをどう思っているのか、自分が気分のよいようにしたいと思っていないかどうか冷静に考えること。
それを踏まえてのアドバイス、ってことになるでしょう。

こんなおさしづがあります。

人を救けるには誠の心。一つの言葉優しいというは、誠の心である。この処聞き分け、見分け。真実誠の心いうものは、弱いものである。なれども、長い堅いもの。又々長くの心を持ちて、内々互いの心持ちて、内々睦まじい。内に誠の心持ちて、世界から成程の内や、と言う。【明治二十一年】

同じ屋根の下に住んでいる、血のつながっている相手だったら尚のこと、きつい言葉を出してしまうってことはよくありますね。
私も...... ( 〃..)ノ ハンセイ
それでもまあ、許し合えてしまうんですが、内々睦まじいとは言えないですよね。

他所から見て「成程なあ、見習いたいなあ」と、そんな家庭が「陽気ぐらし」への台となるのでしょうね。


私にはほこりつもりまくっているんだろうな・・・・

誰でもほこりは積んでいます。
『稿本天理教教祖伝逸話篇』(一三〇 小さな埃は)には「どんな新建ちの家でもな、しかも、中に入らんように隙間に目張りしてあってもな、十日も二十日も掃除せなんだら、畳の上に字が書ける程の埃が積もるのやで。鏡にシミあるやろ。大きな埃やったら目につくよってに、掃除するやろ。小さな埃は、目につかんよってに、放っておくやろ。その小さな埃が沁み込んで、鏡にシミが出来るのやで。」とあります。

教祖でさえ「私が台所に立ったらほこりが付くで」ということを仰っています。
ほこりは積まないに越したことはありませんが、日々にほこりを払い心を澄ますことが大切です。
また、ちょっとした心の持ち方、考えようでほこりを積まずに済むこともあるかと思います。

ある人の話。
朝の通勤ラッシュで信号が赤になるたびにイライラしていたが、車の中で朝食を摂ることを思いつき、毎朝弁当を作って車に載せました。
赤信号になると、しばらくは前方を気にせずに食事ができるので、赤信号が待ち遠しく感じるようになったそうです。
知恵の出しどころですね。

こんなおさしづがあります。
自分の心が澄んでいるのかいないのか、判断の材料にしてください。

「人の言う事を腹を立てる処では、腹の立てるのは心の澄み切りたとは言わん。心澄み切りたらば、人が何事言うても腹が立たぬ。それが心の澄んだんや。今までに教えたるは腹の立たぬよう、何も心に掛けぬよう、心澄み切る教やで。」
【明治二十年三月二十二日(陰暦二月二十八日)二時 】


神様だとか体をあらわしているほかにも星とか病気、仏もあらわしているようですが、
元始まりという天理教の教えのときに使われる以外どんなときに使われるのでしょうか?

江戸末期から明治にかけての農家や町人、武士も混ざっていましたが。
そんな人たちが十柱の神様の働きについて「そっか!」と、ピンと来るようにお教えくだされたのが、裏守護と呼ばれるものです。
ですので、民話とかお寺での説教とかに出てくる、当時の人たちならよく知っているキャラクターを話の台にしていると思います。

>天理教の教えのときに使われる以外
ということですが、知識がないのでなんとも(;^_^A アセアセ


テレビなどではキリスト教では懺悔室とか礼拝堂などで過ちを悔い改めるようなシーンがあります。欧米の映画などは死ぬ直前に懺悔し天国へ・・・なんてありますけど
天理教では懺悔のしかたとかあるんですか?それこそホコリをはらうっていう具体的なほうほう。
「気をつけなきゃ」とかおもうだけでいいんですか?

懺悔で過ちを告白するのは、人に言うことによって決意を新たにする、ということになるので、ただの反省より自制心が強くなることはあるんじゃないですか。
キリスト教の知識はあまりありませんので、教義として懺悔室の存在意義はわからないですけど。

天理教の場合ですが、神殿に額づき、親神様、教祖にお詫び申し上げることはします。
朝夕のおつとめは、お願いや御礼の場でもありますが、さんげする場にもなるでしょうね。


キリスト教の場合、病と心遣いの関係についての教理はないかと思います。

せかいぢうどこのものとハゆハんでな 心のほこりみにさハりつく 五号 9
世界中何処の者とは言わんでな 心の埃身に障り付く

天理教の場合、病を通して心のほこりを払う。
病むのはつらいので、心遣いや行いを改める契機になります。
「もう、いたしません」と心を定め、親神様、教祖にお誓い申し上げることもあるかと。
親神様、教祖にお喜びいただけるような行為を実践する約束をするとかも。
気をつけないと再び病になりますから、その分しっかりほこりを払おうと心掛けるでしょうし。
もっとも、ノド元過ぎれば熱さ忘れる、というのが人間ですから、すぐまたほこり積んじゃいますけど。


親神さまがこの世界に出てくるまでの聖人などの教えとはちがった元始まりを教えてくださったのはわかりましたが、それまでにいろんな聖人をとうして知らしてきた教えも親神様のおぼしめしということだとしたら天理教の人は他の宗教についても学ぶべき???

いいところ悪いところそれぞれの宗教は地域や組織の内容によって都合よくなってるとはおもいますが、その中に1つでも正しい事はあるとおもいます。

また天理教が後から出てきただけあり「真似た」と思われる点もあるかといおもいます。
やはり他の宗教を勉強されるんですか?

他の宗教について学ぶべきかどうか。
神社・仏閣について、親神様は参ることを反対されてはいません。
どちらかというと、大切にするよう教えられています。

『稿本天理教教祖伝逸話篇』(一七〇 天が台)には
 梅谷四郎兵衞が、教祖にお聞かせ頂いた話に、 「何の社、何の仏にても、その名を唱え、後にて天理王命と唱え。」
と。又、
 「人詣るにより、威光増すのである。人詣るにより、守りしている人は、立ち行くのである。産土神は、人間を一に生み下ろし給いし場所である。産土の神に詣るは、恩に報ずるのである。」
 「社にても寺にても、詣る所、手に譬えば、指一本ずつの如きものなり。本の地は、両手両指の揃いたる如きものなり。」
とあります。

また、他宗教の教理についてはどうかというと、このようなおふでさきがあります。

高山のせきゝよきいてしんしつの 神のはなしをきいてしやんせ 三号148

「神職僧侶などの説教を聞き、又、この道の話も聞いてよく比較して、何れが真実の親神の胸の中を伝えているかよく思案するがよい。」(おふでさき注釈)


いまゝでハいかなる神も山/\に をがみきとふとゆうたなれども 六号 26
このもとをしりたるものハないのてな このしんぢつをみなをしゑるで 十六号 5

「従来は、どんな神も沢山あって、いずれも拝み祈祷をすれば利益があるように言うていたなれど、何故に拝み祈祷をして利益があるかとういう根本の理を知っている者はない。もしあるならば、許すから尋ねて行って聞いてみるがよい。」(おふでさき注釈)


元の親を知らすこと、そして、人間はどこで、何故に生まれたか教えること。
これがこの道の教えということになります。

このもとをしりたるものハないのてな このしんぢつをみなをしゑるで 十六号 5
この<世の>元(根本)を知りたる者は無いのでな この真実を皆教えるで

「十のものなら九つまで教え、なお、明かされなかった最後の一点、元の親を知らして、人類に、親神の子供るの自覚を与え、一れつ兄弟姉妹としての親和を促し、親子団欒の陽気ぐらしの世と立て替えようとの思召からである。」『天理教教典』(第三章)


管理人さんはなぜ天理教なんですか?

「天理教の教会に生まれたので」というのが答えだったら、がっかりしますか?

「何で教会なんかに生まれたんだろう」と中学生くらいまで思っていました。
でもこの道を「信仰しなければならない」とも感じていました。
高校生の頃、学生会という集まりがあり、天理教の楽しさを知りました。

この教えが「すごいなあ」と思ったのは、大学時代に出会った中山正善著『ひとことはなし』を読んでからです。
教祖の教えがいかに普遍性をもち、体系的に組みあがっているかを知りました。

奇跡を見たというのはなかったですね、不思議な話を耳にすることはありましたけど。
何代も信仰していると、大難は小難に、小難は無難にお連れ通りいただけるので、「すごい」経験というのはしなくても済むのです。
その分、「確信が持てない」ということは出てきますね。


「神様はあるのだろうなあ」と思えるようになってきたのは、ここ最近ですね、おさづけを取次ぐようになってからです。

これからたすけの証拠、神の道、一つのさづけを渡す。【明治二十年七月十四日(陰暦五月二十四日)】
おさづけは、証拠なんです。
取次ぐ者も、取次がれる者も、側にいる者も「不思議」を見せられる。

海外でおさづけを取次いで歩きました。
「痛いのが治った」「こっちもやってくれ」という外国人の反応はありましたね。

私、肩こりひどかったんです。
右肩甲骨の内側に凝り固まったのがあって、何年も何年もそのままで、全然とれなかったんです。
マッサージして貰っても、ダメ。
疲れてくると、「たすけてくれ!」ってくらいにズーンと重くて、ずっとずっと苦しかったんです。
でも、その国で一週間くらいですか、おさづけを取次いでいる間に、とれちゃったんです。
取次がれて、ではなく取次いでいて、です。

肩こりは今もなりますよ、↑よりずっと軽いですけど。
パソコンいじってるとよく凝りますが、でも治ります。


外国人にも日本語でおさづけ?外国人のようぼくさんも日本語?

キリスト教徒の「アーメン」はどこへ行っても「アーメン」ですよね?
「チチンプイプイ」や「アブダカダブラ」、意味はわからないけどそのままかと。

「拝み屋ですけど、どこか悪いとこないですか?」
「撫でると治癒しますよ、どうですか?」
と、現地の言葉はそこまで。
おさづけは日本語です。


それでも信仰したのはやはりご両親の影響でしょうか?

親が、というか家が、でしょうか。
信教の自由とかなんとか言いますが、じっさい、宗教を自由に選んでいる人は少数ではないですか?

日本の場合、どこかの檀家になっているのは徳川幕府の時代からですから、別に信仰心があろうとなかろうと、というか信仰心がなければ、それこそそのままでしょう。
なんたってふつうはお寺に先祖の墓があり、葬儀、年忌、お盆、お彼岸などなどをするんですから。
何か特別なことがない限り、別の信仰につくなんてあり得ないでしょう。

私の場合、おぢばがえりが楽しみだったし、特にこどもおぢばがえりはとても楽しかったので。
こどもおぢばがえりで、少年ひのきしん隊というのがあって中学生が入るのですが、お茶所で冷茶の接待をしています。

少年ひのきしん隊の合言葉は「人のためつくす喜びひろげよう」なんですね。
で、お茶を飲んでもらい、帰ってくるありがとうの言葉がとてもおいしかったですね。
自分で飲むお茶はせいぜい1〜2杯がおいしさの限度ですが、人に喜んでもらうお茶はそれこそ無限大ですから。
今にして思えばとても貴重な経験だったということになります。


奇蹟を体験すれば簡単な事でも、体験してないのに信仰するのは大変なことだとおもいます。

奇蹟の体験はとても苦しいはずですから、「できれば経験したくない」たぐいのものです。
人の体験を見たり聞いたりで、神様はあるのかな? と。

お年寄りに「かしもの、かりもの」の話をすると、「まさにその通り!」という反応がかえってきます。
年をとって身体の自由が利かなくなり、自分のもののはずなのにいうことをきかない身体と折り合いをつけて暮らしている。
だからこそ、身体は「かりもの」と実感できるわけです。
病んでこそわかる健康のありがたさというのもありますね。
では、年寄りや病人にしか宗教はいらないのかというと、そうではないでしょう。


10年間ほど、少年ひのきしん隊の世話係をしたことがあります。
親に言われてイヤイヤ入って来る子もけっこういます。
言うこと聞かないし、だらしないし。
で、子どもたちのテンションあげてやるんです。
一週間で、変わります。
すごく楽しそうに、ひのきしんを、お茶の接待をします。

そして、最終日、泣きます。
中学生の男の子が、涙流して、泣きます。
つらくてとか、友だちと別れるから、っていうのもあるかもしれません、女の子は。
でも、男の子が泣くのは、そこに感動があるからです。
スタッフももらい泣きしながら、☆^v(*^∇')乂('∇^*)v^☆ヤッタネ!!ね、と。

ひとをたすける、というのは人間の持って生まれたものであって、「陽気ぐらし」するという創造の目的に適っているってことでしょう。


他の宗教の話は聞いた事や調べた事はないのですか?

ありますよ。
新約聖書は、黙示録以外は読みました。
旧約は読んでいてたいくつなので途中で止めちゃいましたが。

仏教は入門書くらいですね。
なにしろむずかしいので。
仏教の場合、わざとむずがしくしてるんでないの?って思ったりしましたけどね


参拝の時の四回はわかるんですが、講話の最初と最後は四回、食事は二回など場合によって回数がちがうようですがどうつかいわけているんですか?

神社では二拍手と決まっていますが、そのように統一されたのは明治政府の取り決めからで、それ以前では神社によって違っていたそうです。
出雲大社は四拍手ですね。


明治時代、天理教は便宜上神道に属してはいましたが、教派神道ということで取締りでの扱いが神社とは異なったんだと思います。
なので、二拍手にはならなかったのでしょう。

回数は、教えていただいたようにしているわけですが、しかし、その理由については教祖よりお教えいただいていないのです。

おつとめは四回、また、おさづけ取り次ぎでは二回、食事は二回ですね。
神様に対しては四回、そうでない場合は二回、と言えるかもしれません。

なぜ講話の時に手を叩くのかは、わかりません。
叩いたほうがおさまりがよい、とは思いますけど。
神様に「今からはじめますのでよろしくお願いします」と「どうやら取次ぎを終えることができました、ありがとうございました」という意味合いでの拍手なんでしょうか。


おぢばのお茶はあの時期(こどもおぢばがえり)だけでなく年中やっているんですか?
あとナゼカレーなのか不思議だった。
海軍が曜日を忘れないように金曜煮カレーを食べるのは有名だけど・・・
何時からカレーなんだろう。

お茶は、あの時期だけです。

カレーは、子どもたちの好物というのは一番の理由かと思います。
それと、カレーは支度・片付けが楽なんです。
盛り付けしなくてもよいし、器の数が少なくてすみますから。

何時からカレーなのか・・・、うーん、わかりません。


おばあちゃんたちなんかは頂き物をすると「仏さんに頂きなさい」なんて一度仏壇にあげますが、天理教の教会でも頂き者は一度祭壇におそなえしたりするんですか?

毎日仏壇のお水をかえるのと同じでお供え物もかえるんですか?
イメージ的に鯛のおかしら付きとか米俵・・・・なんてものは毎日そなえないだろうし。
でも山積にするイメージ。

いただきものは、物にもよりますが献饌してます。
足のはやいものは参拝してすぐ台所行き^^

山ほど盛り付けるのは月次祭の時だけで、日供(にっく)は少しずつです。
たいがいの食物はお供えになります。
それから、レトルトパックの類はしますけど、基本的に煮たり焼いたりしたものは供えません。

親神様の恵みに感謝し、食物を供え、お下がりを頂きます。
人間は他の生物を食することで生命を維持しています。
食べるということは、命をいただいている、生かして頂いているということです。
なので、食事のあいさつは「いただきます」なんですね。
感謝する心って大事だと思います。


賭け事でのお話はありますか???

おさしづです。
「理は見えねど、皆帳面に付けてあるのも同じ事、月々年々余れば返やす、足らねば貰う。平均勘定はちゃんと付く。」【明治二十五年一月十三日 午後五時半】

働いただけが天の与えです。
儲けたお金は右から左へ消えていってしまいます。
あぶく銭ですね。
実にはなりません。
本来、自分のもの(徳)ではないのですから。
もし、実になるのだとしたら、それは自分の天の貯金をおろしたものと考えてよいでしょうね。

あぶく銭、どう使うのかによって変わってくる場合もあります。
文春文庫 曽野 綾子(著)『神さま、それをお望みですか―或る民間援助組織の二十五年間』には、ギャンブルと救援活動の奇妙な関係が出てきます。

賭け事をして、「これで勝ったら寄付します」ということで約束通り彼女の団体に寄付する人がいました。
でも、自分の得のために賭けたお金は摩ってしまった、みたいな。

キリスト教徒である曽野綾子の考え方には???なところもありますが、事実として、そういうこともあるだろうなと。
どっちにしろ、自分のものではないわけですけどね。


そういえば天理の建物ってまるで千と千尋の神隠しのような不思議な形や色(朱のような・・・)の建物がおおいですね。
デザインとかも昔から言われているのでしょうか?

四方に広がると親様が話していらっしゃったようですが、まだ完全に四角にかこまれてないですね・・・イツ完成するんですか?

おやさとやかたのことですよね。
『稿本天理教教祖伝逸話篇』(九三 八町四方)にありますが、教祖は「屋敷の中は、八町四方と成るのやで。」と仰いました。

そこで二代真柱様は「神のやかたであるところの元のぢば、その元のぢばを取り囲む子供の住居たるおやさとやかたをめぐらしまして、ここに親も子も共々に、神も人も共々に一つの心になって、陽気ぐらしの実を、否、世界の平和のひながたを進めて行き度い」とおやさとやかたを昭和29年から着工しました。

デザインについて詳しくはわかりませんが、某工務店のものが採用されたようです。

一棟建てるにもかなり費用がかかりますし、土地の買収もすべて終わっていません。
いつ完成するのか、今のところ誰もわかりません。
すべてできる前に、古くなった棟を建て直すかもです。


鳥居の色が黒かった気がします・・・たぶん。
赤ではないんですね。
葬儀なども仏とちがって紫???

神殿南側にある、たぶん南門のことでしょう。
黒いので黒門と呼ばれています。
あれは、鳥居ではなく門です。


>葬儀なども仏とちがって紫???

ふつう黒白の幕を張りますが、そのことでしょうか。
そうですね、白布に紫の帯が垂れてます。
べつに黒白でもいいと思いますけど。

うーん、よくわかりません。
この頃は自宅でせず会館を使うことが多くなってますから、幕を張ることもなくなっているんですよね。

婚礼や葬儀の宗教の関わりってクロスオーバーしているんですよね。
神道式の結婚式はキリスト教のパクリだし。

仏式の葬儀は、戦国時代に切支丹の葬儀をキリスト教の伝道師が行なっているのをマネたという説もあります。
そんななかで独自性を出して行くことで、形式はできて来たと思います。


以前理の話を伺いましたが今親の理でくるしい・・・・
簡単そうでむずかしい。

友達や隣近所、あるいは職場の関係ならとりあえず逃れることはできるでしょうが、血のつながりから逃れることはできません。
逃れられたと思っても、別のカタチで現れてきます。
肉親だからこそ腹が立つ、ということはありますけど、愛想尽かしはよろしくないかと。

「古き者親という。子は何人ありても親は一人。為したる事はどうでも立てねばならん。親がありて子というは、親が賢うても、子は鈍な者出けるやら知れん。子は、親が鈍な者やと言う者があるなれども、何ぼ鈍な親でも、親があればこそ。年が寄れば鈍な者や。鈍な者でも親というもの大切なものや。……親というものはどれだけ鈍な者でも、親がありて子や。子は何ぼ賢うても親を立てるは一つの理や。これだけの理を聞かし置こう。」【明治二十二年十月十四日(陰暦九月二十日)】

「親を立てる」のと「親の言う通りにする、従う」とは同じではありません。
場合によっては、親の言うことと正反対のことをする、というのはあり得ます。

基準をどこに置くのか、ですね。
行動としては同じでも、自分の気持ちよいようにしたいのか、何とか立ち直ってほしいのか、どちらに依っているかで違ってくるでしょう。

過去の在りようをうらんでも、過去を消すことはできません。
それを引きずるのは、過去をタネとしてほこりを積んでいることになりますね。
過去を、悪いタネではなくよいタネとなるように、心の切り替えをしないとなりません。

「この道は(悪)いんねんを切る道」とはよく聞きますが、「この道を通るので(悪)いんねんが切れてゆく」と私は思っています。


昨日読んだ天理教の本に「産んでくれとは頼んでない」といわれたら「頼まれたからこそ産んだ」と答えればいい。
とありました。子どもは親に対して何をすればいいのでしょう?

どんな犯罪を犯した親であろうと親に対しては従わなければいけないのか、親を見捨てる事はできないのかとかんがえます。
子を勘当する親はよくても親を見捨てる子はだめなのでしょうか?

にんけんもこ共かわいであろをがな それをふもをてしやんしてくれ 十四号 34
人間も子供可愛いであろうがな それを思うて思案してくれ

元始まりにおいて、人間はみな兄弟姉妹として生まれてきました。
兄弟姉妹のまま死ぬことなく、ずっと生き通しでもよかったのではないか、と考えることもできます。

しかし、人間には寿命があり、生まれ替わりを繰り返すことになります。
必然、親が子となり子が親となり、ということができてきます。

人間の真実の親は親神様です。
自分の子どもは授かりものであり、預かりものです。

親子という関係がある故に、親神様の親心が理解できるということではないでしょうか。


体は借り物心は自分のもの。
親の心と子の心。
親子の心とは親を想う心子を想う心?子の為親の為と想うのは正しくない?
自分の価値を押し付けているだけ?
相手を想うことは相手の価値を認めること?

>相手を想うことは相手の価値を認めること?

その価値はなにに依っているかにもよります。
エホバの教えが尺度なら認めにくいでしょうね。
ただ、感情だけで拒絶するのはいただけません。
育った環境が環境だけに、わからなくはないですけど。

感情でものごとを測れば、好きか嫌いかが基になるでしょう。
正しいかどうかは、理性で判断することになりますね。
どこかで読んだのですが、「感情で褒め、理性で叱る」と。

感情で叱るのは、叱る人の気を紛らわすだけです。
反省する材料を与えるわけではないので、相手は落ち込み、心は反発するでしょう。


恒友出版『マインド・コントロ―ルの恐怖』(スティ―ヴン・ハッサン/著 浅見定雄/訳)
統一協会から抜け、カウンセリングによる脱会を行なっている人の本です。

思いやる心が届くことで相手は心を開きます。
筋道立てて粘り強く統一協会の問題点、矛盾を指摘し納得するよう説得しています。


他の宗教を憎いと思うことがホコリなんでしょう。
それが家族を守るためであっても・・・・・

憎しみは憎しみを呼び、大きくなっていきます。
そして破壊を生み出します。
世界中の争いをみれば明らかでしょう。
憎しみで家族を守ることはできないかと。



親神様と神仏の関係について『稿本天理教教祖伝逸話篇』(一〇 えらい遠廻わりをして)には次のようにあります。

 文久三年、桝井キク三十九才の時のことである。夫の伊三郎が、ふとした風邪から喘息になり、それがなかなか治らない。
キクは、それまでから、神信心の好きな方であったから、近くはもとより、二里三里の所にある詣り所、願い所で、足を運ばない所は、ほとんどないくらいであった。
けれども、どうしても治らない。
 その時、隣家の矢追仙助から、「オキクさん、あんたそんなにあっちこっちと信心が好きやったら、あの庄屋敷の神さんに一遍詣って来なさったら、どうやね。」と、すすめられた。
目に見えない綱ででも、引き寄せられるような気がして、その足で、おぢばへ駆け付けた。旬が来ていたのである。
 キクは、教祖にお目通りさせて頂くと、教祖は、
 「待っていた、待っていた。」
と、可愛い我が子がはるばると帰って来たのを迎える、やさしい温かなお言葉を下された。
それで、キクは、「今日まで、あっちこっちと、詣り信心をしておりました。」と、申し上げると、教祖は、
 「あんた、あっちこっちとえらい遠廻わりをしておいでたんやなあ。おかしいなあ。ここへお出でたら、皆んなおいでになるのに。」
と、仰せられて、やさしくお笑いになった。
このお言葉を聞いて、「ほんに成る程、これこそ本当の親や。」と、何んとも言えぬ慕わしさが、キクの胸の底まで沁みわたり、強い感激に打たれたのであった。

『稿本天理教教祖伝』には次のようにあります。
 文久三年三月四日、忠作が初めて参詣して、妹くらの気の間違いに就いて伺うて貰うと、教祖は、
「此所八方の神が治まる処、天理王命と言う。ひだるい(ひもじい・空腹)所へ飯食べたようにはいかんなれど、日々薄やいで来る程に。」
と、仰せられた。


明らかに偽神によっていやされたと思う人がいたらそれは神として扱わなければいけないのでしょうか

私たちが生活する上で、宗教でなくとも、拝む対象がなくても癒しはあるわけです。
どのように受け止め、どのように考え、行動したのか、です。
癒されたという点があるのなら偽物宗教であっても、その部分においては天の理に沿っていたと考えることはできるでしょう。


人間の作り出した神を間違いだと気づかせることって難しいですね。

拝まれる対象としての神仏、それに変わりはなくとも、それを祭るために生まれた組織が変わっていくこともあります。
だれかの都合に合わせて組織をつくる場合もあるでしょう。
虎の威を借る狐のように、組織を権威付けることも起こってくるでしょう。

その宗教が法律的に正しいかどうかを判断の基準にする人がいますが、法律には矛盾があり、不備な点が多々あり、また社会現象を後追いするものですから無理があります。
オウム真理教は、法律に則って法人格を取得したわけですから。

真偽は、理性によって判断することになるでしょう。
ですから、理性の働きを止めてしまうマインドコントロールはやめさせなければなりませんし、犠牲者の心は解放されなければなりません。


教義がコロコロ変わっていくのは偽物宗教だと思います。

さて、天理教の歴史において教義を変えた時期があります。
それは明治から終戦までの間に起こった天理教撲滅運動、政府の迫害干渉を避けるためでした。
当時は警察の執拗な追及をいかに逃れるかで必死でした。
戦後すぐ、復元しましたけど。

この点を指摘し、天理教は教義を改ざんする宗教だ、と批判する者もあります。
しかし、教義を変えたのは表向きであって、中に入ればしっかりと信仰を守っていたわけです。
特高が厳しく目を光らせ続けていた、というのが中身を替えなかった証拠になるでしょう。
時の権力にシッポを振り教義を変え、心変わりしていたのなら、迫害干渉はすっきり消えていたはずですから。

教祖の教えは、偽物でしょうか?
それとも本物?

親神様はすべての人間の親です。
信仰しようとしまいと、可愛いわが子なんです。


どんなに偽物であろうとも正しい事を1つでもいってそれによって癒されたものがあるなら敬わなければいけないということですか?

癒されたことへの感謝はあるでしょうが、敬う対象としてふさわしいかどうか。
偽物宗教、すでに信仰の対象となっている神仏を利用するのがほとんどだとは思いますが、もし、人を騙し儲けようと創り出した神の場合、敬いようがないでしょう。

元の神、実の神ということ
教祖に最初の啓示があった時、『天理教教典』『稿本天理教教祖伝』には「我は元の神・実の神である。…」とありますね。
日本人の神観は八百万ですから、わざわざ「元の」「実の」をつけています。
そんじょそこらの神とは根本的に違うということを仰っているわけですね。

初代真柱様の手記には、最初の天啓は「我は天の将軍なり」とあります。
中国人は寺参りをする時、仏様を拝む前に天に祈りをささげます。
それは、神も仏も天帝の下にあるものという思想があるからです。
天界が地上界を支配しているということです。

これは台湾で聞いた話です。
大陸では共産党が「宗教はアヘンなり」ということで破壊してしまって、宗教はほとんど残っていないようですね。
最近は資本主義経済を入れてますから、表向き宗教自由のようにしてるようですけど。

台湾で実際見たんです。
寺院に背を向けてなにやら拝んで、それから振り向いて仏様を拝んでいる姿を。
理由を聞いたら、そういう答えでした。

日本では寺社を前にして天帝を拝むなんて考え方は全然ないんですから。
「我は天の将軍なり」という言葉が浮かんで、ホントびっくりしたんです。


(天理教の教理は)なんだか簡単すぎて。

「谷底せり上げ」、「ろっく(平ら)の地にする」、「学者金持ち後回し」と教祖は仰っています。
この教えは「かなの教え」と言われます。
額に汗して働く人たちをまずたすけたい、と。
そのためには易しい言葉、理解できる言葉でなければ伝わりません。

おふでさきについてのおさしづです。
幕末当時、漢字で書くのが教養ある者の尺度にもなっていましたから、ひらがなで書いてあるものは軽く扱われる時代でした。
「ふでさきというは、軽いようで重い。軽い心持ってはいけん。話の台であろう。取り違いありてはならん。……これまで諭し置いたる理は、仮名な柔らかい中に、要要の言葉諭してある。一時の処言葉だけでは忘れ易い。書きた事は忘れんもの。…」【明治三十七年八月二十三日】

おふでさきというのは、ひらがなで書いてあるので中身の薄いものと思いがちだが、そうではない。
軽く扱ってはならない。
この世治める真実の話である。
これまでおふでさきに記し、人々に諭しておいたものは、ひらがなで、柔らかい表現を使っているが、人間の在り方・生き方の要点を諭している。
言うだけでは忘れやすいので書き記したのだ。

意味としてはこんなところでしょうか。


哲学は難しいですよね。
日本語に訳したものは難しいけれど、ドイツ語の原書だとわかり易いそうです。
仏教が難解なのは翻訳してあるから、というのも理由の一つではないでしょうか。

翻訳というのは原語に対する一つの解釈ですから、訳者の考え方が入ってきます。
日本人は難しいものに権威を与えているというか、難しいものをありがたがる傾向があります。
法律はドイツから入ってますけど、六法全書なんてちょっと開いただけで頭が痛くなりますもん。
わざわざ難しい言い回ししなくてもよいのに、と思います。

言うは易く行なうは難し、というのもありますね。
おさしづには、この道は難しくない、人間の心がむずがしいのだ、とあります。
「…この道というはなか/\難しい道である。難しい、どうも難しい。何も難しい事やない。このくらい楽な事は無いなれど、皆心が難しいのや。…」【明治三十一年六月二日】

一般大衆に難解な教えでは、陽気ぐらしへ至る道は遥か彼方に遠ざかってしまうのではないでしょうか。
それでなくとも遠いのですから。


因縁とは切れるもの?受け入れるもの?

「世界にもどんないんねんもある。善きいんねんもあれば、悪いいんねんもある。」【明治二十八年七月二十二日】
「どれだけいんねんじゃ、いんねんと言うても、白いんねんもある、悪いんねんもある。」【明治三十一年九月三十日 午前二時】

いんねんは悪いもの、というイメージがあります。
でも、いんねんはまいた種が生えてきたということであって、「悪い」とは限りません。

「神様はなあ、『親にいんねんつけて、子の出て来るのを、神が待ち受けている。』 と、仰っしゃりますねで。それで、一代より二代、二代より三代と理が深くなるねで。理が深くなって、末代の理になるのやで。人々の心の理によって、一代の者もあれば、二代三代の者もある。又、末代の者もある。理が続いて、悪いんねんの者でも白いんねんになるねで。」『稿本天理教教祖伝逸話篇』「九〇 一代より二代」

「…成っても成らいでも、さあ人間というものは、一代と思えば頼り無きものなれど、人間というものは、生まれ更わりの理がある。善き種蒔いたら善き実がのる。この一つの理よく聞き分け。こんな事と更に思うやない。成っても成らいでもと、この理聞き分け。越すに越せん。遁るに遁れん。一代と言うたら心細い。世上にはこれだけの道を通りて、あれではなあと言う。心を、さあ一つ、よく治めてくれるよう。」【明治三十六年三月三十日】

死んでしまったら何もなくなってしまう、というのなら、自分が損をするようなことや、わざわざ苦労するようなことをしようとは思えません。
「人生は一度きり」ではありますが、出直してまた、この世に生まれてきます。
前生、前前生と、これまでに成したさまざまなものを背負って。

でも、いんねんは変えられるんです。
時々刻々、自分の心遣いや行いによっていんねんは変化しているんです。
もっとも、人間のすることなんて微々たるものですから、そんなこと感じませんけど。
悪いんねんの、いま生きているうちに変えられるものもあるだろうし、何代もかけてやっと果たすものもあるでしょう。


いんねんは自覚しないと、どのようにしたらよいのか判断できませんから、まず受け入れないといけないでしょうね。
その上で、どう変えて行くのか、切って行くのかを思案し実行すると。

「…見るもいんねん、聞くもいんねん。添うもいんねん。…」【明治二十三年九月二十七日】
自分のいんねんについては、親、先祖、親戚縁者、生まれ育った環境のありようから推測できます。

をやこでもふう/\のなかもきよたいも みなめへ/\に心ちがうで 五号 8
親子でも夫婦の仲も兄弟も 皆銘々に心違うで
とおふでさきにありますから、まったく同じということはありませんが、いんねんとしては、近い者が集まってきます。


身上と因縁のちがいがわからない。
いんねんででる体の不調と身上のしらせとしてのからだの不調。

大雑把に言って、すぐに治るものは親神様からのお知らせ、手引きです。
ちょっとした心遣いを直すよう促すとか、もうちょっと成長してほしいという思召であったりと、そんな感じでしょうか。
なにかきっかけがないと、なかなか前に進めないものです。
新しいこと、たとえば教会の神殿普請を、身上に障りをつけることを通して始めさせるようなことはあるでしょうね。

長引いてなかなか治らないものは、神の手入れであり、積み重なった心のほこりが表れたものでしょう。
わかっちゃいるけどやめられない、みたいなことってありますよね。
いんねんとなると、生まれつきの体質とか持病持とかになってくるでしょうか。
いんねんかほこりか、どの辺で線を引くのかという明確なところはなんとも言えませんが。
悪いんねんの表れは、病だけではなく事故や災難の類もありますよね。


「いんねん」でもっとも大切なのは、「元のいんねん」です。
陽気ぐらしをするために生まれてきた私たちだということです。
この元、基準点から、それぞれ個々のいんねんを見るんです。
そうしないと、対処療法的ないんねん切りになってしまう恐れがあります。


人を通して組織をみれば、それはもちろん100パーセントその神仏の教えを理解し実践しているような聖人はいないわけで、どうしても「本音と建て前」として写ってしまい、本来の教えが「偽物」として見えてしまう。


逆なんでしょうね、人や組織を考えずまずは「教え」を見ていく、自分だけでは理解も難しいからそこで「組織や人」を見る、しかし組織や人も完全ではない。
ということでしょうか?

教会長だから○○して当然。
別席も運んでいない信者だから○○しなくてもかまわない。
未信者だから…。

この道は、仏教のように出家(僧侶)と在家(信徒)は違う、というわけではありません。
教祖のひながたは教会長だけのものでも信者だけのものでもなく、すべての人間のためにあるものです。

持ち場・立場の差が信仰の差になるのではありません。
持ち場・立場の違いは働き方・役割の違いです。

高山にくらしているもたにそこに くらしているもをなしたまひい 十三号 45
高山に暮らしているも谷底に 暮らしているも同じ魂

陽気ぐらしを見たいが故につくられた人間、すべて同じです。
痛みを感じ切れば血の出る肉体を、人は皆お借りしているのです。
欲もあり、迷いも出ます。
ようは生き方が、親神様の思召に沿っているかいないのか、ということです。

…理は見えねど、皆帳面に付けてあるのも同じ事、月々年々余れば返やす、足らねば貰う。平均勘定はちゃんと付く。…
『おさしづ』【明治二十五年一月十三日 午後五時半】

…反対する者も可愛我が子、念ずる者は尚の事。なれど、念ずる者でも、用いねば反対同様のもの。…
『おさしづ』【明治二十九年四月二十一日】

(なむてんりわうのみこと、と)念ずる者でも、(天の法則に則した心遣いや行いを)用いねば反対同様となります。
心遣いや行いが天の法則に適っていれば、よきように帳面に記され、相応の与えがあります。
逆に、人の恩にばかりなっていれば、身動きとれないようになっていきます。
平均勘定はちゃんと付くわけです。

人間は「今」しか見ません。
20年、30年、あるいはもっと長い時間、という長い目で見ることができないんですね。
「今」のありようだけを見て、羨ましく思ったり、悔しがったり、憎んだり、蔑んだりします。
組織や人を見るとき、どのような経緯、体験をして今あるのか、「時間」を含めて見てみる、そんなことも必要ではないでしょうか。


おさしずやおふでさきで教えられていないことはどのように表されている?というか決められるのでしょうか?
銘々の先人たちが浮かんだとか便宜上決めたとかなんでしょうか?

う〜ん言葉にするのはむずかしいのですが〜

質問の意味とは多少ニュアンスが違うかもしれませんが。

「おふでさき」は原理原則を、「おさしづ」は応用を、記してあります。
おふでさきにもおさしづにも、みかぐらうたにも、教祖のひながたにもないことは、私たち人間が判断することになります。

陽気ぐらしというものは、大きなビジョンを親神様が描き、人間がそれを受けて考え工夫しつくりあげてゆくものです。
親神様は人間がどのようにして陽気ぐらし世界を築いてゆくのかを見たいのです。
そのために心の自由があるのです。

陽気ぐらしは一人ではできません。
独りよがりの考えでもいけません。
ですから、「談じ合い」が意味を持ってきます。

親神様は元始まりにあたり、必要な道具を引き寄せられました。
そして、その道具となる者たちと談じ合いをしています。

みすませばなかにどぢよもうをみいも ほかなるものもみへてあるなり 六号 83
見澄ませば中に泥鰌も魚巳も 他なる者も見えてあるなり

そのものをみなひきよせてたんぢやい にんけんしゆごはぢめかけたら 六号 84
その者を皆引き寄せて談じ合い 人間守護初め掛けたら

談じ合いというのは、その時からすでに大切だったのです。

おさしづには
…これまでをやが皆通り来たる道、聞いても居る、見ても居る。皆談じ合うて通りてくれ。大きい心を持って通れば大きい成る、小さい心を持って通れば小そうなる。親が怒って子供はどうして育つ。皆、をやの代りをするのや。満足さして連れて通るが親の役や。皆、満足さして、元のぢばや親里やと言うて、満足して帰るのやで。どんな事も談示して満足さすよう。【明治二十一年七月七日】
(原則:表記として、「をや」とは親神様のこと、「親」は人間の親をさす)

…十人寄れば十人の心、日々の処難しい。十人の心一人の心、一つすきやか一つ談じ合い、…【明治二十三年八月二十二日】

…さあ/\皆談じ合うてくれ/\。一人も隠し包みは要らん。皆んなそれ/\″事情以て話し掛けたら、こうなったという。【明治二十八年五月十日 午後】

談じ合いによって皆が納得し、「それで行きましょう」と心が集まり一つになれば、陽気ぐらしへの一歩になりますね。


そのために心があるんですねぇ。
自分が良くなりたいと思うだけではなく皆で良くなろうと考える心なんですね。

…神が連れて通る陽気と、めん/\勝手の陽気とある。勝手の陽気は通るに通れん。陽気というは、皆んな勇ましてこそ、真の陽気という。めん/\楽しんで、後々の者苦しますようでは、ほんとの陽気とは言えん。めんめん勝手の陽気は、生涯通れると思たら違うで。【明治三十年十二月十一日】

どのように進むべきか考え実行するのは人間ですが、陽気ぐらしという方向は示されているのですから、おのずと答えは出てくるのではないでしょうか。


陽気暮らしとは物理的なことではなくて精神的なことなんですね。

陽気ぐらしは、時・空間、物理法則という制約の中で行われる、ということです。
この身体(肉体)を使って陽気ぐらし世界を実現するのです。
そのため、心が大切になるのです。


八つのほこりはなぜ最初から十ではなく追加みたいになってるんでしょうか

「八つのほこり」+「うそ、ついしよ」ってことですよね。
八つのほこりは、心遣いについての教えです。
いっぽう「うそ、ついしよ」は行いになるでしょうね。


元はじまりで親神様がどじょうなどをたべてしまう事なんですが、なぜたべなければいけなかったのか?身を差し出した心をうけとったってことなのか、一体となることが重要なのか、食べなくても働きなどはわかるのではないかと。わざわざお願いしてまで〜
と屁理屈のようなことがおぢばで親神様の守護を見てから頭によぎるんです〜

ひとつの仮説です。
元始まりの話は、目に見えるもの、見えないものが混沌としている状態からはじまっています。

十柱の神様で食べられていないのは、いざなぎのみこと(うを)、いざなみのみこと(み)だけですね。
いざなぎのみこと、いざなみのみことが実体(器)で、あとは作用とか機能といった働きになるのではないでしょうか。

どじよは人間のたね(魂)とされています。
魂も目に見えませんね。

元の理は成人過程そのもの、と言う先生もいらっしゃいます。
人生そのもの、ってことなんでしょうか。
それって深いですよね。

元の理はむずかしいです。
うっかりすると泥海にはまってしまうので、手をだしてません(;^_^A


HOME