諸葛亮

181年〜234年。字は孔明。
前漢の司隷校尉 諸葛豊の子孫で、父の珪と小さい時に死別する。叔父の玄のもとで生活していた。 叔父の死後、兄の謹や義母と別れ、南陽郡の隆中で晴耕雨読の生活を送り、「伏龍」と呼ばれていた。 身長は8尺で、性格は真面目、忠義と誠意の人物で、政治的手腕に非常に優れていた。妻は有名な学者の娘で、 お世辞にも美人とは言えない容貌の持ち主だったが、その気立てと頭の良さを気に入って妻に迎え入れたと言われている。 実際彼女は良妻賢母ぶりを発揮、夫婦は仲むつまじかったと言われる。 劉備に三顧の礼で迎えられてからは、彼の唱える「天下三分の計」実現を目指して尽力する。
 赤壁の戦いでは単身呉に乗り込み、諸臣を論破し、曹操と戦わせることに成功している。 また貿易風の存在を知っていた上で、東南の風を祈ると言って芝居を打ってはったりをかけたりしている。 蜀攻略戦でホウ統が戦死すると、留守を関羽に任せて張飛・趙雲とともに援軍として駆けつける。 『演義』では、彼の詩を天文で察知したことになっている。
 223年、呉との戦いで敗退した劉備は、彼に「息子劉禅に才能が無いときは国を継いでくれ」と遺言する。 孔明は劉禅に帝位を継がせると、自分で政務を取りしきった。この後、呉と修交すると南征を行って反乱を鎮圧。 『演義』では孟獲を7回捕らえては7回釈放し、彼を心服せしめたとある。この時、饅頭(まんとう) を発明したという逸話もある。
 227年、有名な「出師の表」を上奏し、北伐に乗り出す。228年には、後々の後継者となる 姜維を帰順させるなど戦果をあげるが、街亭で馬謖が指示通り動かなかったために敗退、才を惜しみつつ彼を処刑、 自分も降格している。この後何度か北伐を敢行するが、234年、五丈原で司馬懿と対峙している時に病に倒れ、 没する。
 『演義』では、寿命を12年増やす儀式の最中に、報告に来た魏延が命の象徴である灯りをうっかり消してしまい、 死期を悟った孔明は、諸将に後を託すと息をひきとった、とある。