劉備

161〜223年。字は玄徳。
 前漢の景帝の子、中山靖王 劉勝の子孫。身長は7尺5寸(約173cm)、手は膝まで届くほど長く、 耳が非常に大きかったと伝えられる。また、雌雄一対の剣を愛用した。小さい頃に父 劉弘に死なれ、 母と草履やむしろを作って売ったり、馬商人の護衛をしたりして生計を立てていた。 15歳の時に、儒学者の盧植のもとで公孫サンらとともに学び、 これが縁でのちに一時公孫サンのもとに身を寄せることになる。 その後「桃園の誓い」で関羽・張飛と義兄弟の契りを結び、死別するまでその友情は続いた。 温和で感情をあまり表に出さない人物だが、非常に包容力が大きく、その人柄を慕って多くの人物がその下に集まった。
 一時曹操のもとにいたが、針のむしろにいる思いだった劉備は、袁術討伐を理由に出奔、曹操に反旗を翻す。 が、曹操に大敗を喫し、袁紹を頼って北へ逃れ、この後さらに劉表を頼って荊州へ行くことになる。 この地では、7年間平穏な日々が続いた。 この間に「三顧の礼」で待望の孔明を迎えたのをはじめ、 馬良などの優秀な人物を招き入れている。
 劉表の死後、後継者の劉jが曹操に降伏したため敗走を余儀なくされるが、呉と同盟し、赤壁の戦いで曹操を破ると、 荊州南の四郡を手に入れ、初めて根拠地を構えることとなった。この頃「伏龍」孔明に加え、 「鳳雛」ホウ統までも幕下におさめた劉備は、蜀の劉璋に請われて入蜀ことになる。この後、 緒臣の勧めで反旗を翻し、214年にはついに成都を開城させ、益州の牧となる。 以降荊州の権利をめぐって呉と争うが、東西に分割することで協定が成立。 219年曹操が魏王の位に就いたのに対抗し、漢中王の位に就いた。
 しかし比較的良好だった呉との国交が悪化し、呂蒙・陸遜の策にかかった関羽が捕らえられ、 荊州と義兄弟を失ってしまう。
 211年には曹操の後継者、曹丕が献帝から禅譲されて帝位に就いたことから、 正当性を主張するため蜀関の帝位に就く。が、関羽を斬られた恨みを忘れられなかった劉備は、 諸将の諫言も聞かずに呉に対し報復戦を開始する。はじめは優勢だったものの、陸遜に夷陵で大敗し、 白帝城まで逃げ帰ることになる。そして失意のためここで病に倒れ、孔明に「息子に器量がない時は、 君が帝位を継いでくれ」と遺言すると息を引き取った。享年63歳。