| 孫権 182〜252年。字は仲謀。 顔は角張り、口は大きく、碧眼、赤茶色のほおひげを持つ人物。 父は孫堅。呉の初代皇帝である。 まだ若いうち(18歳)に当主である兄の孫策が死んでしまい、その後を継ぐことになる。 その兄には、戦争などの能力は自分に及ばないが、内政では自分より優れているだろうと評されている。 その通り彼は賢者・謀臣をよく用い、国力の強化に努めた。 赤壁の戦いでは、周瑜や孔明の意見を採用して抗戦の断を下し、 周瑜率いる呉軍は、火計によって勝利を得ることになる。 その後曹操も「息子を持つなら仲謀のような男が欲しい」と賞賛したという。 また彼は大の酒好きで、よく酒宴を催したが酒癖が悪かったため 「酒宴の席で私の言ったことは取り合わないように」と家臣に言っている。 赤壁の戦いの後、占有できると思っていた荊州を劉備に占領されたため、 国境は紛争の地となっていた。 しかし劉備の入蜀後は荊州を分割することで協定が結ばれ、小康状態が続く。 219年、呂蒙の作戦で関羽を撃破、荊州を手中に収める。 劉備が報復戦を挑んでくると、若い陸遜を総大将にして迎撃、勝利を収める。 この頃、魏との国交が悪化してきたために蜀と和睦、劉備の死後も使者を送って国交回復に努めた。 229年皇帝に就任、長男の孫登を皇太子にした。 孫権は晩年疑い深い性格となり、呉は内部から崩壊していく。 長男の死後、後継者決めるに当たって孫和を指名するが、その弟 孫覇を可愛がって同格に扱ったために、 臣下は二分、陸遜らが諌めるもこれらを全く聞かなかった。 205年、結局孫和を廃嫡、孫覇を自害させその一派を処刑した。 孫和廃嫡を諌めた臣下も処刑されるなどした。 これら晩年の彼の荒れ様は、正史に細かく記述されているが、『演義』では触れられていない。 |