張遼

169〜222年。字は文遠。
 もとは呂布の配下。劉備軍との戦いでは、関羽に「何故貴殿のような優れた武将が呂布の配下などでいるのか」 と言われて軍を退いている。
 曹操との戦いに敗れた後、劉備・関羽の助命嘆願もあって曹操の配下となる。 その後、劉備との戦いで一人追い詰められた関羽を単身で説得に行き、以前助けられた恩を返している。 袁紹との戦いでは、その関羽とくつわを並べて出陣している。 義に篤く、文武両道に優れた武将で、同様な関羽とは互いに一目置いている仲である。
 対袁紹戦、北方異民族、孫権戦と各地を転戦し、その活躍はすさまじいものがある。 関羽が首を取ったと言われている顔良も、本当は彼が斬ったという説もある。 呉との月肥の戦いでは、七千で十万の兵を破り、孫権を捕らえる寸前まで打ちのめした。 孫権は彼の名前を聞くと、恐れて打って出なかったという。
 222年、病で亡くなる。