「伊豆の踊子」紀行

その1-峠の茶屋

天城湯ヶ島町・国道414号線の水生地下バス停から杉やブナなどが生い茂る旧街道に入り

暫く行くと左手一段上、杉林とわさび田を背に川端康成直筆の伊豆の踊子文学碑が建っています。

碑の右側は、小説「伊豆の踊子」の冒頭の文章が、左側には作者の顔のレリーフが刻まれています。

この小説の叙情豊かな自然と初々しい心情の描写は、今なお多くの人々を魅了しています。ここでは、

天城の自然や風景、そして学生と踊り子の心情を中心に紹介したいと思います。





[伊豆の踊子文学碑]


道がつづら折りになって

いよいよ天城峠が近づいたと思うころ

雨足が杉の密林を白く染めながら

すさまじい早さで麓から

わたしを追って来た。



物語は、主人公の学生が修善寺に一泊、そして湯ヶ島に二泊したおり、踊り子達を見かけ、

その翌日期待通り踊り子達に追いつく処から始まります。


重なり合った山々や原生林や深い渓谷の秋に見とれながらも、わたしは一つの期待に胸をとき

めかして道を急いでいるのだった。そのうちに大粒の雨がわたしを打ちはじめた。折れ曲がった

急な坂道をかけのぼった。ようやく峠の北口の茶屋にたどり着いてほっとすると同時に、わたしは

その入り口で立ちすくんでしまった。あまりに期待がみごとに的中したからである。そこで旅芸人

の一行が休んでいたのだ。

つっ立っているわたしを見た踊り子がすぐに自分の座布団をはずして、裏返しにそばへ置いた。

「ええ・・・・・。」とだけ言って、わたしはその上に腰を下ろした。坂道を走った息切れとおどろき

とで「ありがとう。」ということばがのどにひっかかて出なかったのだ。

踊り子と間近に向かい合ったので、わたしはあわてて袂からタバコを取り出した。踊り子がまた

連れの女の前に煙草盆を引き寄せてわたしにちかくしてくれた。やっぱりわたしはだまっていた。

踊り子は十七位に見えた。わたしにはわからない古風の不思議な形に大きく髪を結っていた。

それが卵形のりりしい顔を非常に小さく見せながらも、美しく調和していた。髪をゆたかに誇張し

てえがいた、稗史的な娘の絵姿のような感じだった。



踊り子とま近向かい合い、どぎまぎしてしまった学生は、まもなく茶屋のばあさんに別の部屋に

案内された。そこで怪奇な中風患いのじいさんと出会った。幼くして両親を、そして最後の肉親の

祖父までもを亡くし孤児になってしまった学生は、この全身不随の水死人のような青ぶれの じい

さんに哀れみを感じ、しばらく休んだのち茶代にと50銭を置いて茶屋を出て行た。するとばあさん

が驚いてありがたがり、いくら断ってもカバンをはなさずとうとう峠のトンネルまで来てしまった。





[大正5当時の天城山隧道−林 良平 撮影]


小説の舞台になった峠の茶屋は水生地・白橋のすぐ先の右側、桂の大木のあたりにあったそうです。

しかし今はその痕跡はなく、雑木の茂った平地とその向こうに「下を覗くと美しい谷が目の届かない程

深かった」と記されている沢が、ころころ快く流れています。


また、この林良平氏撮影の写真に在るように小説では触れていないが、トンネル南北各口にも茶屋が

実在していたそうです。特にトンネル南口の茶屋は一番の規模で宿泊も出来たそうです。

そして北口の茶屋が小説の舞台になったのでは?との説もありますが小説の「峠の北口の茶屋」とは

「トンネル北口の茶屋」ではなく、「峠にさしかかかる北口の茶屋」と解釈して、五十銭の多額の茶代を

置いて店を出た学生に驚いたばあさんはが一町ばかりもちょこちょこついて来て「もったいのうござい

ます。」とおなじことを「くり返していた。」と記述している点を、追いかけてくる婆さんを一町ほど行っては

「この辺でいいよ。」と何回もくり返し断り、とうとう峠のトンネルまで来てしまったと解釈すれば白橋の

茶屋と言うことになります。
(一町は約109m、白橋〜トンネル間は約九町)

しかし小説である以上、意図的に二つの茶屋を合成してモデルにした可能性も考えられるでしょう。




[南口茶屋跡−さらに左に往時を偲ぶ石積みと松の木が残されている]


「どうもありがとう。」おじいさんがひとりだから帰ってあげてください。」とわたしが言うと、ばあさんは

やっとのことでカバンをはなした。

暗いトンネルにはいると、冷たいしずくがぽたぽた落ちていた。南伊豆の出口が前方に小さく明るん

でいた。


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