「伊豆の踊子」紀行

その3-下田へ


わたしのうわさらしい。千代子が私の歯並びの悪いことをいったので、踊り子が金歯を持ち

出したのだろう。顔の話らしいが、それが苦にもならないし、聞き耳をたてる気にもならない

ほどに、私は親しい気持ちになっているのだった。しばらく低い声がつづいてから踊り子の

いうのが聞こえた。

「いい人ね。」

「それはそう、いい人らしい。」

「ほんどにいい人ね。いい人はいいね。」

この物いいは単純であけっぱなしなひびきを持っていた。感情のかたむきをぽいと幼くなげだし

て見せた声だった。わたし自身にも自分をいい人だとすなおに感じることができた。晴れ晴れと

目を上げ明るい山々をながめた。


[下田への道筋]

「伊豆の踊子」には随所に自然や風景、おふくろや踊り子達などの心理描写に省略があると、

川端康成自身も認めています。

この先、下田へと続くのどかな道筋も残念ながら詳しく描かれていません。しかし主人公を学生とし

無垢の視点から大人達や情景・料理などを描写したこと、そして想像をかき立てる初々しい文章が

かえって、名作と言われる所以であろうと思います。


それと、「伊豆の踊子」は川端康成全作品中ただ一つのモデル小説であると公言されています。

モデルになったのは信州小倉村(現三郷村小倉区)生まれの松沢要こと岡本文太夫とその

家族であったと言う一説をここで紹介します。

文太夫は松本や東京に出て新内の修行をし、その後新派の一座に加わり、巡業先の伊豆に

一人立ちの旅役者として住み着く。最初は太鼓に合わせて唄をうたい子供達に飴を売って歩く

生活だったが、しだいにその芸が評判になり新内や段物を語ってくれと頼まれたり宴会にも呼ば

れるようになった。しかしある農家の恵まれない結婚をした嫁と恋仲になり、一騒動の末結婚、

世間の軋轢を避け、生活のため、そして芸への熱い想いが燃えたぎった時もあったであろう、

伊豆各地やふるさとの信州、大島などを移り住む。小説の中で栄吉は下田に発つ前の日、

河津橋の上で学生へこう語っている。



東京である新派役者の群にしばらく加わっていたとのことだった。今でも時々大島の港で

芝居をするのだそうだ。彼の荷物の風呂敷から刀のさやが足のようにはみ出していたの

だったが、お座敷でも芝居のまねをしてみせるのだといった。柳行李の中はその衣装や

なべ茶碗なぞの世帯道具なのである

「わたしは身をあやまった果てに落ちぶれてしまいましたが、兄が甲府でりっぱに家の

跡目を立てていてくれます。だからわたしはまあいらないからだなんです。」



「伊豆の踊子」の舞台となった大正7年頃は、小説に記してあるよう波布の港でお茶やをしており、

合間に伊豆廻りの旅芸人をしていました。文太夫四十歳、後妻ふく二十五歳、娘の千代子とたみ、

貰い子の薫の五人だったが、娘二人は年齢も前妻の子であるかもはっきりしていないそうです。

原作では栄吉二十四歳、おふくろ四十女、妻千代子十九歳、百合子十七歳、踊り子の薫十四歳

と設定されている。作者の心理や小説の組立など考えると面白いと思います。


その後は下田、栃木県足尾市、北伊豆と居を移していて、踊り子のモデルと言われる「たみ」は、

若くして亡くなったのでしょうか足尾から消息がぷっつりと切れています。姉千代子は離婚後、両親

と生涯を共にしそうです。貰い子の薫は戦後、東京近郊で波布の知人が見かけたそうです。そして

文太夫は故郷信州の面影ある北伊豆で農業のかたわら青年達に芝居を教えながら生活し、昭和

二十五年七十二歳で死去。そして妻「ふく」は昭和四十年八月に死亡したそうです。
                  
                                     (土屋寛 著「天城路慕情」参照)



上に述べた文太夫とその家族が小説のモデルであったと言う100%の確証はありませんが、当時

の旅芸人の実体は皆同じようなものであったろうと想像できます。下田の踊り子の宿「甲州屋」での

風景にも・・・


芸人達は同じ宿の人々と賑やかな挨拶を交わしていた。やはり芸人や香具師の様な連中ばかり

だった。下田の港はこんな渡り鳥の巣であるらしかった。





[旧船宿・土佐屋 下田市七軒町]

現在の甲州屋は火災に遭い以前の面影はありませんが、この土佐屋さんは

踊り子の宿甲州屋の、「二階の天井が無く、屋根裏が頭につかえる部屋」の

イメージを彷彿させています。




[Next]



[Home]