「伊豆の踊子」紀行 |
川端康成の小説「伊豆の踊り子」の中で主人公の一校の学生は、修善寺に一泊そして湯ヶ島で二泊し たおり、踊り子達と出会った。その翌日期待通り、踊り子一行に天城峠の茶屋で追いつき湯ヶ野まで同 行する間に、栄吉と気心が知れ下田まで一緒に旅することになった。踊り子一行の都合のため湯ヶ野 に三泊する内に、踊り子たちとも打ち解け合い、いよいよ明日は下田へ旅立ちとなった。 「ああ、お月様。――あしたは下田、うれしいな。赤んぼうの四十九日をして、おっかさんにくしを買って もらって、それからいろんなことがありますのよ。活動へ連れて行ってくださいましね。」(薫・十四歳) しかしそんな楽しい旅も、下田に着き踊り子一行の宿甲州屋で学生が踊り子達を活動に誘うが兄嫁の 千代子は産後の日立ちが悪くぐったしとしていて断った。そして雇いの踊り子の百合子の方もかたく なってうつむいてしまったのだった。そして薫も・・・ 踊り子は階下で宿の子どもと遊んでいた。わたしを見るとおふくろにすがりついて活動に行かせてくれ とせがんでいたが、顔をうしなったようにぼんやりわたしのところにもどってげたをなおしてくれた。 「なんだって。ひとりで連れて行ってもらったらいいじゃないか。」 と栄吉が話し込んだけれども、おふくろが承知しなかったらしかった。なぜひとりではいけないのか、 わたしはじつにふしぎだった。玄関を出ようとすると踊り子は犬の頭をなでていた。わたしがことばを かけかねたほどによそよそしいふうだった。遠くからたえずかすかに太鼓の音が聞こえてくるような気 がした。わけもなく涙がぼたぼた落ちた。 学生も違う世界で生きている人間との縮める事の出来ない距離を感じ、また明日には別れなければ ならない寂しさを感じたのだった。そして出立の朝、わびしい気持ちでいる学生の宿へ栄吉が見送り にやってきた。 乗船場に近づくと、海ぎわにうずくまっている踊り子の姿が私の胸に飛び込んだ。そばに行くまで彼女 はじっとしていた。だまって頭を下げた。ゆうべのままの化粧がわたしをいっそう感情的にした。なまじり の紅がおこっているかのような顔に幼いりりしさをあたえていた。栄吉が言った。 「ほかの者も来るのか。」 踊り子は頭をふった。 「皆まだ寝ているのか。」 踊り子はうなずいた。 栄吉が船の切符とはしけ券とを買いに行っているあいだに、わたしはいろいろ話しかけてみたが、踊り 子は堀割が海にはいるところをじっと見おろしたまま一言もいわなかった。わたしのことばが終わらない さき終わらないさきに、何度となくこくりこくりうなずいて見せるだけだった。 そして、はしけに乗るときになっても踊り子が、くちびるをきっと閉じたまま一方を見つめ続けているので さようならを言うことが出来なかった。はしけが帰り汽船が動き出すと、栄吉は学生に貰った鳥打ち帽を しきりにふって見送ってくれたが、踊り子は汽船が遠ざかってからやっと気を取り直したように、白い物を ふりはじめたのだった。 その後汽船に乗った学生は全くの偶然にばあさんの面倒を見ることになり、河津の少年とも親しくなった。 孤児根性でゆがんで憂鬱だった学生が、それを自然に受け入れられるよな美しい空虚な気持ちを 持つことが出来るよう変わってきた。そして「頭が澄んだ水になってしまっていて、それがぼろぼろこぼれ、 そのあとにはなにものこらないような甘いこころよさ」を感じたのだった。 十四歳の美しい踊り子によせた淡い思いとせつない別れが、学生を一つ大人にしたのだった。 |
[大正5撮影の船着き場] 林良平氏撮影より一部拡大 現在の「下田フィッシング」の処に藤井回漕店(堀割の手前)がありました。 そして回漕業者のはしけで河口に停泊している大型汽船に渡してもらいました。 今は堀割は道路に、岸壁も改修され当時の面影を残す物は全く無くなっていますが、 平成14年5月に「伊豆の踊子別れの汽船のりば跡」の案内板が設置されました。 下田では今、湾岸の整備が進められていて「ミニお台場」化して来ているなと感じます。 赤字財政の元であるハコモノを作るより、古い物を保存する方が大切だと思います。 汽船のりば跡案内板と大横町通り [藤井回漕店入り口] 藤井靖氏 当時切符売り場は堀割側にあり、踊り子は中央少年が写っているあたりで学生を待っていた。 この建物と掘り割りが残っていたら、きっと観光名所になっていたことでしょう。 画像は,安東看板さん発行「ザ・シモダ」より転載させて頂きました。 |