カウンセリングのページ
このページには拙著『カウンセリングと禅』(ゆみる出版)からカウンセリングのそれぞれの理論や技法などを適宜抜粋して紹介しています。
カウンセリングの定義
私の師、友田不二男先生は次のように位置づけておられます。 カウンセリングということは、一言で言えば、「人間がそれぞれの自主性・主体性において限りなく模索していく、そのものの人生を模索していくプロセスなんだ。」
ずいぶん広い意味でとらえられていますが、私もこれまでの人生を振り返ってみても、あるいは今後の人生を見通してみても「模索していくプロセス」というところに共感、共鳴しています。
このページには以下に拙著『カウンセリングと禅』からカウンセリングのそれぞれの理論や技法などを適宜抜粋して紹介しています。
一 精神分析理論
@ 無意識の発見
「精神分析」の功績はなんといっても「無意識」という概念を発見したということだろうと思います。それ以前の西洋の考え方においては、人間の考え・行動はすべて「意識」の中で、その範囲の中で規定されるというものだったということです。(東洋においては、特に仏教の唯識にはすでに「無意識」に該当する、むしろそれよりも深くて広い、末那識と阿頼耶識という考え方がありました。)そういう中でフロイトは、「意識」の占める領域はほんの一部であり、無意識の領域が人間の中に非常に広いことを発見したわけです。フロイトは「自我は自分自身の家の主人などではけっしてありえないし、自分の心情生活の中で無意識に起こっていることについても、依然としてごく乏しい情報しか与えられていない」と言っています。自分自身の心の中で起こっていることは自分自身がいちばんよくわかっている、というのがフロイト以前の考え方でした。それに対して自分自身をあまり知らないというのですからたいへんな、天動説から地動説への大転換のようなものです。この無意識という概念は、今ではほとんど常識になってきています。現代のさまざまな心理学においても、この無意識という概念の上に立脚しているわけです。
そしてこの無意識の力動によってさまざまな行動をしていると考えますので、そういう中のいわゆる問題行動について無意識の世界を探って、その問題行動の原因を探し、その原因が見つかってそれを受け容れることができた時、つまり抑圧しているものを意識化できた時、その問題行動は治癒されるということです。フロイトは「神経症はまさしく一種の無知、すなわち知っているべきはずの心的過程を知らないでいることの結果だ」と言っています。その心的過程を解明し、知ること、つまり受け容れることができた時、神経症は治癒されると考えるわけです。
A 自由連想法
ではどういうふうにするかというと、フロイトは有名な「自由連想法」を始めました。長椅子に横になって…云々というのは私達には縁がないので省略しますが、その「自由連想」の中で出てくるものを聞きながら、治療者(サイコアナリスト)が解釈を提示していきます。それに対して患者がいろいろな反応を示します。その反応の中の特に「転移」や「抵抗」などの防衛機制を利用して無意識に抑圧しているものを探していくわけです。 「転移」というのは、父親や夫などに向けるべき感情を(フロイトの場合は婦人のヒステリーの治療から始まったので)治療者などに向けられることを言います。「抵抗」というのは、無意識に抑圧しているもののために「自由連想」が出てこなくなったり、あるいは治療者に対する心理的抵抗のために、無意識的に間違いや物忘れをしたりすることなどを言います。
その他に、「抑圧、否認、反動形成、退行、投影、置き換え」などの心の働き、防衛機制があって、さまざまな無意識下の感情や行動に、相互作用、つまり心の葛藤の結果として現われていると考えられているわけです。
B 自我構造論
フロイトは精神の内界、心の世界を、「自我・エス・超自我」の三つのバランスによって機能していると考えました。
「自我」というのはエゴとも言いますが、「現実原則」に則して判断をしていく部分です。これは後天的な学習によって身に付けられるものです。
「エス」というのは本能的欲求で、「快楽原則」に従って食欲や性欲などを表出しようとします。これを抑制するのが自我の働きです。
「超自我」はいわゆる良心です。これは自我の一部が無意識化して行動を律し、感情を抑圧することもその働きです。
この三つがうまくバランスをとって共存しているのが健全な人間ということです。このバランスが崩れてしまって、この中のどれかひとつ、あるいはふたつが突出したりすると、それが何らかの行動の歪みや神経症になって現われてくると考えられるわけです。その行動の歪みや神経症の解釈をする時に、この自我構造論に当てはめてみると、より理解が深まる場合があります。そして、突出したところを抑制するように、弱まっているところを強化するように意識することによって、バランスがとれるようにしていこうというわけです。
C 夢分析
人はなぜ夢を見るのでしょうか。フロイトは自分の夢を自由連想していく中で、今まで気づかなかった願望が隠されていることに気づき、そこから『夢判断』という夢の理論を体系化しました。
夢は前日や最近の出来事に触発されて見たりするわけですが、それらを自由連想で深く追求してみると、幼児期の体験や願望に結びついてくることがあると考えます。幼児期に満たされなかった、無意識に抑圧された願望が、前日や最近の出来事に触発されて夢に現われてくると考えるわけです。つまり、夢の働きは願望充足だということです。
しかし睡眠中でも、無意識に抑圧されている願望がそのままの形で夢に出てくるわけではありません。いろいろに姿や形を変えて、そのままでは意識ではわからないように現われてきます。それらを自由連想等によって解釈することで、無意識の世界を解明することができると考えられるわけです。フロイトは「夢は無意識への王道である」と言います。
D エディプス・コンプレックス
フロイトは四十歳で父親を亡くし、その「喪の仕事」として夢の自己分析をしました。その中で、幼児期に母親の裸身を見たときの性的な願望と父親への敵意があったということに気が付きました。
この心理をギリシャ悲劇のエディプス王の物語になぞらえて、エディプス・コンプレックスと名付けました。幼児が異性の親に近親相姦的願望を抱き、同性の親には敵意を抱くというのは普遍的な心理だということです。
このエディプス・コンプレックスは三〜五歳ぐらいの時期に経験されることが多いようですが、その願望は当然のことながら抑圧されるわけです。むしろ自己懲罰的になることもあるわけです。その結果心の中での葛藤が生じます。それが神経症となって現われると考えられたわけです。
D 性欲動と発達
フロイトの示した発達段階は、口唇期(〜一歳半)、肛門期(一歳半〜三歳)、男根期(三歳〜六歳)、潜伏期(六歳〜思春期)、性器期(思春期〜)となっています。
性欲動はまず口周囲に現われ、栄養摂取活動と同時で、その対象も乳房となっていますが、やがてしゃぶる、なめるという行動によって口唇に快感を得ようとします。子供の指しゃぶりはその名残りですし、喫煙や飲酒に過度に執着するのもそのようです。
次に肛門に現われ、排便による快感、自由に排便したい自己の欲求と親の躾による欲求との葛藤が生じてきます。
三歳頃になると性欲動はペニス、クリトリスに強く現われ、男児は母親に性的な感情を持ち、父親に対しては敵意を持つようになると言われています。しかしこの感情は逆に父親に去勢されるのではないかという不安を生じ、抑圧されていきます。それから父親と競う代わりに、父親のようになりたいと思って男らしさを身につけようとしはじめます。女児は、ペニスのないことに劣等感を持ち、母親から父親へと愛情の対象を代え、父親に性的な感情を持つようになり、それを抑圧し、母親を見習って女らしさを身につけるようになるということです。この時期の、異性の親に性的感情を持ち、同性の親に敵意を持つことをエディプス・コンプレックスというわけです。
潜伏期にはこの性欲動はさまざまな感情に形を変えて現われてくるようです。社会的な感情などの形成もその一部のようです。
やがて思春期となると、性欲動が非常に増大し、親とは違う異性を求めるようになります。この時期を性器期というわけです。
性欲動はこのように段階的に発達し、また抑圧されてきています。その中の特定の抑圧が強く固着している場合の心理的特徴をそれぞれ「口唇性格」「肛門性格」「男根性格」と呼びます。成人になって性欲動が増大し、何らかの事情でその性欲動が充足されない時に、この固着点に退行することがあります。それは抑圧されているために倒錯的、神経症的になってきます。フロイトはその点に注目し、それぞれに分類して治療を行なったわけです。
E 死の欲動(破壊)
この死の欲動というのはフロイトの晩年になってからの概念であり、発表当時から賛否両論あり、必ずしもそのすべてが生れ付きの本能的なものだというふうに一般に認められているわけではないようですが、後得的なものだとしても、そのように考えざるをえないようなこともあるようです。
フロイトは『快感原則の彼岸』の中で、人間の二大本能として生の本能(エロス)に対して死の本能を位置付けています。そして「われわれはついにショーペンハウエルの港に行き着いてしまった」とも述べています。ショーペンハウエルは人間の意志の奥に潜むものは何かということを問い続け、「意志自体が意志を廃絶しようとする傾向をもつ」というふうに結論付けているということです。フロイトはこれを無意識の世界の奥にあるものとして位置付けたわけです。
F 転移と逆転移
フロイトは治療中に患者が分析医に向ける感情に注目し、分析医を理想の人物として崇拝したり、恋人のように恋愛感情を向けたり、逆に恐怖や憎悪の対象とすることがあるということを洞察しました。そしてその感情や反応を転移と名付けたわけです。
分析医は患者の話す自由連想に「平等に漂う注意」を向けて聞いているわけですが、やはり患者の感情に影響されることはあるわけです。この影響、無意識的反応を逆転移と言い、分析医は常にこれを意識し、コントロールしていく必要があるというわけです。
フロイトはこのように無意識の世界を発見し、洞察を深め、精神分析の方法を確立してきました。この精神分析の考え方を教育の世界でも(あるいはその他でも)応用できるのではないかというふうに思います。例えば、生徒がいろいろな問題を抱えていて、教師に対しても反抗的な態度をとることがよくあります。こういうとき従来の教育観では、押さえ付けるか、よくしても説得して従わせるというようにします。それでも従わないときは退学というようなことになります。生徒の側としてはどうでしょうか。納得はしなくても表面上は従わないと退学になってしまうと困るから、渋々従うふりをしているわけです。そこには教育的な効果はあまりない、というよりもむしろ心理的には弊害があるだけかもしれません。さらに退学がもう恐くないと開き直ったら、あるいは義務教育の世界では、説得や指導に従うことはなくなってしまいます。
精神分析の考え方では、その生徒の反抗を「抵抗」と考えることができます。なんらかの心理的な抵抗です。その原因を探っていきます。父親が非常に頑固で強圧的で、父親には反抗できないので、その抑圧された感情を学校に、教師に向けていることもあるかもしれません。あるいはその逆で、父親不在であるとか、その他さまざまな抑圧によるものと考えることができるかもしれません。そうしたものに適切に対処していければ、その生徒なりの気づきから、抵抗、反抗がなくなっていくということがあると思うのです。
これからの学校教育においては、制度のあり方も考え直す必要もあると思いますし、生徒に対する、あるいはより広く、人間に対する考え方もその根本的なところから改めていく必要があると思います。
二 ユング心理学(分析心理学)
ユング心理学は、現在の日本では主流ともなっているようです。それはユング派の心理学者、河合隼雄氏の力もあるようですが、ふところも広く、やや東洋的であったりもするので、日本人には受け入れやすいもののようです。
ユングはフロイトの著作に大きな感銘を受け、フロイトの弟子となり、七年の間、親密な交友関係が続いたのですが、次第に考え方の違いが明らかとなり、決別してしまいました。
その違いというのは、フロイトがリビドーを性的なものに限定して考えたのに対して、ユングはより広く、心的エネルギーと考えたことです。さらにユングは無意識の世界を「個人的無意識」と「民族的無意識」、「普遍的無意識」というように分化させて考えるようになりました。
@ 元型
ユングは無意識の研究をすすめていく中で、夢の内容が、個人的な経験よりも神話的なモチーフと関連していると考え、民族的な、さらには全人類に普遍的な無意識の層があると考え、そこから元型(アーキタイプ)という考えに発展させていったわけです。
元型として重要なものは、アニマ、アニムス、シャドウ、グレートマザー、オールド・ワイズ・マンの五つがあげられます。
アニマというのはラテン語で、生命、風、息吹き、魂というような意味であり、男性の心の中に潜在する、ある種の理想の女性のイメージであり、創造力の源泉であると言われています。しかし二面性もあり、支配力があって死へ導くこともあると考えられています。男性の夢の中に現われる女性はすべてアニマ的なものであり、その中で最も強いイメージの女性がその人のアニマであると言われています。
アニムスもラテン語で、力、言葉、行為、意味、決断力などを与える役割を持ち、女性の心の中に潜在する、ある種の理想の男性のイメージのことです。知識や意見を告げる頼もしい存在であり、英雄的でもあります。こちらは二面性はあまりないようです。
シャドウというのは、影であり、明るい意識化された自分の反面に隠された人格の暗い部分のことです。その人にとって認めがたいものであり、無意識に抑圧されたものですので、夢の解釈などにおいては重要な存在となっています。夢の中では泥棒や強盗、悪魔、悪の大王、動物、あるいは暗闇や夜というようなイメージで現われます。また、ジキル博士のハイドや、ファウストのメフィストなどもその例と考えられます。
グレートマザーは太母といい、女性原理、母性原理を表します。母性本能には、あらゆるものを育てるという母のイメージと、あらゆるものを呑み込んでしまう恐ろしいイメージという二面性があります。例としては、鬼子母神や『ヘンゼルとグレーテル』の魔法使い等があげられます。昔話の世界における主人公が、怪獣等を退治して娘を助けたりする話がありますが、これは母と未分化のままでいる息子が、グレートマザーである母的なものと別れて自分の中にアニマである自分自身の別の女性像を育てていく、母からの自立に必要なドラマだと考えられています。一寸法師や桃太郎等の話はこれに該当するようです。
オールド・ワイズ・マンは老賢人と訳され、男性原理、父性原理を表します。これにも、さまざまな社会的な問題を乗り越えて、悠々自適している仙人のような存在でもあり、逆に権力を振り回し、闘争や破壊の衝動に駆られるという二面性があります。
A 自己実現(セルフ・リアライゼーション)
ユングは心の全体性について強い関心を持ち、自己(セルフ)の概念をその心理学の中心と考えていたようです。またそのことは東洋思想との関連性が強く、全体性に向かおうとする心の働きとして捉え、それを自己実現への志向というふうに考えられていったわけです。そのような心の全体性の象徴として、ユングは、幾何学的な図形として生じてくるものをマンダラと呼びました。それは「より高い水準において対立するものを統合する象徴」として捉え、その中に自己自身を表現していく発達過程として重要視されたわけです。この自己実現という考え方はその後のさまざまな心理学でも中心的なテーマとなっています。
B 夢分析
ユングはフロイトの夢分析をさらに発展、深化させて研究しました。ユングは無意識そのものが主体性を持ち、それ自体が豊かな内容を持っていると考えました。無意識は意識に対して夢を介してメッセージを送り、意識の発展と安定を図ろうとしていると洞察していきました。そして夢は、単に解釈していくだけではなく、夢の内容そのものを深めていく、成長させていくということをユングは提唱しているわけです。そうなってくれば必然的に意識の世界でも、人間的成長があるはずだというわけです。意識と無意識は相補的だというふうにユングは考えていたようです。
C 共時性
ユングは「意味のある偶然の一致」を数多く経験したようです。そして『易経』の研究をするなかで、因果律とは異なる原理に基づいた原理があると考え、それを共時性と名づけました。その後、物理学者パウリ(ノーベル賞受賞者)との共著で『非因果的関連の原理としての共時性』という論文を発表しました。これは「集合的無意識」ともつながるもので、新しい世界観を提唱するものであり、ユングにとっても最大の関心事だったと思われます。
共時性は3つに分類されます。
1 感情や理念と出来事の一致
2 夢と出来事の一致
3 夢が将来において実際に起こること
老荘思想の「道(タオ)」というのは、宇宙の現象の根源です。人間界も自然界もこの「道」によって関連づけられているわけです。したがって心理的現象と物理的現象も相互に関連しているというわけです。ユングはこれを「共時性」と名づけたわけです。この変化、変易する「道」、「陰極まれば陽となり、陽極まれば陰となる」ところを『易経』は六十四の隠喩で教えています。それを筮竹で占い、読み解くわけです。
この共時性の原理は、時間や空間を越えて遍在していることがあるとしています。「集合的無意識」においても同様です。この考え方は現代物理学やニューサイエンス、トランスパーソナル心理学に受け継がれているようです。
ユングはこの共時性の考えは因果律を否定するということで西欧の社会にはなかなか受け入れられないということを想定していましたので、数十年の間発表しなかったようです。しかしユングにとって最も重要な、今後の検討に値する世界観として提唱したというわけです。
三 アドラー心理学(個人心理学)
アドラーもユングと同様にフロイトの著書を読んで感動し、フロイトとともに活動をしていきますが、フロイトの性的なリビドーという説に対しては当初から懐疑的だったようです。
@ 劣等コンプレックス
アドラーは幼少期からクル病や肺炎など重度の身体的なハンディキャップがあり、そのために発奮して医師になったとも言われています。少年の頃、数学ができず、また今で言う不登校の状態が半年ほど続き、その半年の終りごろは発奮して不得手な数学の勉強をしていき、学校で数学の教師が少年アドラーに難しい問題をやらせてみたところスラスラと問題を解いてしまったというエピソードが残されています。
アドラーはこのような自分の体験から、身体が弱かったり、障害があったりすると、それを補償しよう、克服しようという働きが強く起こることを洞察し、研究をすすめていきました。そして『器官劣等性とその心理的補償についての研究』にまとめられていきます。それによると、人間は心理的・身体的に何らかの劣等性を持つものであり、その劣等コンプレックスを補償しようという働きが大きな役割を果たしていると述べられています。その例として、ギリシャの雄弁家デモステネスは幼少の頃は吃音症であり、作曲家のベートーヴェンやスメタナは難聴であったというわけです。
A 権力への意志
アドラーはさらにその考えを推し進めていきます。そしてこの劣等感に対する補償作用こそ、人間の精神、無意識の世界を解明していく鍵概念であることを主張し、性的リビドーを中心として考えるフロイトと決別していきます。この劣等感の補償、克服という働きはさらに、「権力への意志」として必然的に発展していくものだというわけです。
劣等感は健常な子供でも、大人に支配されている自分を無力であると感じ、その劣等感を克服するために、無意識の中からさまざまな指示を出していると考えられました。これによって成人後の性格形成もされ、そういう中から出てくる「過補償」や「疾病逃避」などの神経症などもこの理論によって説明されるというわけです。
B 共同体感情と勇気づけ
アドラーはその後、軍医として従軍します。この体験の中から、人間にとって社会性というものがいかに重要なものであるかということを認識します。そして人間の幸福感は社会に建設的に関わることによってのみ達成されるという洞察を得ます。これを「共同体感情」と言います。
このことは非常に大きなことを示唆しています。心理療法の考え方や方法を百八十度転換することになります。つまり、フロイトが神経症などの原因を探し、その原因を理解することによって症状を治していこうとするのに対して、アドラーは神経症もさまざまな性格や行動も、その個人がそれらを使ってどうしようとしているのか、何をしようとしているのか、というふうに目的論としてとらえます。神経症なら神経症によって、親の関心を得ようとしているのかもしれませんし、あるいはそれによって自己の安定を図ろうとしているのかも知れません。原因探しはつい犯人探しということになりがちです。現代の児童・生徒のさまざまな問題の原因探し、犯人探しをしても、問題解決には結びつかないことも多いと思います。それよりもアドラーの提唱している考え方、その問題ならその問題によってその個人が何をしようとしているのかというふうにとらえることによって、問題解決に導くことのほうが有益なことが多いのではないかというわけです。
アドラーは「重要なのは、人が何を持って生まれてきたかではなく、与えられたものをどう使いこなすかである。」と言っています。これは絶え間なく、動的に、現在から未来に向かって生きているのだという人間存在の見方であり、主体的な、そして非常に実践的な、基本的に信頼感を持った心理学だと言えると思います。そしてまた現実のルールに沿ってその個人が自分を使えるように共にしていこう、支えていこうというのが「勇気づけ」という援助的な関わり方のことです。
アドラーの言葉をいくつか紹介します。
「人間は目的に向かって生き、行動している。」
「すべての行動には目的がある。」
「不適切な行動も注意深くみると負の目的がある。」
「人間は主観的な意味付けに生き、かつ選択し、決断して行動している。」
「個人がより主体的に、またこの世界の一員としての仲間感覚をより一層育てて生きて いくことが人の幸せに至る道である。」
「勇気づけとは、個人が現実の一つ一つを受け容れ、取り組んでいく姿勢や態度に、同 じ人間としてともに立ち向かっていこうという促しの表明である。」
このアドラー心理学の考え方は、今後の社会にとって根本的なものとして取り入れていく必要があると思います。
四 ロジャーズ心理学
ロジャーズは当初、ウィスコンシン大学で農業を専攻し、その後歴史学に変更し、さらに牧師を志すようになって、ニューヨークのユニオン神学校に入学しました。ロジャーズにはどこか宗教的な雰囲気が感じられるのですが、それはこのあたりからも言えるようです。やがて思想の自由をさらに追求するようになって、コロンビア大学で心理学を専攻し、博士号を取得します。ロジャーズも初めは精神分析を学んだのですが、次第に精神分析には批判的になり、人格理論、自己理論を確立していきます。
ロジャーズは実証的な研究に基礎を置き、理論や方法の裏付けのために厖大な事例を研究していきました。まだ録音技術の拙劣な時代にもかかわらず、カウンセリングのプロセスをすべて録音し、それを公開して研究を進めていったわけです。
@ 自己理論(セルフ・セオリー)
ロジャーズの自己理論の基本的な考え方は、「自己一致」ということになります。理想としての自己、つまり思い込みとしての自己のイメージと、実際の自己、つまりあるがままの自己のイメージとが一致していることが人間的であり、健康な心の状態であり、逆にその二つの間のギャップが大きいと神経症やその他の症状となって現われてくるということです。この不一致はさまざまな抑圧や葛藤を生じさせるので、カウンセリングにおいてこの不一致に気づき、理想としての自己と実際の自己との統合を目指していこうとするわけです。そして人はそういう自己実現に向かおうとするものであり、カウンセリングにおける「共感的理解」と「受容的雰囲気」によって支えられるものだというわけです。
ロジャーズはこのことを次のように述べています。
「人は自分自身の中に、自己理解したり、自己概念や態度や意識的な行動を変化させたりするさまざまな資源をもっている。しかも、こうした資源ははっきりした促進的な心理的態度さえ提供されればいつでも使えるのだ。」
ロジャーズの『人間尊重の心理学』(畠瀬直子訳、創元社)に、ある参加者の婦人の詩が紹介されています。エンカウンターのワークショップ(共同研究会、セミナー)に参加したことによる自己の成長を実にうまくまとめていると思います。
A 非指示的療法(ノン・ディレクティブ・セラピー)
ロジャーズはその自己理論によって、非指示的療法と呼ばれているセラピーを始めます。これは人間関係において基本的な信頼感を築くことができれば、つまり「共感的理解」と「受容」とが成り立っていれば、人は「自己一致」に向かうことができるわけですから、何も指示することはない、むしろ何も指示することなどできないと考える姿勢が真の人間関係につながっているというふうに考えるというわけです。
夏目漱石の小説『行人』の中で、主人公一郎の非常に深い、底知れない苦悩に向かって、一郎の友人Hはなんとかしてやりたいと思いながら、それでもただ「煙草をふかしているしかない」という場面があります。友田不二男先生はここを取り上げて、真の人間関係のあり方として紹介しています。
人間関係のあり方を謙虚に考えるならば、本当にそうだろう、指示することなどできないはずだと納得させられます。
B 来談者中心療法(クライエント・センタード・セラピー)からエンカウンターまで
ロジャーズはこの非指示的療法を実践していくにあたって、まず「患者」という考え方を改めて、「来談者」(クライエント)というふうに呼びました。これは非常に大きな違いです。治療者と患者という関係ではどこかに上下関係とか、強者と弱者との関係というようなものがつきまといます。そうではなく対等の関係なんだということをお互いに認識することです。そうでなくては真の人間関係を築くことはできません。まさに慧眼といっていいでしょう。
ロジャーズはまた、さまざまな技法を考案しました。それが感情の受容・繰り返し・明確化・場面構成などと言われるものです。そしてそれらによってクライエント自身の洞察を促していこうというわけです。
その中でも基本となるものは「感情の受容と反射」です。「クライエントが表明した感情を受容し反射する」ということがもっとも基本的な原則ということです。これは単純で簡単なようですが、実はとてもたいへんなことです。ロジャーズはこのことについて次のように言っています。
「カウンセラーが可能な限りにおいてクライエントの内部的な照合の枠組みを身に着けること、クライエントが世界を眺めているようにそれを認知すること、クライエントが自ら眺めているクライエント自身を認知すること、そのようにしている間は外部的な照合の枠組みにもとづく一切の認知を排除しておくこと、そして、この感情を移入して理解することの何かあるものをクライエントに伝達すること。」
つまりカウンセラーは自分というものをひとまずどこかに置いて(禅的に言えば空にして)、どこまでもクライエントの感情に寄り添っていくこと、クライエントそのものになっていくことを意味しています。そしてそうしていく中での気づきを伝えていくというわけです。
そしてまたこの原則は、「クライエントが表明していない感情には応答しない」「クライエントが表明した感情や事柄について論評しない」ということにつながっています。私達は注意していないと、「応答」したり「論評」したりしてしまいます。公平な観点から応答や論評をしている「つもり」になってしまいます。しかしそうすることはとりもなおさずクライエントから離れていくことになります。クライエントがカウンセラーに期待していることは客観的な判断や解釈ではなく、「理解されること」なのですから。
次に「繰り返し」ですが、これはいわゆる鸚鵡返しのように、クライエントが表明した言葉をそのままカウンセラーが繰り返すということです。これはカウンセラーが心からクライエントを尊重し、寄り添って、理解しようとしていることをクライエントに伝えることになります。それはしかし、ただ言葉の上に表明されたものだけではなく、感情を伴ったものでなければそらぞらしくなってしまいます。ただ同じ言葉を繰り返すというのではなく、心から聞いていると(傾聴)、カウンセラーの、寄り添って理解したところの繰り返しがなされていくというわけです。
「明確化」は、クライエントがなんとかして表現しようとして苦心しながら的確な言葉を見つけられないでいるような時、あるいはいろいろな肝要なことには触れずに周辺的なことばかり言っているような時、「あなたの言いたいことはこういうことなのですね」というように伝えることです。表明できないでいる感情を意識化するということです。これはかえって洞察の促進を止めてしまうこともあるので、慎重に行なわなければなりませんが、うまく行くとクライエントの信頼感は非常に高まってきます。
「場面構成」は、カウンセリングにおいてはその主導権はクライエントにあり、暴力さえふるわなければ自由にできるということを、クライエントに伝えることです。そしてこのカウンセリングの中で、カウンセラーはクライエントを尊重し、理解しようとしていることも伝えます。さらに気軽な雑談によって緊張しているクライエントの気持ちを和らげることも必要なことです。また、沈黙しているクライエントの気持ちを推測し、それを言葉に表明することもあります。
これらの技法はもちろんカウンセリングの場面において区別して使われるわけではなく、それぞれが密接につながってはじめてカウンセリングが成り立って行くわけです。
次の段階で、ロジャーズはまたカウンセラーの条件を考えました。いわゆるカウンセリングの三原則と言われるものです。
1 「自己一致」
カウンセラーはカウンセリング場面においては自己一致している必要があります。自己受容ができているということです。カウンセラーも人間ですからもちろんさまざまな問題を抱えていることもあるでしょうし、体調のよくない時もあります。自己一致できそうもないなと感じられる場合には、約束があってもそのカウンセリングは許可をとって延期するなりしたほうがいいようです。そういう点では平生の研修なども必要になります。坐禅や瞑想、ヨーガ、自律訓練などを実践していくといいと思います。
また、カウンセリングを通してクライエントの自己一致を目指していきます。
2 「無条件の肯定的配慮(受容的態度)」
受容的な雰囲気がないとカウンセリングは始まりません。クライエントは自己の感情の表明をしていくわけですから、それを理解してもらいたいわけです。それによって人間関係もでき、さらに洞察も進んでいくわけです。ここで難しいのは「無条件の」ということです。カウンセリングの場面では、カウンセラーの価値観とか思想というようなものをひとまずどこかに置いて、とにかく「無条件」に受容していこうというわけです。ただし、この「受容」というのは何でも「認める」というわけではありません。受け容れる、受け止めるということです。
3 「共感的理解」
クライエントを尊重し、寄り添って傾聴していく中で、心から共感していくことです。クライエントの抱えている問題、悩みや苦しみを、自分の問題として共感し、理解をしていく中で真の人間関係も深まり、洞察も進んでいくというわけです。
ロジャーズは次々とその考えを変えていきます。もちろん基本となる自己理論そのものは変わることはありませんが、検証可能な仮説を立てて科学的な究明を行い、修正を繰り返していきました。それがクライエント・センタード・セラピーからパーソン・センタード・セラピー(人間中心療法)となり、さらにエンカウンターとなって発展していきます。カウンセラーとクライエントという関係におけるカウンセリングではなく、人間と人間(パーソン)ということで、技法や原則などを抜きにした、お互いがその瞬間瞬間に自分の本音に忠実に語り合う、そういう体験が人を癒していくのだというふうに考えたわけです。つまりそこにこそ真の人間関係が生じるのだということです。
そしてその実践として、一対一のカウンセリングではなく、数名から十数名、あるいは数十名で行なうエンカウンター(出会い)を考えだしました。これには構成的エンカウンターと非構成的エンカウンターとがあります。
構成的エンカウンターにおいてはファシリテーター(促進者)と呼ばれる指導的な立場の人が、出会いの場面から始めて、ひとつひとつあらかじめ設定された計画に沿って進めていきます。この利点は、初めてエンカウンターに参加する人々にとっては馴染みやすいということと、ある程度の所期の目的は達成されることが多いということです。その逆に、予定されたもの以上の成果はあまり得られないということがあるようです。
非構成的エンカウンターにおいては、その場に集まったひとりひとりの人たちが、多少のルールはありますが、まったくその人たち自身の自由意志によって進められていきます。その利点としては、成果を期待するわけではないのですが、所期の目的以上の成果が得られることがあるということです。また逆に、なんにもならない、なにも機能しないということもあるようです。
ロジャーズの『人間尊重の心理学』(畠瀬直子訳、創元社)に、ある参加者の婦人の詩が紹介されています。エンカウンターのワークショップ(共同研究会、セミナー)に参加したことによる自己の成長を実にうまくまとめていると思います。
生れてはじめて、
自分を特別なひとだと感じた。
生れてはじめて、
私というものは存在する必要性全てだと感じた。
やさしさの中心に、
みせかけをはぎとった核に、私がいると知る。
それ以上は必要ない。
それで十分です。
人間であることが、
それほど価値があり、
それほど肯定できると知らなかった。
真の自尊心を知らなかった。
人々は………力を与えてくれた。
〜 ひらかれて生きるために、人々の真実に触れるために。
私は自分を知らなかったのです。
これまでは、
ほかのだれをも知らなかった。
そんなにはやく成長できるとは、
そんなに多くを学べるとは、
全く知らなかった。
こんなに豊かに、
自分を愛し、
人を愛したのは、はじめてです。
ロジャーズは晩年にはこのエンカウンター・グループのワークショップをずっとやっていたようです。つまりロジャーズの行き着いたところということになります。そしてまたその思想的な面としては禅や老子の思想に深く共鳴していると述べています。そしてロジャーズが確信している事柄の多くを要約しているという、ロジャーズが大好きだという老子の言葉を引用します。(『人間尊重の心理学』)
私が他者に干渉しないなら、彼らは自分のことを自分でする
私が他者に命令しないなら、彼らは自らの行動をおこす
私が他者に説教しないなら、彼らは自ら進歩していく
私が他者に押しつけをしないなら、彼らは自ら自身になる。
これは、『老子道徳経』淳風第五十七章の後半部、「我無為にして民自ずから化し、我静を好みて民自ずから正しく、我無事にして民自ずから富み、我無欲にして民自ずから朴なり。」を翻訳したものです。
ロジャーズの人間に対する信頼の原点を、老子が実に端的に言い表わしていると思います。
五 交流分析
交流分析はエリック・バーンによって始められた、人間の行動に関するひとつの理論体系であり、その理論に基づいた治療法で、互いに反応し合っている人々の間で行なわれている交流を分析することです。その理論の基本となっているのは精神分析であり、それを簡潔にして、誰にでも応用ができるように開発されています。
交流分析では次の三つの自我状態を設定しています。
@ 親の自我状態(ペアレント)…P
自分を育ててくれた親から取り入れた自我状態。
A 大人の自我状態(アダルト)…A
現実を客観的に、理論的に判断していく自我状態。
B 子供の自我状態(チャイルド)…C
子供と同じような感じ方をする自我状態。
人間は誰でもこの三つの自我状態を持っていて、さまざまな事柄に対して、それに応じた自我状態で、さまざまな反応をしているというふうに考えるわけです。そしてこの自我状態を基本にして、四つの分析の方式が設定されています。
a 構造分析
これは個人のパーソナリティの分析で、性格構造をP・A・Cの自我状態という考えから分析していくということです。そしてさらに、その心的エネルギーの量を質問紙法によって客観的に把握して、それをグラフに表していきます。それが「エゴグラム」というものです。
そしてPとCはそれぞれ、批判的な親性(クリティカル・ペアレント、CP)と養育的な親性(ナーチャリング・ペアレント、NP)、また、自由な子供性(フリー・チャイルド、FC)と順応した子供性(アダプテッド・チャイルド、AC)というふうに二つの面に分けて考えられています。
CPの自我状態の特徴は、批判的、排他的、偏見的、封建的、権威的、非難的、懲罰的というふうなもので、父性的なものと考えられています。これは良心や理想と深く関連していて、生活をして行く中でさまざまな規則などを守るようにして行きます。これが強すぎると尊大で支配的となり、人からは敬遠されるようになってしまいます。
NPの自我状態の特徴は、養育的、保護的、寛容的、救援的で、親切で思いやりのある母性的なものと考えられています。人を励ましたり、親身になって面倒を見たりするやさしい面を備えています。しかしこれも強すぎると、親切の押し売り、過保護、甘やかしということになってしまいます。
Aの自我状態の特徴は、事実に基づいて物事を判断し、合理的、客観的、知性的、分析的なものと考えられています。これはいつも落ち着いていて、さまざまな情報などを合理的に判断していきます。しかしこれが理想的な人間像ということではなく、Aが強すぎると、情緒に乏しく、人間味が感じられないような、冷徹な感じとなり、そうなるとやはり人からは敬遠されるようになってしまいます。
FCの自我状態の特徴は、自己中心的、積極的、本能的で、また豊かな創造性があり、好奇心に満ちていると考えられています。道徳や規則などを考えないで、すぐに自分の快感を求め、軽率な行動をするところもありますが、天真爛漫で、感情を素直に表現することができます。
ACの自我状態の特徴は、順応的、消極的、依存的で、自分の感情を抑制し、周囲の期待に答えようと努力していくというふうに考えられています。いわゆるおとなしい良い子ということになりますが、自然な感情を表さないで、抑制してしまいますので、時に強い反抗や激怒といったふうに、感情を表わすこともあります。
構造分析では、このような自我状態の働きを知り、これらの調和のとれたパーソナリティとなるようにセルフ・コントロールをしていくことが必要であり、また私達自身の感情や行動をこのP・A・Cに基づいて自己分析し、人間関係の円滑な交流を図ろうと考えられているわけです。
「エゴグラム」というのは、エリック・バーンの弟子にあたるデュセイが考案したもので、質問紙法により、自我状態のエネルギーの量をグラフに分析するようにしたものです。これは日本においてもさまざまに工夫が凝らされて、信頼性も増し、とても使い易くもなっています。これによって、自分の性格傾向ではどの自我状態が主導的になっているのかということを知っておくことは、円滑な人間関係を営むうえでは有効なものでしょう。さらに、自分の好ましいと思われる自我状態を意識的に高めていくということもできます。
b 交流パターン分析
これは、人間関係において人々が互いにどのように作用し合うかということを分析するというものです。エリック・バーンはこの作用を直線と点線のベクトルで表わすことを考えだしました。そして三つのタイプに分類しています。
@ 相補的交流
この交流では、刺激と反応の作用が互いに平行線となって表されます。つまり交流がとても円滑に行なわれていることを示しているわけです。情報の交換や質疑応答、慰め合いや励まし合いなど、A同士、P同士、C同士の交流はもちろんですが、先生と生徒との相談や先輩と後輩の関係など、PとC、PとAの交流もあります。この相補的交流はとても好ましい人間関係で行なわれるものです。
A 交叉的交流
この交流は、二つのベクトルは交叉して平行線にならないことで、互いに相手の刺激や反応に対して反発し、言い争いとなり、円滑な人間関係は成立しません。叱責や非難、命令や無視などがこれに該当します。
B 裏面的交流
これは表面的には一見明白なメッセージ、刺激を送っているようで、じつはその裏面に心理的な隠されたメッセージを送っているというようなことです。社交辞令やお世辞、あるいはセールスマンの言葉などもこの部類です。これによってうまく人間関係が進むこともありますが、それはもちろんうわべだけで、むしろ感情的にかえってもつれる場合もあるようです。
c ゲーム分析
これは交叉的裏面交流のことで、予測可能で、定型化していて、失敗に終るというような交流のことで、それに対する気づきを得ることを目的とされています。エリック・バーンの『人生ゲーム入門』はこの考え方をずいぶんと広めたようです。
d 脚本分析
人は無意識のうちにその人なりの人生計画を持っていると言います。バーンはそれを脚本(シナリオ)という概念で表しました。この脚本という考え方で性格形成を見ていくと、幼時の両親からのメッセージを受け入れることによって、適応していけるかどうかということがわかるというわけです。例えば、自分の能力以上のシナリオを与えられていれば、それはそのうちに破綻することになりますし、自分の適性に合わないシナリオの場合は障害が出てくるというわけです。
この脚本分析では、その人が無意識のうちに持っているシナリオに気づき、それを自分に合うように修正することを目的とされています。
e ストローク理論
人は人間関係において何を求めようとしているのか、ということに対して交流分析では刺激への欲求としてのストロークという考え方をしています。アメリカの小児科医のスピッツは施設の乳幼児の観察をして、乳幼児が周囲から、撫でる、触る、揺する、言葉をかける、笑いかけるなどのストロークを受けることによって死亡率が減少するということを発見しました。つまり乳幼児にとって肌のふれあい、スキンシップというストロークが必要なのだということです。そういうところから、人は誰でも承認や称賛などという愛情に満ちた肯定的なストロークを求めているということができるわけです。
また否定的なストロークというものも当然のことながらあるわけです。非難、批判から虐待にいたるまであります。これはもちろん問題なわけですが、それでも何もストロークがない、まったくの孤立状態や自分の存在を無視されるよりは、マイナスのストロークでもあったほうがましだというふうに考えられています。
交流分析では、人はこのストロークの欠乏した状態になると、交叉的裏面交流と呼ばれる「ゲーム」を演じることが多くなり、歪んだ形で自分の存在を周囲に認めさせようとするようになるというふうに考えられています。過度の愛情欲求はもちろんそうですが、いわゆる「引きこもり」や「不登校」もその逆の現われというふうに考えられます。
六 心理テスト
心理テストには無用論やその弊害を主張する説もありますが、心理テストによってある程度自己理解を深めたり、性格傾向を把握したりすることにはとても有効です。クライエントをそれによって評価したり、レッテルを貼ったりしないで、ひとつの仮説として、あるいは可能性として、「こういうこともあるかもしれない」という程度の参考としておくといいと思います。さらに、ひとつの心理テストではなく複数のテストを実施できるとさらに客観的な資料として有効だと思います。
私はケース(自己表現が不得手だったり、自分への問題意識が薄かったり、非行などで生徒指導部などから依頼された場合など)によって、交流分析のエゴグラム、樹木画(バウム・テスト)、SCT(文章完成法)などを使っています。
@ 樹木画(バウム・テスト)
これは「一本の実のなる木」を描いてもらうだけの簡単なものです。用意するものはなるべく濃い鉛筆(2B以上)とA4サイズの紙だけです。(A4というのは、幹の太さで自我の大きさを判断することになっているため、それよりも小さい紙や大きい紙だと基準が違ってくるからです。)
この描かれた樹木は、環境の中における本人の心のあり方が表現されたもの、つまりクライエントの人格の投影であると言われています。
この樹木画を分析するための考え方の基礎は、まずその木が画面のどこに描かれているかということです。右によっていたり左によっていたり、あるいは上のほうだったり下のほうだったりすることがあります。そしてそれを解釈するには、グリュンワルドの空間図式というものが使われるのですが、一般にはその簡略版が用いられています。以下はその説明です。
画面の右の方向は、外界、未来、父性など
左の方向は、内面、過去、母性などを表しています。
左上は、生への傍観的な立場であり、回避、抑制の位置を表し、
左下は、退行の領域であり、幼児期への固着を表し、
右上は、生への対決をしようとする態度であり、努力、願望を表し、
右下は、葛藤の領域であり、拒否、敗北を表しています。
この画面構成の解釈は、人が何気なく無意識に描いたものに、その人の人格が投影されているということですが、いろいろな有名な絵画をこの解釈を当てはめて見てみますととても面白いですし、また少し別の視点で絵画の鑑賞もできるのではないかと思います。
1、位置による解釈
中央 常識的、誠実、中庸、努力家、安定
右より 外向的、自己拡大、父への思慕、外界や未来への志向
左より 内向的、主観的、自閉、母への依存、外界からの逃避、
左上に限局 生に傍観的、自閉、不登校傾向
左下に限局 退行、幼児期に固着、自閉、被害感
右下に限局 敗北、遮蔽、隠蔽
中央下に限局 無力感、抑欝、依存、不適応感
2、幹による解釈
幹は自我の状態を表すと考えられています。
太い(指三本以上、4cm以上) 自我拡大、自我肥大、肩肘を張り、背伸び、劣等感の過補償、素直でない
細い(指一本以下、1・5cm以下) 自我萎縮、自信喪失、退行、エネルギー減退
樹皮に傷 人生の早期における心理的外傷体験(その位置によって判断する)
樹皮に線 刺激されやすい、傷つきやすい、外界との摩擦感
右に陰影 環境との軋轢
左に陰影 内面の葛藤、内向的、硬い、生硬
3、枝による解釈
枝は社会的に伸ばした手を表していると考えられています。枝を全く描かない場合は、外界へ手を伸ばそうとしていない、外界を拒否しようとしていると考えられます。
上向き 普通、自信、円満、安定
下向き 退行、不安定、不適応、迷い、身勝手
交叉 自己矛盾、葛藤
放射状 攻撃性、行動への衝動
開放 不徹底、優柔不断、突発行動をとりやすい
直角(切断) 外傷体験、活動の抑制
先鋭 攻撃的、批判的、感受性が強い
4、樹冠による解釈
電球型 空想的、従順
枝先電球型 隠蔽、用心深い
アーケード型 丁寧、温和
上はみ出し 環境からの逸脱、回避、逃避、抑制がきかない
右はみ出し 攻撃的、外界志向
左はみ出し 内向的、回避、逃避、傍観
5、実、花、葉による解釈
多い 自己賛美、成功願望、欲張り、承認欲求
少ない、無い 無気力、将来の希望がない
落葉、落実、落花 喪失、落胆
葉で覆う 隠蔽、不安、防衛
多種な実 未熟、夢想的、欲張り
6、根による解釈
開放型 抑制
閉鎖型 執着、不活発
根の強調型 自己防衛、錯綜
7、その他
地平線 不安定、自信喪失
囲い 孤立、孤独、自己防衛
草叢 隠蔽、不安定
動物 おどけ、自画自賛
風景 空想的
太陽 承認願望、光を浴びたい
幹の傷や切断部分、折れた枝などについては心理的外傷体験(トラウマ)を意味していると考えられていますが、さらにその高さによってその心理的外傷体験の時期が想定されるということもあるようです。つまり樹木の全体がクライエントの現在の年令とすると、その傷などの高さがその年令を表しているということです。(ウィトゲンシュタインの指数)
A SCT(文章完成法)
これは文章の初めの部分だけを示して、そのあとに文をつけて、意味の通るような文章にするという方法です。一回のテストで大体20〜40ほど(30くらいが多い)の文章を完成させていきます。
テストの例
1、子供の頃、私は
2、私はよく人から
3、家の暮らし
4、私の失敗
5、家の人は私を
6、私が得意になるのは
7、争い
8、私が知りたいことは
9、私の父
10、私が嫌いなのは
11、私の服
12、死
13、人々
14、私にできないことは
15、運動
16、将来
17、もし私の母が
18、仕事
19、私がひそかに
20、世の中
21、夫
22、時々私は
23、私が心をひかれるのは
24、私の不平は
25、私の兄弟(姉妹)
26、職場では
27、私の顔
28、今までは
29、女
30、私が思い出すのは
このような文章を完成させていくなかで、やはりその人なりの特徴、性格傾向、その時の感情などが現われてきますし、その中でのキーワードというようなものも現われることがありますので、それらに注目して面接の手がかりにしていくことができると思います。
また、次のように工夫されたものもあります。
SCE(高校生用に工夫されたもの)
1、子供の頃
2、友達は私を
3、お父さん
4、私が知りたいのは
5、よその家と比べて私の家は
6、夜になると
7、勉強することは
8、私の好きなことは
9、私の家庭は
10、この頃私は
11、人にバカにされたら
12、お母さん
13、私は学校で
14、ひまな時
15、男
16、学校がつまらない時
17、今でもはっきりおぼえているのは
18、私の得意なことは
19、おとな
20、家の人は
21、私の顔
22、近所の人は
23、面白くない時
24、一番幸福な時
25、女
26、きらいなのは
27、もし私が
28、たくさんの人がいる時
29、将来
30、うらやましいのは
31、私のからだ
32、たよりにしているのは
33、私を不安にするのは
34、友達
35、先生
36、死
37、世の中
38、私が自慢できるのは
またこの他にも、面接する対象のクライエントによって工夫もさまざまにできると思います。このSCT(文章完成法)は簡単ですし、それによる弊害もとくにないと思いますので、使いやすいと思います。また、自分でも意外なことに気づいたりすることもありますので、ある一定期間の間隔をあけて実践するといいと思います。
七 自律訓練法(Autogenic Training)
自律訓練法は、催眠の研究をしていたフォークトという大脳生理学者が、自己催眠による効果に気づいたところから始まり、ドイツの精神科医シュルツによって今日のような方法が創案され、その協力者ルーテによって体系化された技法で、さまざまな心身症や神経症などの治療の場面でも用いられています。またメンタル・ヘルスの技法として、心身のリラクゼーションや、創造性の開発などにも広く活用されています。さらにシュルツは、「自律訓練法は、ヨーガの中に盛られている東洋的で実存的な哲理、人間性への全体的な目覚めに至る道を、科学的に体系づけるための一つの試みである。」と位置づけています。つまり自律訓練法は単に医療のみではなく、全人間的な身心の、セルフ・コントロール法として考えられているわけです。
@ 理論
自律訓練法の理論はとても簡単です。しかし簡単なものほど真に理解し、実践に結びつけていくのは難しいものかもしれません。自律訓練法の理論はとても簡単なので、かえってこんなもので治るのか、効果があるのかというような精神分析で言うところの「抵抗」が出てくることがよくあります。そういう時には理論をよく理解しておくことが必要です。
人の心が不安な状態の時には身体の筋肉が緊張しています。内臓も同様に緊張しています。心臓の働きは活発になり、脈拍はとても早くなります。呼吸もとても速くなります。早く身体の末端まで血液を送ろうとするわけです。そうすると他の内蔵は働きが弱まります。そのように身体の種々の部分の過緊張の状態が続くと、その結果として身体の異常となって現われてきます。それは実にいろいろで、頭痛、腹痛、発熱、肩凝り、倦怠感などなどです。それらがさらに慢性的になってくると心の緊張状態が続き、いわゆる神経症や心身症となって現われてくるというわけです。そういう悪循環に陥ってしまうのです。
逆に、人の心が安定している時は身体全体がリラックスし、筋肉は弛緩しています。そうすると内臓の働きも安定し、心臓の脈拍もゆったりしてきます。呼吸も深く、静かになってきます。そうなると心もさらに落ち着き、脳波も次第にアルファー波になってくるようです。
坐禅やヨーガをしている人の脳波を測ってみると、それに熟達している人は始めてすぐにアルファー波になってくるそうです。それは坐禅やヨーガによって身心が安定していることによるものだと思われます。
自律訓練法では、神経症や心身症、頭痛、腹痛などの症状を、精神分析のように原因探しをして直接治そうとするのでなく、心の安定を図るためにまず身体、筋肉に働き掛けるわけです。身体全体をリラックスさせ、手足の筋肉を弛緩させ、呼吸を深く楽に(腹式呼吸)していきます。すると心臓の働きもゆっくりとしてきますし、お腹の辺りも温かくなってきますので、内臓の働きも安定してきます。つまり副交感神経が優位な状態になってくるわけです。この副交感神経の優位な状態を意識的に作っていくわけです。そのようになってくるとさまざまな身体的症状も回復してきますし、神経症なども少しずつ軽快になってくるというわけです。さらに、とくに問題のない健康な人においても、さまざまな効用が報告されています。駒沢大学の佐々木雄二教授は次のように述べています。(『自律訓練法の実際』)
1 蓄積された疲労やストレスを回復することができる。
2 イライラせず、穏やかな気持ちでいられる。
3 自己統制力が増し、衝動的行動が少なくなる。
4 仕事や勉強に対して集中力がつき、能率があがるようになる。
5 身体的痛みや精神的苦痛が緩和される。
6 内省力がつき、自己向上力が増す。
また、九州大学の池身酉次郎教授は、この自律訓練法を「自己統制法」としてさらに発展させています。それは、「真の人間性の自覚や宗教的な悟りにも通じる柱になるもの」であり、「自己の全体性の回復を助ける全人的なセルフへの気づきと自己観照を促し」ていくものとされています。
また、古来行なわれてきている中国の気功(この場合は内気功)の一種や、日本の江戸時代の禅僧・白隠の提唱した内観法や軟蘇の法は、ほとんどこの自律訓練法と同じだと言ってもいいものです。そういう点でも東洋的な感じがします。
A 実践方法
a 準備
場所……慣れないうちはなるべく静かな場所で行ないます。寝る前だったら寝室で、 そのまま寝てしまってもかまいません。慣れてきたらどこでもできるように なります。
服装……なるべくゆったりとしたものにします。身体を締め付けるようなもの(ベル ト・ネクタイ・靴下など)ははずしたり脱いだりします。
姿勢……仰臥位〜上向きに寝た姿勢です。自宅ではこれがいいようです。
腰掛け座位〜椅子に深く腰掛け、背もたれには寄り掛からないようにして楽 な姿勢で座ります。
閉眼……眼は軽く閉じます。外部からの刺激を少なくするためですので、堅くつぶっ たりはしません。
呼吸……なるべくゆっくりと深い、腹式呼吸をします。慣れないうちは意識的にお腹 を膨らませたりへこましたりするといいと思います。
b 受動的注意集中
この受動的注意集中というのが自律訓練法の大きな特徴であり、また日頃の能動的注意集中というものとずいぶんと違いますので、慣れないうちはそうなっているかどうか、時々ふっと自分を振り返ってみるといいと思います。矛盾した言い方になるのですが、注意をしようということになるとそのことによって緊張が生まれてしまいますので、ふっと、さりげなく、ということになります。なんとなく、ぼんやりと、さりげなく、身体の各部位に意識を向けます。そしてその部位の感じを、なんとなく感じるようにします。意識的な努力は心身を緊張させますので、心身の弛緩、リラクゼーションを目的としている自律訓練法(この「訓練」という名称はどうも変なのですが)では、あくまでも「受動的」な注意集中ということになるわけです。
c 実践(標準練習の公式)
標準練習をする時の注意としては、先を急がないこと(急ぐのは逆効果)、無理に感じようとしてはいけないこと(これも逆効果)、自己催眠であることを意識しておくこと、したがって覚醒運動をすること(そのまま寝てしまう場合は除く)、そうしないとだるさが残ったり、事故につながる危険もあります。
覚醒運動は、まず眼を閉じたまま両手を強く握ったり開いたりします。次に深呼吸をしてからゆっくりと眼を開きます。
1 標準練習の公式
標準公式(安静練習)……「気持ちが落ち着いている」
第一公式(重感練習)……「両腕、両脚が重たい」
第二公式(温感練習)……「両腕、両脚が温かい」
第三公式(心臓調整練習)……「心臓が静かに打っている」
第四公式(呼吸調整練習)……「呼吸が楽にできる」
第五公式(腹部温感練習)……「お腹の辺りが温かい」
第六公式(額部涼感練習)……「額の辺りが涼しい」
2 標準公式(安静練習)
この公式はすべての公式の前に行ないます。これも受動的注意集中ということで、無理に気持ちを落ち着かせようとしても逆効果になります。まず身体をゆったりとし、リラックスできるような場面をイメージしてみるといいと思います。それから「気持ちが落ち着いている」と心の中で自分に語りかけるようにします。
3 第一公式(重感練習)
この公式は筋肉の弛緩を促進するために行ないます。筋肉が弛緩してリラックスした状態になると自分の腕や脚自体の重さが自然に感じられるようになります。この重いという感じは人によって多少の違いはあるようですので、何かぼんやりとでも感じられればそれでいいわけで、無理に重さを感じようと努力してはいけません。温かい感じが出る人もいますが、それでもいいわけです。意識的に努力しようとするのは緊張を高める結果になってしまい、逆効果になります。
初めに利き腕から行ないます。「気持ちが落ち着いている。右(左)腕が重たい。」というふうに自己暗示をかけるようにやっていきます。この自己暗示をエンドレス・テープのように続けていきます。一度に三分間くらいを目安にして実施します。いつどこで行ってもいいのですが、食後すぐは避けるようにします。(寝る前などが効果的です)これを一週間くらい続けます。先を急いではいけません。
次に進みます。「気持ちが落ち着いている。両腕が重たい。」というふうに自己暗示をかけていきます。これもまた一週間ほどつづけます。
次に、「気持ちが落ち着いている。両腕と右(左)脚が重たい。」を一週間。
次に、「気持ちが落ち着いている。両腕、両脚が重たい。」を一週間。
4 第二公式(温感練習)
第一公式で筋肉が弛緩するようになってくると、それに伴って血管が拡張し、皮膚の温度が上昇するようになります。ですから第一公式ですでに温感も感じていることも多いようです。第二公式ではそれをさらに促進していきます。
また利き腕から始めます。「気持ちが落ち着いている。両腕両脚が重たい。右(左)腕が温かい。」これをまた一週間ほど行ないます。
次に、「気持ちが落ち着いている。両腕、両脚が重たい。両腕が温かい。」
「気持ちが落ち着いている。両腕、両脚が重たい。両腕と右(左)脚が温かい。」
「気持ちが落ち着いている。両腕、両脚が重たく、温かい。」
これで始めて八週間ほどになります。ここまで進んでくるとたいていの症状はよくなってくると言われています。また、すぐにリラクゼーションができるようになってきているはずです。
5 第三公式(心臓調整練習)
いよいよ心臓調整練習に入ります。内臓の多くは自律神経によってその働きが調整されています。その中で多少なりとも意図的に早くしたり遅くしたりすることのできるのが心臓の働きと呼吸です。心臓の働きに、ゆっくりと静かに受動的注意集中を向けることによって、安静感をさらに深めていくことができます。
前と同様に、「気持ちが落ち着いている。両腕、両脚が重たく、温かい。心臓が静かに打っている。」とエンドレス・テープのように自己暗示をします。これは一〜二週間続けます。
6 第四公式(呼吸調整練習)
これは腹式呼吸で、ゆっくり、深い呼吸で行ないます。丹田呼吸(横隔膜呼吸)で行なうとさらにいいかもしれません。
「気持ちが落ち着いている。両腕、両脚が重たく、温かい。心臓が静かに打っている。呼吸が楽にできる。」
7 第五公式(腹部温感練習)
胃の後ろ側の辺りに「太陽神経叢」と呼ばれている部位がありますので、そのあたりに受動的注意集中を向けます。初めのうちは手をお腹の辺りに当てるとわかりやすいと思います。
「気持ちが落ち着いている。両腕、両脚が重たく、温かい。心臓が静かに打っている。呼吸が楽にできる。お腹の辺りが温かい。」
8 第六公式(額部涼感練習)
これは額の中心の辺り、大自在天の第三眼(頂門の縦眼、一隻眼)の辺りに受動的注意集中を向けます。
「気持ちが落ち着いている。両腕、両脚が重たく、温かい。心臓が静かに打っている。呼吸が楽にできる。お腹の辺りが温かい。額の辺りが涼しい。」
B 系統的脱感作
系統的脱感作というのは、神経症や心身症、吃音や赤面対人恐怖症などの場合、その不安に感じていることをイメージして、その不安がどの程度のものかを、この自律訓練法を行いながら、段階を追って確認し、「脱感作」(リラックス)していくことです。自律訓練法の第二公式ができるようになったころ(ほぼ八週間)から効果が期待できます。まず自律訓練法を行い、そのあとで不安に感じていることをイメージしてもらい、その不安に感じていることがどの程度の感じなのかをその都度確認し、「脱感作」していきます。
また、不安に感じていることが階層的にある場合には、「不安階層表」を作っておいて、それを段階的に、系統的に、程度の軽いほうからイメージして、ひとつずつ「脱感作」していくわけです。
この自律訓練法は、今ではもう世界的に実践されています。それだけ現代の世の中に必要とされているわけです。つまり現代社会が過緊張の状態にあるということなのでしょう。リラクゼーションの方法として、さらに自己啓発の方法として、この自律訓練法を実践していくといいと思います。
八 リアリティ・セラピー(現実療法)
このリアリティ・セラピーはアメリカの精神科医W・グラッサーによって始められたカウンセリング理論のひとつです。この理論はとても簡潔であり、また明快に体系化されています。そして、「現在に焦点を当て、人がよりよい人生を送れるように手助けをする一つの手法」(グラッサー)というふうに位置付けられています。
@ 選択理論(チョイス・セオリー)
人間の行動はいつもその人自身によって選択されるものだということです。その説明として、人間の行動を自動車に例えています。前輪が行為と思考であり、後輪が生理反応と感情で、ひとつの行動には五つの基本的欲求(エンジンにあたる)があると考えられています。
生理反応と感情はそれ自体をコントロールすることはできないわけですが、行為や思考はハンドル操作によってコントロールすることができます。快い感情をもつためには、そういう方向のよい行為と思考をしていくということです。そしてそういうよい行為や思考をしていくという選択することによってよい感情や生理反応をもち、欲求を充足していこうというわけです。
A 五つの基本的欲求と願望、上質世界
a「生存の欲求」 これは生命を維持していくもっとも基本的な欲求ということです。睡 眠や休息、生殖、食物など身体的欲求です。
b「所属の欲求」 人は誰でも何らかの集団の中にいるということで心の安定を図ってい るということです。愛や協調、信頼、親しみなどを感じることです。
c「力の欲求」 自分の力で、実力で何かを達成したり、欲しいものを獲得したりすると いうことです。達成感、自己評価、人からの承認や称賛を感じることです。
d「自由の欲求」 束縛されたり強制されたりしないで、自分の自由意思による選択をす るということです。
e「楽しみの欲求」 学習や仕事、遊びなどを楽しんで、よりよく感じながらすることが できるということです。
この五つの基本的欲求が原動力になってすべての行動に現われているというふうに考えるわけです。そしてまた人の行動には必ず何らかの目的、こうありたいという願望があるということです。それを「イメージ写真」というふうに呼んでいます。さらにこの「イメージ写真」をたくさん集め、個人のアルバムのように集約され、理想的なものを「上質世界」と呼んでいます。
人はいつもこうした欲求と願望によってさまざまな行動を、選択しながら、そして自分の上質世界を目指しながら、行なっているわけです。そしてその欲求や願望がうまく充足された場合はよい気分、感情をもち、よい生理反応をもたらすわけですが、うまく充足されないとき、ギャップを感じるときなどは挫折感をもったり、よくない生理反応をもたらすというふうに考えられています。そうした場合にはどうしたらいいかということで、次の三つの点が対策として考えられています。
a 「願望」を変える。もともとの願望を明確化し、上質世界に沿って願望自体を吟味し ていく。
b 「行動」を変える。行動の仕方、ハンドル操作を願望を充足できるように変えていく。
c 「見方」を変える。人は知覚を通してこの世界を見ているわけで、その見方自体を変 えていけばおのずから価値観も変わっていくということです。
B 質問技法
リアリティ・セラピーではカウンセリングの場面(面接)において、クライエントとのリレーション(関係づくり)ができたところで、次のような質問技法を用いてクライエントの上質世界に入り、気づきに導いていこうとしています。
W(WANTS、願望、希望を聞く)
「どうなりたいですか」「どうなったらいいと思いますか」など。
願望、上質世界を聞いていく。さらに、欲しているものが達成されたら何を得ることができるか、あるいはその願望はどの程度なのかなどがわかるように、明確化しながら聞いていく。
D(DOING DIRECTION、全行動、方向を聞く)
「そのために今、何をしていますか」など。
全行動をできるだけ詳しく聞いていく。たとえば一日の行動を、何を考え、どんな気分で行なっていたのかというふうに聞いていく。
E(EVALUATION、自己評価を聞く)
「それは効果がありますか」「それは役に立ちますか」など。
それをそのまま続けていってプラスになるのか、求めているものが得られるのか、願望が達成されるのかということを聞いていく。
P(PLAN、計画を聞く)
「何か新しいことを考えてみますか」「何かよりよい方法を考えてみますか」など。
自分で考えた計画を本当に実行できるかどうか、実行できそうな計画かどうか、または実行できないときどんな言い訳ができそうかという予想なども聞いていく。
この四つの質問項目に沿って面接を進めていくと、全体としてとても明確になり、問題解決につながっていくと思います。そしてまたこの理論・技法は、とても簡潔ですし、自己啓発として、セルフ・コントロールの方法としても有効だと思います。いろいろな場面で取り入れていくといいと思います。
九 森田療法
森田療法は森田正馬によって創始された心理療法で、精神分析の考え方では、人が心の中にある不安や葛藤を分析し、その原因を探して取り除こうとするのに対して、森田療法ではその不安や葛藤を「あるがまま」に認めていこうとし、その中で自己実現を目指すというところに特徴があります。
@ 基礎理論
森田療法では、人は誰でも生れながらにして生存欲と人間として生きる方向性を持っているとする「生の欲望」という考え方を基本としています。この「生の欲望」には二面性があり、その一面は人間がよりよく生きようとする欲望であり、もうひとつの一面は、生への執着が強いために病気や死に対する強迫的な恐れを持つということです。
また、森田正馬はその著『生の欲望』の中で「私が精神医学を専攻するようになった因縁は、遠く私の幼年時代にさかのぼることができる。十歳くらいのとき、村のお寺で地獄の絵を見たことがある。三尺に六尺ばかりの画面であったが、血の池、針の山、焦熱地獄などのありさまが極彩色で描かれていた。うすぐらい線香のにおいのただようお堂の中でそれを見たとき、私は身の毛もよだつようなおそろしさにとらわれた。その時の光景は、いまでもはっきり思い浮べることができる。」と述べ、そしてこの時以来死の恐怖にさいなまれることがよくあったといいます。
このような不安感、自分の心の状態にとらわれる心気性になりがちな性質のことをヒポコンドリー性質といいます。ヒポコンドリーというのはギリシア語で、ヒポというのは「〜の下」という意味で、コンドルというのは「肋骨」、つまり「胸の下あたり」というほどの意味になります。人は激しい苦しみや悩みに胸が圧迫されるような思いになることがあります。そこから神経質を特徴づける言葉として「ヒポコンドリー性基調」と名付けられました。これを説明して次のように述べています。(前著)
「ヒポコンドリーとは、自分の不快気分、病気、死ということに関して、これを気に病み取り越し苦労する心情であって、これがもととなって神経質の症状が起こる。これが無ければ神経質の症状は起こらない。即ちこれが必要欠くべからざる条件である。このヒポコンドリー性は、神経質という先天的精神的傾向のものに、常に最も著明であって、この素質の者は何らかの些細なる動機からでも、容易にこの心情の捉われとなるのである。なおこのヒポコンドリーは、神経質に限らず、すべての人の自己保存の性情であるから、その他の素質の人にも、種々の事情のもとに、神経質的症状の起こることのあるのはもちろんである。」
森田療法のもうひとつの中心的な考えとして、「精神交互作用」というのがあります。森田正馬の学生時代、体調がすぐれないため大学病院で診察を受けた結果、神経衰弱と脚気という診断であった。そこで毎日薬を飲み、注射をしてもらっていた。しかしその時、郷里からの仕送りがなくなってしまった。病気は少しもよくならないうえに学年試験が迫ってきていた。このままでは落第、どうにもならないということになって、開き直って死ぬ覚悟で猛然と勉強をした。その結果、成績も良かったが、それまであんなにひどかった神経衰弱と脚気の症状がいつのまにかなくなってしまっていた。つまり、必死で勉強していた時は「精神交互作用」がはたらかずに、「あるがまま」でいられたということに気付いたというわけです。
また、森田正馬は卒業後、呉秀三教授が開いた巣鴨病院に入って精神科の医師になり、催眠法その他の療法を使って治療をし、その後慈恵会医学専門学校の教授となります。そうした頃、巣鴨病院の婦長が神経衰弱になって相談に来ます。知り合いの治療はやりにくいということで、家に同居させて手伝いをさせているうちに治ってしまったということです。そこで数人の患者を家に同居させて生活をともにしてみると、次々と治ったと言います。これをきっかけとしてさらに研究を深め、『神経質及び神経衰弱の療法』という論文を発表し、「森田療法」が始まります。
ちょうどその頃、作家の倉田百三が雑念恐怖に陥って小説が書けなくなり、森田正馬の所に来て、通院の森田療法で治り、強迫観念はあってもその中で生活もできるし、小説も書けるようになります。その時の経験を「治らずして治った」という題で発表し、森田療法は一躍有名になったということです。
また、森田正馬の高弟に宇佐玄雄という人がいました。森田療法には禅の考え方(「あるがまま」ももちろんそうですが)や禅の言葉がよく使われます。何かを説明するのに非常にたくさんの言葉を費やしてもなかなか言い現わせないものがありますが、禅の言葉でそれを端的に言い現わしているわけです。この宇佐玄雄という人は、早稲田大学印度哲学科を出て、大徳寺派専門道場で修行し、三重県の自坊の山渓寺の住職となり、さらに再度東京に出て慈恵会医学専門学校に入学して森田療法を修得しました。森田正馬はもともと禅の考え方を持っていたわけですが、宇佐玄雄は禅僧ですから、そうした点では宇佐からの影響も強かったようです。その後宇佐は京都の東福寺の旧三聖寺を修復して三聖病院を開設しました。この三聖病院は森田療法の専門病院として、今もその子息の宇佐晋一氏に受け継がれています。
A 森田療法の実際
「絶対臥褥」
森田療法のもっとも特徴的なことはこの絶対臥褥にあります。入院による森田療法(基本的には約四十日〜約三ヵ月)では、最初の一週間は患者をただ寝かせたままにして、食事、洗面、排泄以外はすべてが禁止されます。これは、人間が本来持っているはずの、よりよく生きていこうとする力、つまり「生の欲望」を圧力的に抑えることによって、逆にその力に気づかせることができるということです。
一日目はそれほど問題もなく過ごせますが、二日目から四日目には自分の問題を徹底的に考えるように指示されますので、非常に苦しくなってきます。また、苦しいのではありますがそれでも耐えられるのだという実感を得ることもできるようです。苦しいのはとても苦しいのだけれど、それでも時間は、遅いけれども過ぎていくというわけです。こういう苦しさが極限状況になったときに、急にその苦しみが消えてとても楽になるというような体験をすることがあります。こういう体験を森田療法では禅の言葉を利用して「煩悩即解脱」と言っています。
さらに五日目から七日目くらいになると退屈な感じをもつようになり、活動したいという気持ちになってくるようですが、それが「生の欲望」と呼ばれているものだというわけです。
「軽作業期」
絶対臥褥が終ると部屋の外に出ることが許されます。そうするとまわりにあるすべての物事がすべて新鮮で、とても美しく感じられるようです。その感じをゆっくりと味わいながら、軽作業を始めます。これは自発的なもので、身の回りの整理や、日常生活に結びついたごく軽いものだけに限ります。そうしないとついやりすぎてしまうようです。
このような作業を通して、自発性を引き出し、注意を外に向け、内向的な心の状態を外向的なものに少しずつ変えていきます。
またこの時期からは日記指導が始まります。この日記には何を感じたのかというようなものは除外し、実際に何を行なったのかということを中心にして書くように指導されます。これも内に向かおうとすることをやめ、外に目を向けさせようとする意図があるわけです。そして毎朝医師に提出し、医師はごく簡潔に注意事項を記入します。
「重作業期」
この時期の作業は、創意工夫をする態度や忍耐力を養うことを目的として行なわれます。したがって、日常生活で役に立つものや必要なものを作り、畑仕事や、その他の肉体労働もします。そうした中で症状の減殺を図り、より外向的になるように仕向けます。
日記指導においても「あるがまま」、「目的本位」ということを徹底して実践していくようにします。
「生活訓練期」
この時期になると普通の生活に戻る準備をするようになります。外出や外泊もすすんで行なわれます。ただし、症状が出るかどうかを試すための外出や外泊ということではありません。症状にこだわるのではなく、仮に症状が出ても、その中で「あるがまま」であるように考えられています。
さらに後輩への指導を通じて自らを成長させていくことも意図されています。こうした中から、退院したあとの予後のものとして「生活発見の会」というものが組織されています。
B 日記指導
外来の治療場面においてはこの日記指導が中心的なものになっています。学校におけるカウンセリング場面においても、この森田療法的な考え方に基づいて、日記指導をすることが有効なことがあります。その中心的な考え方は、「気分」と「行動」の分離をするということです。
まずクライエントに、ノート(日記帳)の一ページの三分の二を使って一日の行動を書かせるようにします。残りの三分の一にカウンセラーが注意を書きます。初めのうちは「気分」の記述、不安とか苦しさなどが多いわけですが、森田的な考え方、「行動」に移るようになってくると、外の方に関心が向いてくるようになり、不安や悩みはあまり書かれないようになってくるようです。
C 森田療法でよく使われる言葉(禅的な言葉)
森田療法の考え方には、非常に禅の影響が見られることは前にも述べましたが、キー・ワードとして使われる言葉の代表的なものをあげておきたいと思います。
「不安常住」
森田療法では「治そうとするから治らない」というのが基本ですから、不安というのも同様で、不安をなくすことはできないという「事実」を確認し、「常」にその不安の中にいる(住)のだということ覚悟して、その中で日常生活をしていくようにするというわけです。
「不安即安心」
不安があるからこそ安心もある。不安と安心は表裏一体ということ。不安なことがあるからいろいろと用心したりして、いろいろな日常生活もできるわけです。そのへんのところをうまく表現した言葉です。
「煩悩即解脱」
これも同様です。「煩悩」の状態がそのまま「解脱」の状態というふうに言うわけです。禅では「煩悩即菩提」というふうに言われています。
「恐怖突入」
不安はいつもあります。「不安常住」です。逃げ出したくもなりますが、「恐い」ままにとにかく「行動」に「突入」するしかないと覚悟を決めてしまいます。「恐い」ところから「突入」したところに道は開けてくるというわけです。
「事実唯真」
「事実」だけが「真実」というのは当たり前のことのようですが、神経症ということになるとその不安に振り回されているわけですから、「事実」をよく、正しく観察するようにします。
「君子不器」
「君子」は「器」ではない。器というものはあるひとつの用途には使えますが、それ以外にはあまり使えません。神経症の人は概して考え方が固く、融通のきかない人が多いようです。考え方を柔軟にすること、「臨機応変」にすることが求められています。
森田療法は日本の独特の療法ですが、今ではその効用も認められ、世界的にも広く実践されています。さらにいろいろと現代的な工夫もこらされてきています。カウンセリング場面においても、さまざまな不安や悩みなどに対して、その「あるがまま」を受け止め、その中で具体的な行動をしていくという、森田療法の基本的な理念を活かしていく必要があると思います。また、日記指導などは、学校でのカウンセリングにはとくに有効だと思います。
十 内観療法
内観療法は、浄土真宗の中に古くからあった「身調べ」という方法を母体として、吉本伊信という人が創始した療法です。これは必ずしも神経症や心身症を治すというよりも、もちろんそういう症状の治療にも有効ではありますが、それだけではなく健康な人であっても、心の内面を見つめ、本来の自分への気づきを促進し、自己啓発・精神修養につながっていくものだと思います。その具体的な方法は集中内観と日常内観とに分けられます。
「集中内観」
@ 内観研修所
集中内観は指導者のもとで、普通一週間の期間で行ないます。それよりも短いと内観が深まりませんし、それ以上に長いとまだ先があると思って集中しないということです。今では全国に内観研修所がありますが、その中で指導者について、自分の「身調べ」をしていきます。屏風や衝立てで囲われた中で、自分の生まれた時から現在までの、「してもらったこと」、「して返したこと」、「迷惑をかけたこと」の三つを思い出していきます。一日に何回か指導者が現われ(二時間に一度くらい)、どのようなことを思い出したかという報告を簡潔にします。それに対する指導者のアドバイスや次にやることの指示があります。(三〜五分程度)
静かな部屋の隅で、屏風で囲われた中に座ります。用便、入浴、就寝以外はその屏風から外に出ることは禁じられています。もちろん電話や手紙、読書なども禁止され、内観だけに集中します。
このように外界からの刺激を遮断します。また狭い屏風の中ですので保護されてもいるわけです。食事の支度など日常的なものは一切研修所でやってくれるわけですから。
座り方はとくに指定されることはなく、楽な姿勢でいいわけですが、横になってはいけません。朝五時から夜九時まで内観を続けることになっています。
A テーマ
内観のテーマは「してもらったこと」、「して返したこと」、「迷惑をかけたこと」の三つを、時間配分としては一〇〇分の時間とすれば、二〇分、二〇分、六〇分くらいに分けて行ないます。
その対象者としては、普通はまず母親について調べます。母親がいなかったりした場合にはその代わりに育ててもらった人、祖母とか伯母とかという人について調べます。それは日本人にとってはとくに母性社会と言いましょうか、生み育てるという慈母、聖母のイメージが強いということにもよるようです。しかし現在ではこの内観も世界中に紹介され、広まっているということは、やはり母性というものの強さを物語っているものだと言えるでしょう。母親について、自分の年代順にできるだけ細かく、具体的に思い出して調べていきます。内観者の年令にもよりますが、たとえば生まれてから小学校の三年生まで。次に六年生まで。次に中学生の三年間。高校の三年間。大学時代。そのあとは二〜五年毎に区切って調べていきます。
母親についての身調べが一応終ったら、次は父親について同様に調べていきます。その次は兄や姉について同様に調べていきます。さらに学校の先生や職場の上司や先輩などについて調べます。
次のテーマとしては「養育費」の計算というのがあります。これは自分が育ててもらっている間に、いったいどれだけの費用が使われたかということを事細かに、細大漏らさずに思い出して、現在の貨幣価値に直して計算していくものです。たとえば乳幼児のころのミルク代とか、小学校の入学費用、衣服の費用、食費などなど、すべて計算していきます。そうするともちろん驚くほどの金額になってくるのが実感できます。自分が育ててもらうのにこれほどのお金が使われていたのだということが実感されます。そうするとやはり、自分という存在はおろそかにすることはできないということがよくわかります。
もう一つのテーマに「嘘と盗み」というのがあります。これはまた、小学校時代、中学校時代、高校時代、大学時代、それ以降は三〜五年毎に現在まで、やはり細大漏らさずに調べていきます。近所の柿を盗んだとか、友達の鉛筆を借りてそのままだったとか、ちょっとその場しのぎの嘘をついたとか、人のためを思ってついた嘘とか、すべて思い出していきます。
一通り終ったらさらにもう一度母親についての身調べから繰り返して同様に調べていきます。繰り返すことによって内観はさらに深まっていくようです。大体二度目で一週間は過ぎてしまうようです。
B 内観的思考様式
「してもらったこと」というのを「借り」とすると「して返したこと」は「貸し」ということになりますが、この普段は忘れている「借り」を自分の過去から洗いざらい思い出していきます。これを大阪大学の三木善彦教授は「バランスシート的思考様式」と名付けました。
次に「相手を非難する前にまず自分がどうであったか」ということを考えるように指導されます。まず自分を深く省みるというのが内観の基本です。そういう点で「内省的思考様式」あるいはもっと厳しく「自責的思考様式」と言います。
三つめは「相手の立場になって考える」ということです。人間は自己中心的でエゴの固まりのようなものです。自分についての反省はできても、この「相手の立場になる」ということはなかなか難しいものです。そういう時、集中内観における指導者の指示によって内観が深まります。これを「共感的思考様式」と言います。
C 日常内観
普通は集中内観を経験したあとで、日常内観を行ないます。吉本伊信氏は最低一日一時間の日常内観が必要であり、また半年か一年に一度は集中内観をする必要もあると言われています。自己修養として考えてみると、たしかに一度や二度の集中内観や気が向いた時だけの日常内観ではなかなか深まってはいかないと思います。一日一時間の内観を長期間続けて実践することはたいへんなことですが、少しの合間を見つけてその都度行なったり、寝る前に行なったり、朝早く起きて行なうなどの工夫が必要です。
日常内観を行なう場合でも、「してもらったこと」、「して返したこと」、「迷惑をかけたこと」の三つを同じような時間配分で行ないます。そして指導者がいませんので、その分しっかりと自己洞察していくことが大切です。指導者がいたらどう指示するだろうかということをできるだけ客観的に考えていきます。
日常内観をする場合には、記録していくという方法が有効でしょう。記録内観とも言いますが、その際に気をつけたいことは、あくまでも内観をすることが中心であって、記録することが中心ではないということです。文章を書いていくとついそこには文章を飾ったり、あるいは創作したりということがあるようです。
内観療法は森田療法と同様に日本独自の療法ですが、今ではやはり世界的な広がりを見せています。その特徴はどちらも頭のレベルだけではなく、身体を通した実践的な療法だということです。森田療法には禅の影響が強く、内観療法は浄土真宗の中から生まれてきたわけで、どちらも宗教的な部分があります。こういう点は、自己啓発、自己修養ということにもつながっています。そしてそういうことが日常的な実践になるわけです。
十一 トランス・パーソナル心理学
トランス・パーソナルというのは、トランスは超越、パーソナルは個ということで、個を超越する心理学ということになります。1960年代のアメリカにおける実にさまざまな思想の流れの中から、人間の成長は自我の確立、自己実現の段階で終るのではなく、自己超越、宇宙意識、仏教で言うところの悟りの段階へ進むことができるという、それまでの心理学の枠を越えた第四の勢力として考えられてきました。マズローによると、第一の勢力とは行動主義の考え方であり、第二の勢力はフロイトの精神分析に始まる心理学であり、第三の勢力はロジャーズやマズロー自身をも含めた人間性心理学であり、その中から、あるいはそれらを含んで越えるものとして、マズローを中心として、トランス・パーソナル心理学会が1969年に結成されたということです。
フロイトは意識の領域以外に無意識の領域があるということを発見しました。ユングはさらに無意識の領域を個人的無意識と集合的無意識(民族的無意識と普遍的無意識)があるというふうに進めていきました。このトランス・パーソナル心理学ではさらに人類の過去の経験の集積である集合的無意識(過去の無意識)と人類の未来の可能性の種子を含んだ集合的無意識(未来の無意識)もあるというふうに設定されています。この未来の無意識という考え方が従来の心理学の枠を越えたものです。なんだか「科学的」でないような気がするかもしれませんが、自己超越の可能性の種子ということ、それは人間の誰しもが持っているというヒューマニズムの行き着いたところから出てきた、あくまでも科学であるところの心理学としての提案ということなのです。
マズローは自分の体験や研究の中から、そして禅、ヨーガ、老荘思想、スーフィズムなどの影響を受けながら、自己実現からさらに神秘的体験、至高体験ということがあり得るということを主張していきます。それはまた宗教の修行につきものの、自己否定を徹底することによって自己超越ができるというようなものではなく、自己肯定の上に自己実現を図り、さらに自己超越に進むことができるという、人間性の肯定と、その成長の極致としての覚醒があり得るという考えです。
マズローの後のトランス・パーソナル心理学の後継者はアサジョーリやグロフなどがいますが、ここにはその中心的な存在のケン・ウィルバーの思想を紹介しておきます。
ウィルバーは学生時代に『老子』の言葉に出会い、その後仏教や道教など東洋思想の本を次々と読み、また、ロサンゼルス禅センターの前角博雄老師やサンフランシスコ禅センターの鈴木俊雄老師に参禅もしているようです。また精神分析や人間性心理学などを学び、西洋の心理学と東洋の宗教との統合をしようと考えていきました。
そこで考えだされたものが「意識のスペクトル」というものです。これは電磁波の周波数のスペクトル帯域の違い、同じ電磁波でもガンマ線と赤外線とではスペクトル帯域が違うので、そういう捉え方をすれば対立はしないということです。つまり、さまざまな心理学、フロイトの主張もユング、ロジャーズ、マズローなどの思想も、あるいは実存主義哲学や東洋哲学、またさらにキリスト教や仏教などの宗教も、それぞれが心の別々のスペクトル帯域を考え、対象としていると捉えれば、それぞれが別々の理論や思想になるのは当たり前のことになります。ウィルバーはそこで、それらを統合しようと考えて『意識のスペクトル』(春秋社)という著書を出しました。
ウィルバーはそこのところを階層的に述べています。
第一の自我のレベルは意識のレベルです。このレベルでは、自分の地位や性格、能力などの自分の一部にすぎないものを自分自身と同一視しています。ユングの呼んだペルソナ(仮面)というふうに考えます。
次の自我レベルでは、自分の人格の中にシャドウ(影)というものもあるということを認識しているレベルです。しかしまだ、身体は自分の所有物というふうに考え、自分自身とは感じられていないレベルです。
次の自我レベルになると身体にまでひろがり、心身一如、東洋的に言えば身心一如、という段階にまできます。ウィルバーはこの状態をギリシャ神話の中から「ケンタウロス」という言葉を借りてきて名付けています。
さらに深い自我レベルをトランス・パーソナルのレベルと考えられています。ここでは「個」は「超越」され、自己超越の段階となり、神秘体験もされるというわけです。
ウィルバーはさらにもっと深いレベル、宇宙意識のレベルまで追究してこのように言っています。「このレベルは異常な意識の状態でも、変性意識の状態でもなく、唯一真実の意識の状態であり、ほかのすべての状態は本質的に幻想である。」つまり、神、仏、ブラフマン、道(タオ)、あるいは無、空というような究極のレベルということになります。ここまでくるとほとんど宗教と見分けがつかないようですが、トランス・パーソナル心理学はひとつの開かれた科学として、その理論や技法を検証し、修正していこうという認識を持っているということです。
今後の心理学の発展には、このトランス・パーソナル心理学の理論が不可欠だろうと思います。
十二 唯識(仏教の深層心理学)
唯識はもちろん仏教のひとつであり、宗教であり、心理学とは違うのではありますが、ここではその理論、唯識における心の構造の捉え方についてだけを、ごくごく大雑把に考えてみたいと思います。唯識の理論は非常に緊密に、体系的に構成されていますので、このような取り上げ方は本来的ではありませんし、礼を失することにもなるかもしれないのですが、こんな一面もあるということで、心理学的な側面を見ていきたいと思います。
唯識はインドにおいて瑜伽行派と呼ばれた人たちの、深い瞑想、禅定の体験から体系づけられた思想、理論だということを確認しておかなければなりません。
また歴史的には、いわゆる大乗仏教の理論的な体系をまとめたナーガールジュナ(龍樹)に始まり、『摂大乗論』を著したアサンガ(無着)と『唯識三十頌』を著したヴァスバンドウ(世親)で完成されました。さらに玄奘はその注釈書として『成唯識論』を著しています。
その理論の基本的なところを見ていきます。
@ 六識と八識
外界のものを感じ取る器官として、眼、耳、鼻、舌、身というもの、五根があり、それらに気がつくための意識があり、それぞれを眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識として六識とするということは唯識以前から考えられていたことですが、唯識ではさらに末那識と阿頼耶識といういわゆる無意識のレベル、深層無意識の世界があるというふうに考えられました。
私たちの意識は眠っている時は働いていません。その間も私たちは、夢を見たりして、「私」として生きているわけですが、そういうふうにずっと続いている心の深層の領域のことを阿頼耶識と名付けたわけです。つまり生きていく根底のところで働いているのがこの阿頼耶識です。
また、私たちは一見変わらないようでいて少しずつ変化していますが、つい不変の、確固とした自己があると錯覚し、その自己に執着してしまいます。その心を末那識と名付けています。私たちはいろいろな情報に対してそれぞれに判断を下しています。その判断は自分では客観的に正しいと思ってしているわけですが、本質的には自分に都合のいいように判断を下しているというわけです。その働きが自己に執着するところの末那識だというふうに考えられています。
A 熏習
私たちはさまざまな思いを持ち、さまざまなことを言い、さまざまな行為をしています(身口意の三業)。行為や発言ははっきりと意識されますが、心の中のほんのささやかな思いも、それがどんなにささやかなものであっても、すべて阿頼耶識の中に蓄積されていくと考えられています。つまりこの阿頼耶識というのは過去の経験のすべて、ほんのちょっと頭や心をかすめただけの思いなどもすべて、あるいは身体で感じられた感じのすべてをも蔵しているものです。そしてそのように記憶の蔵に蓄積されたさまざまなものが、私たちの日常生活に、私たちの意識のコントロールを越えて自然とにじみでてくると考えられているわけです。そのように考えると、私たちのどろどろとした、人には決して知られたくないようなおぞましいような思いも蓄積されてしまうわけですから、私たちの未来に対して、とても暗澹たる思いにならざるをえないように思われます。
しかし唯識は、そこのところで踏みとどまることを教えてくれています。つまり、私たちの日常生活をきちんと整えていくことによって、良い「種子」(しゅうじ、行為の痕跡のこと)を「熏習」(くんじゅう、蓄積すること)していくこともできるというのです。そしてそれを修行していこうというのが唯識の提案なのです。そしてすでに過去において「無始以来の熏習」が私たちの中には蓄えられているというのです。その道はもちろん遥か彼方まで、「尽未来際」まで続いていますが、「今、此処」からまた始めようというわけです。その決意が「発心」、「発菩提心」ということです。
B 三性
唯識では心の働きを三つに分けて説明しています。それを三性説と言います。
「依他起性」
これは、すべての存在は他のさまざまな因縁に依って起こったものという意味です。つまり、物事というのはすべて、さまざまな要素がそれに合った一定の条件のもとに仮に結合することによって起こっている一時的な現象であり、固定的な、不変の実体として存在するものではないというのです。すべての物事はたえず変化してやまないもの(諸行無常、諸法無我)というわけです。
「遍計所執性」
これは、遍くすべての物事を実体的なものとして思い計らい、その所に執着していくという意味です。すべての物事は変化してやまないものなのですが、私たちはその日常生活において物事を実体的なものとして考え、強く執着しています。これは意識と末那識の働きによっているのですが、こういう本来実在しないものを実在と認識して、そのうえに日常生活を営んでいるわけですから、それは「苦」の生活になるというわけです。
「円成実性」
これは、円満に完全に成し遂げられた真実の心ということです。すべての物事は変化してやまないものだという依他起性をしっかりと認識し、遍計所執性を取り除き、物事の本来の相がはっきりと認識できた時、その心を円成実性というわけです。
C 五位
唯識では、心の構造やその働きについてさまざまな、非常に深い洞察をして、緊密な理論を構築してきました。そして私たちのもっている我執はそう簡単に取り除くことはできませんし、長い間の修行が必要であり、良い種子の熏習を続けていかなければならないとされています。それには「三大阿僧祗劫」が必要だということです。「阿僧祗」というのはサンスクリット語のアサンキャの音写で、「無数」という意味で、「劫」は同じくカルパで、「長期間」という意味です。つまり無限の長期間ということになり、気が遠くなりますが、それでも私たちはそれに向かって修行をしていくしかないというわけです。そしてその修行の階梯を示したのがこの五位の考え方です。
「資糧位」
これは、あらゆる善い行いをし、それを資糧として仏の世界を目指そうとする段階で、まず発心から始まります。永遠とも言えるような仏道を、菩提、涅槃を実現しようという決意をもって、まずは脚下の善い行いをしていくわけです。
「加行位」
これは、資糧位において蓄えたものを、さらに一段と努力を加えて修行していくということです。
「通達位」
これは、煩悩の種子を断ち切って、仏道の道理の世界に通達するという段階ということです。唯識の専門用語になりますが、我執と法執から煩悩障と所知障が生じてきます。それらを資糧位や加行位の段階では現行する(実際に行動などに現われる)のを抑えるわけですが、その種子まではなくなりません。通達位ではその種子までも断ち切るということです。
「修習位」
これは、通達位で通達した道理を、さらに努力を重ねて修習するということです。この中にはまた、十の段階が設定されていて、第七の段階までは努力して修習しなければならないのですが、第八以上になると努力をしなくても、そのままの状態が自然に仏道に適っていることになっています。
「究竟位」
これは、仏道の完成の段階です。煩悩障が取り除かれた身心の静かな境地(涅槃)であり、所知障が断ち切られてものごとをありのままに見る智慧(菩提)が備わっています。ここでは、私たちのような凡夫の八識が転換したもの、つまり「転識得智」が考えられています。それは、阿頼耶識が転じて「大円鏡智」となり、末那識が転じて「平等性智」となり、意識が転じて「妙観察智」となり前五識が転じて「成所作智」となるということです。
D 六波羅蜜
では、唯識の修行はどのようにしていくのかということになると、六波羅蜜を修めるということになります。六波羅蜜というのは、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧という六つの波羅蜜のことです。波羅蜜というのはサンスクリット語で、パラミタと言い、向こう岸、彼岸に渡るという意味です。彼岸に渡るための六つの修行ということになります。
「布施」
これは、人に何かを施すということです。なんだか簡単なことのようですが、これには非常に難しい、深い意味があります。自分に余ったものを人に与えるというだけではないのです。もともと「諸行無常、諸法無我」です。それをしっかり自覚していれば、「自分のもの」というものは本来なにもない、「本来無一物」ですから、施すも施さないもないわけです。しかし、私たち凡夫はなかなか頭では分かっていてもしっかりと身についてはいませんので、そこのところを意識的に努力していかなければならないわけです。
また、「無財の七施」という布施があります。「眼施」はやさしい眼で見ること。「和顔施」はやさしい顔をすること。「言辞施」はやさしい言葉をかけること。「身施」は身体を使って何かできることをすること。「床座施」は席をゆずること。「心施」はやさしく心で思うこと。「房舎施」は宿を貸すこと。これらの布施は心掛ければできることだろうと思います。また、「眼施」「和顔施」「言辞施」「心施」などはカウンセリングの基本の「共感的理解」に通じてもいるものだろうと思います。
「持戒」
これは、戒律を守るということですが、これもただ単に規則を守るというだけではありません。私たちは本来「空」ですから、そのまま自然の状態が「持戒」であるわけですが、やはりそこに到達するまでは意識的努力が必要です。
また、自分で自分のことをコントロールしていく、心の状態まで含めてコントロールしていくことが必要です。ですからこれは「自戒」でもあります。そういう意味でもセルフ・コントロールということになります。釈尊も「よくととのえし己れこそ寄る辺」というふうに言っておられます。
「忍辱」
これは、辱めを忍ぶという意味ですが、やはり普通の忍耐や我慢ということではありません。忍耐や我慢ではそのうちにそれらがたまりにたまってくると、怒りや恨みが爆発してとんでもないことにもなりかねません。これも私たちが本来「空」であることが自覚されていれば、「私」が堪え忍んだり我慢したりするということにはならないわけです。そこのところを心を静かにして思い巡らしてみれば、怒りや恨みには結びつかないわけです。そういうところは、「無条件の肯定的配慮」というのがやや近いのではないかと思います。また、『法華経』の「常不軽菩薩」を理想としていた宮沢賢治の「雨ニモマケズ」という詩は、この精神の積極的な一面を表しているように思います。さらにガンジーのアヒンサ(非暴力)ももちろん「忍辱」そのものでしょう。
「精進」
これは、精進努力するということですが、やはりもう少し深い意味があります。私たちは本来「空」なわけですが、それでも唯識では、「無始以来の熏習」の種子もある、つまり、私たちには生れつき善い方向に、人間性の向上に向かおうという性質も持っていると考えているわけです。本来「空」のままで、自然に、精進努力してやまないというところがあるということです。この点は人間性心理学、とくにロジャーズやマズロー、あるいはジェンドリンの「基本的信頼感」に通じているようです。
「禅定」
これは、サンスクリット語のディヤーナの音写で、心を静かにし、安定、集中するという意味です。私たちの心は日常生活においてはいろいろと散乱しています。そうした中ではなかなか落ち着きません。そこで意識的に「禅定」していくといろいろなものの本来の姿が見えてくるわけです。本来「空」である自分も世界も見えてくるということです。
「智慧」
これはもちろん私たちが普通に使っている「智恵」というものではありません。この世間的な智恵は、人間の分別による浅智恵であり、いわゆる理性的な思考にとどまるものです。
この「智慧」は、布施、持戒、忍辱、精進、禅定という修行の後に得られる無分別智、般若後得智と呼ばれるもので、菩薩から仏に至る本当の智慧ということです。「仏は一切の存在の本性は無分別であると説かれる。分別されるものがないのだから。」これは『摂大乗論』の一節ですが、ものごとのありのままの相を、そのままありのままに見るというか、そのままありのままにあるというか、その見るということもあるということもないというようなあり方、それが「智慧」ということだろうと思います。
また、この「智慧」をその働きに応じて、大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智というふうに呼んでいます。
「唯識」は古く、インドにおいて成立した大乗仏教の一派であることは前にも書きましたが、現代ではそれを西洋の心理学と統合していこうという流れの中で注目されています。ここでもそうした視点で取り上げてみたのですが、ただし、その原点はどこまでも大乗仏教の精神、菩薩としての慈悲、大慈大悲の精神、「自未得度先度他」(自らは未だ度ることを得ざれども先ず他を度す)という願いのところにあるのだということを忘れてはいけないということは言うまでもないことです。
十三 フォーカシング(フォーカシング指向心理療法)
創始者ジェンドリンはシカゴ大学で哲学の教授をしていたそうです。専門はハイデッガーらの現象学のようです。その時にロジャーズと出会い、その人間性に触れて弟子となり、心理学を学びます。シカゴ大学の大学院は専門領域にとらわれず、いろいろな分野をまたがった研究ができるようになっているそうです。ロジャーズがどちらかというと直観的・宗教的であるのに対して、ジェンドリンは理論的・哲学的ですから、その後のロジャーズの著作にはジェンドリンの理論や哲学の裏付けと言いましょうか、影響と言いましょうか、そういうものが目立ってきているそうです。そういう意味では弟子というよりも共同研究者と言ったほうが適切なのかも知れません。
そしてジェンドリンがロジャーズとの様々な研究や実践の中で、成功したカウンセリングの事例を詳細に調べていくと、ある特徴があるのに気が付いてきたのです。それはセラピーの方法やセラピスト・カウンセラーの技術の問題ではなく、クライエントがいかに話すかという点にありました。つまり成功するカウンセリングにおいては、クライエントが内的にしていることが外面に現われてくるものだということです。その内的にしていることを、ジェンドリンはフォーカシングと名付けたわけです。
その理論的裏付けが体験過程理論です。詳しくは参考図書の『セラピー・プロセスの小さな一歩』(金剛出版)を読んでいただきたいと思いますが、ここには簡潔に要約しておきます。
@「実存」ということでは、人が今「感じる」のはその人の生きる過程(プロセス)の全体的な複雑さであり、この感じは、体では、鳩尾、腹、胸、喉などで感じられ、そして状況の意味などの、非常に多くの複雑な側面を生じさせる、と言います。
A「出会い」・「相互作用」ということでは、人間は世界ー内ー存在、であり、人間は世界の内で、他者と共に出会っていく過程(プロセス)なのだということです。「あなたはどこにいるのか、体の内か外か」という問いがあります。「内」も「外」も概念ですから、そうではなくてやはり関係性の中にいるとしか答えられないということです。
B「本来性」・「推進」ということでは、人がその人の体験過程を言葉や他の方法で象徴化すると、それ自体がさらに進んだ体験過程となり、それは象徴化される体験過程の推進とそれによる変化である。つまり、感じることを話すことは、感じることを変える(推進する)のだということです。
C「価値」ということでは、体験過程は目的をもっており、価値を作り、焦点的である。つまり、体験過程はある方向性をもっている。たとえば、部屋の暖房が効きすぎている場合、体で感じられる「暑い」という感覚は、もっと涼しくするための何らかの行為、窓を開ける、外に出る、団扇で扇ぐ、などを暗示しているということです。
それでは次に、少し実践をしながらお話させていただきます。
まず、フェルトセンスということですが、きょうはじめに五分ほど黙っていると言いましょうか、何もしないと言いましょうか、そんなことをやってもらいましたが、そういう状態なら状態の時に感じられる自分の体のセンス、感覚を感じましょうということです。簡潔に言いますと、フォーカシングというのはその実感からの気づきを促す方法ということになります。
これは実は、普段の生活の中でみなさんがなさっていることでもあるのです。たとえば食事ですが、お腹が空いたなあと感じた時、この「空腹感」は「概念」なので、その概念の前提となっている前概念的感覚に触れる必要があります。「どんな空腹感かな?」と聞いてみるとそれに触れることができます。こうして触れてみると、今日の昼の空腹感と昨日の昼の空腹感とは違う実感をもっていることに気付きます。この今の空腹感、「もっと…な食べ物が食べたい」は「次なるものの暗示」なのです。それは次にするべきことを指し示すメッセージなのです。食堂に行ったとします。カツ丼がいいのか、カレーライスが食べたいのか、おそばが食べたいのか、あるいはパンが食べたいのか、その時の感じは何が食べたいのか感じますね。そしてその感じにぴったりしたものが出てくれば、おいしく食べられるでしょう。逆にちょっと違う、本当に食べたいのはこれではなかった、とするとどうでしょうか。カレーライスという「概念」を体の実感と照らし合わせてみた時、ちょっと違うなあと感じたとします。それではおそばはどうかと照らし合わせてみます。「ああそうだ、これが食べたかったんだ」と感じた時、暗在されていたもの、内側にあったものが明在化します。ハッキリするわけです。こういうことを推進、Carring forwardと言います。
また、おそばを選んだとしても、さらに冷たい「ざるそば」がいいのか、温かい「天婦羅そば」がいいのか、はたまた麺は「更科」か「田舎」かというふうに「分化」されます。これを「内的な分化可能性」といいます。
こういう例に見られるように、いろいろな「体験」は過程、プロセスとして存在しているわけです。そしてそれは常に変化の可能性を内在しているわけです。私たちがカウンセリングを実践する場合、生徒も刻々と変化していきます。私たち自身も変化していきます。その刻々と変化していくものを実感していく必要があるということです。それをフォーカシングと言うのだろうと思います。
フォーカシングを始めるには、まず自律訓練などをやってリラックスするといいのですが、きょうはもう十分リラックスしているものとしてやってみたいと思います。ちょっとやってみていただけないでしょうか。あらためてもう一度、今のご自分の感じを感じてみてください。喉や胸、お腹の辺りの感じはどうでしょうか。無理に言葉にしなくて結構です。ゴワゴワとか、フンワリとか、チリチリとか、ネットリとか、そんな感じでいいのですが。いかがでしょうか。何にも感じないということはないとは思うのですが、そういう場合はそのなんにも感じないという感じを味わってみてください。
次に簡便法とありますが、これは必ずしも順番に全部やらなくてはならないということではありませんが、やりやすい基本的な方法です。カウンセリングの場面ではこれを進めていくために、リスナーやガイドが質問しながら聞いていきます。きょうは自分で進めるということでお話したいと思います。また、これも一つずつ体験していただけるといいと思うのですが、きょうは時間がありませんので、やりかただけご説明します。
@「空間をつくる」、ということですが、「自分の生活はどうなっているのだろう?」 「今自分にとって大きなことは何だろう?」などと自分に尋ねたら、そこに何が出てくるか、先程の自分の感じ、お腹や胸のあたりの感じを感じてみます。その感じの中からゆっくり、気になっていることや問題等が出てきたら、すぐにはその中に入り込まないようにします。自分とそれとの間に少し空間をつくります。そこで他に何が感じられるか尋ねてみます。少し待って、感じてみます。いくつかのことがあるのが普通です。そしてそれらとの間に、適当な間をとります。
A「フェルトセンス」では、@の「空間をつくる」で出てきたものの中から、とくに気になっていて、焦点を当ててみたいものを一つ選んで、感じてみます。それを思い浮べた時の体の感じはどんな感じか。ゆっくりやってみます。そしてその出てきた感じを認めてあげるようにします。否定しないように気をつけてください。
B「取っ手(ハンドル)をつかむ」ということは、「見出しをつける」と言ってもいいのですが、フェルトセンスを言い表わす、適切な言葉、擬音語や擬態語などや、イメージを探すことです。先程のゴワゴワとかフンワカとかということなどです。
C「共鳴させる」というのは、フェルトセンスとこの取っ手や見出しを何回か行ったり来たりさせてみるということです。ピッタリ合っているかどうか感じてみます。違う取っ手や見出しのほうがいいと思ったら変えてみます。ピッタリするまでやってみます。また、フェルトセンスのほうが変わる場合もあります。その場合はまた取っ手を探してみてください。
D「尋ねる」というのは、この取っ手の感じは何を必要としているのだろう、この取っ手の感じが私に何か教えてくれているとしたら、それは何だろう、などとフェルトセンスに質問してみることです。その時は、頭、概念で考えないで、必ずフェルトセンスから何か新しいこと、感じられたことなどが自然に浮かんでくるのをゆっくり待ってください。
E「受け取る」または「受容」というのは、その体の実感をそのまま受け容れるということです。どんなことが出てきても否定したりしないで、そういう自分もあったんだ、そうだよね、などというふうに受け容れて味わってみてください。
ここまでやってきて、取り上げている気になることについて、はっきりしない体の感覚が感じられ、しばらくそれに触れているということが起こったら、そのときフォーカシングができたということになります。そこから体のほうで自然と次の一歩が進められてくる、というのがフォーカシングの考え方ということです。
「フェルトシフト」というのは、先程の空腹感とおそばの例でお話した、「ああこれだ」という気付き、推進のことだと言っていいと思います。カウンセリングの場面での気付きの体験では、心・体・イメージが一体となったような感覚があり、その瞬間人は体ごと実感し、変化していくということです。それは何となくわかったというような不明瞭なものではなく、はっきりとした、体験的に疑う余地のない正しさが実感されるということです。
フォーカシングでは、クライエントとカウンセラーとは呼ばずに、フォーカッサーとリスナーあるいはガイドと呼びます。ここではカウンセリングよりももっと、と言いましょうか、フォーカッサーが中心、主役です。そしてカウンセリングと違う点は、フォーカッサーは自分の気掛かりなことや問題など、フォーカシングしたい事柄をリスナーやガイドに言わなくて良いということです。ただその気掛かりなことなどを感じているときの感じを伝えるだけでいいのです。知られたくないことはガイドに報せなくてもいいわけです。ガイドのほうでもその問題そのものは知らなくても、その感じを聞いているだけで、その感じに焦点を当てているわけですから、それでフォーカシングは十分に進んでいくということです。
ガイドをする場合のもっとも基本的な原則は、ガイドがフォーカッサーのために「まぎれもなくそこに存在して居る」ことです。十全に、と言いましょうか、その場に居ること、その人と一緒に居て、その人に関わり、そこに展開していくフォーカッサーの内面の過程、プロセスに関わっていくことです。そこに居るということは、何か役に立つことを行うことや、次に何が起こるかを知っていることよりも、ずっと大切なのだということです。人と人がそこに居るということがとても大切なのだということです。
そして、フォーカッサーの内的過程、プロセスに導いてもらうことです。ガイドをガイドするのはフォーカッサーの過程なのだということです。ちょっと逆説的な言い方になりますが、それがとても大切なことであり、そこから離れてはフォーカシングにもカウンセリングにもならないということです。
「クリアリング・ア・スペース」は日本語に翻訳すると、「間を置く」ということになります。これは「体験的距離」を調整するという方法で、フォーカシングの前段階、あるいはフォーカシングの初めの段階に位置付けられています。たとえば「悲しさ」に埋没してしまうということは、体験的距離が近すぎるということで、どんどん悲しくなってしまうばかりで、その「悲しさ」を観察したり、概念化したり、推進したりすることができなくなります。逆に「悲しさ」から離れすぎると、感じられなくなってしまって、これも推進できなくなってしまいます。この気持ち、感じを観察できる適度な体験的距離をつくるのがこの段階のねらいのひとつです。
この間を置く方法を、段階を追ってお話してみましょう。
1 自分の内面に「ごきげんいかがですか」とか「こんにちは」とか優しく聞いてみる。
2 「最近どんなことが気になっているのかなあ」と優しく聞いてみる。
3 気掛かりなことが浮かんできたら、それらを一つ一つ大切に認めてあげる。
4 次に、その気掛かりな事柄は「どんな雰囲気を伴っているか」観察してみる。
5 その事柄と雰囲気を、イメージの中で、どこかに「置く」ようにする。それに適した、ピッタリした「置き場所」が自然に浮かぶのを待つ。※この事柄とその雰囲気というのを離さないで、一緒に感じていることが大切です。
6 少し楽になる。楽にならない場合は「置き場所」を変えてみる。
7 「この他にどんなことが気になっているのだろう」と2に戻って繰り返す。
8 「もうすっかり楽になったかなあ」、「まだ気分を邪魔するものがあるかなあ」と、内面に触れて、何かあれば3以下を繰り返す。
次に、この間を置く方法の具体的な実践方法に「箱イメージ法」というのがあります。これは、気掛かりな事柄を何かの入れ物に入れるということです。どんな入れ物でもいいのです。段ボールでも、壷でも、鉄の箱でも、何でもかまいません。その入れ物もフォーカッサーのイメージで決めてもらいます。さらに、蓋をするとか、鍵を掛けるとかも自由です。そして「置き場所」も、相談室の隅でも、テーブルの下でも、海の底でも、山の天辺でも、雲の上でも、宇宙の果てでも、どんな所でもいいのです。イメージで進めていくわけですが、できるだけ具体的に、感じに触れるようにイメージをしてもらいます。実際にやってみますと、実に様々なイメージを思い描く生徒もいます。これを一つ一つの気掛かりなことについて、丁寧にやっていくのです。
この方法は集団で実践することもできます。その場合には、紙に書いた、容器のような形をしたものの中に、イメージで書き込んでもらっていきます。いろいろな工夫で、クラスなどでも実践できます。私もクラスでやってみましたが、中には興味を持つ子も結構居たようでした。
なんだか子供騙しのような、他愛もないことのようですが、これだけのことでもずいぶんと楽になることがあります。このクリアリング・ア・スペースだけを取り上げて、面接場面で実践している専門家もいるようです。私も実践してみて、この方法はとても簡単にできますし、それでずいぶん楽になることもありますし、さらにはっきりとした推進も可能ですので、学校での面接場面にも有効だと思います。また、みなさんご自身でも、すぐに実践することができますので、是非やってみてください。
その理論的裏付けが体験過程理論です。詳しくは参考図書の『セラピー・プロセスの小さな一歩』(金剛出版)を読んでいただきたいと思いますが、ここには簡潔に要約しておきます。
@「実存」ということでは、人が今「感じる」のはその人の生きる過程(プロセス)の全体的な複雑さであり、この感じは、体では、鳩尾、腹、胸、喉などで感じられ、そして状況の意味などの、非常に多くの複雑な側面を生じさせる、と言います。
A「出会い」・「相互作用」ということでは、人間は世界ー内ー存在、であり、人間は世界の内で、他者と共に出会っていく過程(プロセス)なのだということです。「あなたはどこにいるのか、体の内か外か」という問いがあります。「内」も「外」も概念ですから、そうではなくてやはり関係性の中にいるとしか答えられないということです。
B「本来性」・「推進」ということでは、人がその人の体験過程を言葉や他の方法で象徴化すると、それ自体がさらに進んだ体験過程となり、それは象徴化される体験過程の推進とそれによる変化である。つまり、感じることを話すことは、感じることを変える(推進する)のだということです。
C「価値」ということでは、体験過程は目的をもっており、価値を作り、焦点的である。つまり、体験過程はある方向性をもっている。たとえば、部屋の暖房が効きすぎている場合、体で感じられる「暑い」という感覚は、もっと涼しくするための何らかの行為、窓を開ける、外に出る、団扇で扇ぐ、などを暗示しているということです。
十四 箱庭療法(サンド・プレイ・セラピー)
箱庭療法はローエンフェルトによって考案され、カルフによってユングの分析心理学の考えを導入して現在のような療法として確立されたのですが、それを河合隼雄氏(ユング心理学者)が日本に持ち帰り、日本古来の「箱庭」という名称を冠せて一般に流布したものです。中を青く塗られた箱(内寸57×72×7cm)の中に砂を入れ(砂をどけると海や川になる)、そこに様々な玩具(様々な人間、動物、植物、建物、など)を置いて遊びます。そこにはその箱庭を作る人の心の世界が表現されます。また、箱庭を作るだけでも癒されるということがあります。実際に砂遊びをするだけでも気持ちのいいものです。非常に日本的なので、現在では世界の中でも日本で最も実践されているようです。用具を揃えるのに費用がかかりますが、有効な療法です。今年(平成十三年)勤務校で購入していただき、活用しています。
十五 ロールレタリング(役割交換書簡法)
ロールレタリングは西九州大学の春口徳雄氏によって考案された療法で、自分に対して自分が父親や母親に成り代わって、できるだけ厳しい意見などを手紙に書き、それを読んで今度はそれに対する反論を書く、ということを繰り返すという方法です。こうすることによって自分自身を客観的にみることができるようになりますし、父や母の身になって考えますので、その気持ちもわかってくるということです。そして文章に書くということで、よく考えるということも重要な要素になっています。
春口氏はこの療法を初めは少年鑑別所において実践されたようです。少年たちも初めはぎこちなくしか書けなかったようですが、何度も繰り返しているうちに、次第に本気になって書くようになり、それがきっかけで自己自身についての気づきが生じて立ち直ることが報告されています。
さらにこの方法の学校のHRなどにおける実践例も報告されています。私もHRにおいて取り組んでみましたが、一定の効果はあったのではないかと思います。その際、手紙の内容は見ないという約束をして実践します。しかし何回か繰り返していくうちに、生徒のほうから読んでほしいということもあります。そういうふうになってくるとその生徒との関係は非常に密接なものになってきます。