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梶井基次郎の湯ヶ島
大正15年(26歳)12月の大晦日に湯ヶ島に転地療養にやって来た。彼が湯ヶ島滞在中の1年半の間に、また帰京してからも、湯ヶ島での体験に基づくいろいろな短編を書いている。
←基次郎の宿『湯川屋』の資料室 |
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結核のため東大卒業を断念し伊豆に転地する。落合楼に1泊、翌日湯本館に初対面の川端康成を訪ね、湯川屋に落ちつく。
「保養といふよりもっとせっぱつまった亡命というような」深刻な心境だったが、やがて毎日のように往き来して『青空』の作品評を求めたり、『伊豆の踊子』の校正を手伝ったりした。
湯ヶ島の自然に心うたれ、病勢におかされつつ孤独のうちに『闇の絵巻』『筧の話』『温泉』『冬の蝿』『蒼穹』などの第1稿を書いている。卒業論文製作で三好、淀野など昭和2年の夏の湯ヶ島は文学と青春にわきたつ一夏の祝祭であった。 |
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「山の便りお知らせいたします 桜は八重がまだ咲き残ってゐます つつぢが火がついたやうに咲いて来ました
石楠花(しゃくなげ)は浄簾の瀧の方で満開の一株を見ましたが大抵はまだ蕾(つぼみ)の紅もさしてゐない位です
げんげん畑は掘りかへされて苗代田になりました。もう燕が来てその上を飛んでゐます。
伊豆湯ヶ島世古ノ瀧
湯川屋内 梶井基次郎」 |

湯川屋から道路一本挟んだ高台の林の中 狭い石段を登っていくと石碑が現われる。
川端康成の手による題字で昭和3年4月30日、川端に宛てた書簡の一節である。 |
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----檸 檬 忌 (湯川屋) -----
昭和39年の33回忌にあたり、途絶えていた檸檬忌が復活した。その後檸檬忌は、梶井の作品に出てくる自然が変わらず残る湯ヶ島で毎年5月行われている。

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