『河鹿』 (昭和3年)

 当時尾崎士郎は創作活動だけでなく、日々の生活についても思うにまかせない閉塞状態が続いていた。こうしたことを反映して、この時期の作品は虚無的な傾向を帯びていた。

 温泉宿に宿泊していた夫婦がいた。性別を除いて、同じ気持ちをもった人間であるという認識から気持の清新さを失い、生活に疲れてしまう。
 夜、宿の裏手の川に出ると、胴体を合わせた雌雄の河鹿がどんどん流れていくところから妻の背に自分も流されていく姿を考え、神々しく思う。


 妻宇野千代との夫婦生活がもうぎりぎりのところまで来ていたことを示す自伝的な作品とされている。


天城湯ヶ島と馬込文士村の作家たち


 川端康成は新人発掘の名人と言われていた。彼に発見された新人はめきめきと伸びて行き、川端が大正末期から昭和初年に住んだ荏原郡馬込村 (東京都大田区) には多くの文士たちが集まり住み、馬込文士村を形成していた。昭和2年川端や尾崎、梶井と三好、淀野などが住み多くの文士が天城湯ヶ島にあつまっており、あたかも湯ヶ島文士村であった。


       湯 ヶ 島 の こ と
                          尾 崎 士 郎


 湯ヶ島の草分けは川端康成君である。たしか大正15年の夏であったと思う。私は彼の招待を受けていった・・・・・・・
 広津氏に来遊をすすめたのは私であるが、その前に、街道を遠くはなれた別の宿屋に梶井基次郎が半ば病体を養いながら、これもすでにひと冬をすごして1年近く暮らしていた。梶井君の友人である三好達治、淀野隆三の両君が此処に住むようになったのもその夏で、三好君は農家の一室を借り、淀野君は貸別荘をかりて自炊・・・・・・・

 萩原朔太郎氏もまだ40になっていなかったように思う。私が28か9であったから、広津氏が37、8、梶井君や淀野君が25、6、三好君だけが1つか2つ上であった。