フツーの日記/1999年8月版
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家の雨どいが詰まっていて雨どいの役をなさず、特に大雨になると、水が溢れて窓の外を滝の様に流れていて見苦しい。夕立も頻繁に来るし、台風も近づいてきているとの事なので、思い切って掃除をする事にした。実は雨どいの掃除は、初めてではない。だからどんな様子なのかが予測できたので、あまり気乗りがしなかったのである。
そこに溜まっているのは、落ち葉や木の小枝と、屋根を葺いてある板の表面から剥がれて落ちた砂の混合物なのだ。砂混じりの、更に湿っぽい腐葉土を想像してもらえれば近い。で、そういった物の宿命として・・・そうです、うわー、な生き物達の宝庫なのですよ。梯子をかけて、それらを小さなシャベル等、或いは手袋をした手で掻き落としていくのである。あまり楽しそうじゃない。
今住んでいる家の雨どいには「メッシュ」の蓋がしてあって、これが大きな落ち葉などが雨どいに落ちるのを防いでいるんだけど、掃除をする時にはこれをいちいち取り外さなければならず、それも面倒だ。一つめの「メッシュ蓋」を取り外して掃除しながら、なんとかもっと楽に出来ないものか、と、目の高さにある雨どいの中の小さなオトモダチをなるべく見ない様にしながら考える。
雨どいの、下に向かう管が継がっている穴が完全に塞がっている。ゴミの間を通っていく分くらいは流れるのだろうけど、基本的に詰まっている事には変わりはない。周りからゴミを掻き落とし、ホースを上げてきて水道水で穴の中を流す。
ん?・・・なんか結構良い勢いで流れている・・・そう言やぁ確かにゴミは雨どいに溜まっているものの、掻き落とし自体はそんなに苦じゃない・・・ってか、むしろ軽く、するっ、と剥がれてくる。
上手くいけばラッキー♪、くらいのつもりで、ホースのノズルを「JET」にして雨どいの中に向けて噴射する・・・どっひゃー、流れる流れる。瞠目、という言葉はこの様な場合の為にあるのだろう、と思うくらいに驚いた。勢いに乗ってがんがんと流し、あっという間に一本終了する。
水が流れて溜まっていくものだから、水で流れっこない、という思い込みがあったのだ、どこかに。雨は屋根から流れてきて雨どいの中で勢いを失うのだから、「雨どいぞい」に流れる時には、ゴミを置いて漂っていくだけの様な状態になっているのに違いない。つまり、同じ水でも今までにない方向と強さで用いれば、有効に働くのであった。
ほんとはこの勢いで全部の雨どいをきれいにしたかったんだけど、効率を上げる為には梯子を使うのではなく、かなりの場面で屋根(傾斜45度くらい)を歩かなければならないので、特に二階の屋根には恐くて乗る気にならず、止めた。が、近い内にアウトドア用品店でザイルを買ってきて、体を確保しながらざんざんといこう、と既に計画している。これを即座に思い付かなかったのは、屋根を屋根と見てしまっていたからだ。高さ、傾斜、摩擦係数といった客観的データから見れば、自ずと「確保を考えれば良い」、となった筈である。
もしもこの、抜群の手法二つのコンビネーション、がアメリカ中に広まってしまったらどうしようかな。
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最近、日記の更新の頻度が極端に落ちている・・・ってか、8月なんてここまで3本しか上げてない。何でかというと、店主、このところすっかり早寝早起きっぽくなっていて、夜の10時頃になると、もうほんとのほんとに起きていられなくなってしまうのであった。
閑話休題。
この時点で6年間以上アメリカに居るんだけど、どーしても受け入れられない事がある・・・それは、「キュウリ(っぽいもの)に熱を加えて調理する」・・・うー、考えただけでちょっと、うっ、となってしまった。
最初の出会いは、この国で一般に「Japanese Style Steak」、と呼ばれている、お客の目の前の鉄板上で肉とか野菜とかを調理していくレストランで、であった。見るともなしに野菜を焼くのを見ていたら、タマネギに混じってキュウリの様な物が・・・食べてみた。そう、一回は食べてみたのです。少しぐにゃりとして、なんとも店主「不」好みの食感・・・その場で許容しない食物/調理法、に加えられたのであった。
正確にはこれはズッキーニ(Zucchini=キュウリに似たカボチャの類)なんだけど、それはこの際横においといて(・・・良いのか?)、とにかく「キュウリっぽいものに熱を加えた時のうえええ感」、というのがしっかりとアタマに刷り込まれたのである。
店主、この国に来るまでこのズッキーニというものに(それとわかって)接する機会が、多分なかった。で、個人的に困った事にこのズッキーニ、煮たり焼いたり揚げたり( : 天ぷらもある)といった加熱調理をされて供される事が普通であるそうだ。野菜のスープ、なんてのにはほぼ100%入ってくるし、なんかの付け合わせにピーマンなんかと炒められて出てくる・・・ううう、やっぱり店主的にはキュウリを連想してしまう。一般的な日本の食事風景では、キュウリとはどう加工されても冷たくしてあるのではないのか?譲っても室温だ。
でもね、仕方ないのである。合わないのも仕方ないし、そう調理されるのも仕方ない。それにこっち(日本側)にだって同じ様なものはあるのだ。例えば、「餡子」。
この国ではアズキはしょっぱいのが一般的なのである。餡子のお菓子類には、最初に出されるとまず手を付けない。そのままずっとつけない事も多い。感覚的には、例えて言うなら、納豆に砂糖をかけて食べてる様なものか。
ま、お互い「こんなに旨いものを食べないで、なんであんな妙なものを好んで食べるんだ?」という想いを、「あ、いや、僕はこちらで良いですから、どうぞ。」なんて言葉で包んでにこやかに過していくのも、文化の交わり方、尊重の仕方のひとつなのであろう。
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先の帰国の際に、ちょっと(かなり?)前から巷で流行っている、Dance Dance Revolution(略称 : DDR、一部では「ダダレ」)のPlayStation版用専用コントローラを日本で買って持ち帰った。実家(静岡)の辺りでは全く手に入らなくて、お店には無いしいつ入るか分からない、という事だったんだけど、秋葉原に出向いて行ったら、一軒目に入ったお店で山積みになっていた。なんか、流石アキハバラである。2個購入した。
で、これ(専用コントローラ)はどんなモノかと言うと、アーケード版の下の方にあるステップボード(って言うのかな?)、前後にピンク、左右にブルーの矢印がある辺りにPS用の各種スイッチ相当部を加え、折りたたみ可能なマットの上に再現した物である。
ゲームのルール自体はシンプルで、画面上を流れていく前後左右、4つの矢印が、「踏むゾーン」に達した時にそれに合わせてボード/マット上の矢印をタイミング良く踏んでいくだけなんだけど、まぁこれが、何で見た通りに動かないんだよオイラの足は、という位に巧くできない。
この「巧くできない」には2つが含まれていて、一つは矢印に合わせて足が繰り出せないのと、もうひとつは踏むべき位置(:自分に対する、各矢印の位置)の上に巧く足を落とす事ができないのである。試しに、立って、床の上に何か目標を見つけて、足元を見ないでそれを踏もうとしてみて下さい・・・店主は一回では踏めなかった。各位置は体に覚えさせるしかないのである。
アーケード版は一回100円だか200円だかで、しかも衆目の中でステップを踏まなければならない。おまけに人気のゲーム(2ndReMix、もある)で、常に順番待ち状態の様だから、受けるプレッシャーは計り知れないであろう。だから自宅で密かに練習できるこのコントローラは、特にプライドはあるけど進歩が伴わない店主には必須なのである・・・って、ゲーセンでやるつもりなのか?・・・いやほら、ちょっとどんなモノか試してみて、行けそうだったら、って事で。
しかし流れの速いゲーム業界、果たして店主の帰国までこの「ダダレ」、一線で残っていてくれるのだろうか?ちょっと寂れたゲーセンの片隅で一人踊る自分の姿が思われ、元々怪しいステップから力が抜けがちな今日この頃ではある。
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日本で10冊ほど文庫本を買い込んできたんだけど、その内の1冊、「ホワイトアウト」(真保裕一/しんぽ・ゆういち著-新潮文庫刊)を読了した。
「日本最大の貯水量を誇るダムが、武装グループに占拠された。職員、ふもとの住民を人質に、要求は50億円。残された時間は24時間! 荒れ狂う吹雪をついて、ひとりの男が敢然と立ち上がる。 同僚と、かつて自分の過失で亡くした友人の婚約者を救うために------。 圧倒的な描写力、緊迫感あふれるストーリー展開で話題をさらった、アクション・サスペンスの最高峰。 吉川英治文学新人賞受賞。」(カバー裏表紙より)
ここまで書かれたら、読むしかないっしょ。店主が本を買う時には大抵この、裏表紙にある説明(なんて言うんだろ?)で決めてしまうんだけど、あんまり外れを掴まない。で、読み始めた。
そしたらですね、なんか親近感が既に最初の数行で・・・・緊迫感とか興奮じゃなくて、親近感なのですよ。読んで進んでいく内にもますます親近感がつのる。展開は比較的さらりとしていてスピーディで、その中でかっちりと人物/状況描写が効いていて、息つく間もなく読める。そして、依然全編に漂う親近感・・・。
と言うのはですね、この方の文、読点が多いのです。これでもか、って位に読点が入っている。だからなのです。
実は店主は、文を書く時に読点を多めに入れたい方で、読点に文の意味の定義付けを負わせたい方で、でもできるだけ文を短くしたくて読点の数を減らしたくて、入れるのを逡巡する。大抵の場合、涙を飲んで止す。でも、この「ホワイトアウト」、読んでいくと「ん、ここだ・・・」ってとこで読点が入る。もちろん、店主の文なぞと比較してはイケナイのであるけれど、でも緊張感と共にどうしても覚えてしまう親近感・・・。
文庫で約630ページ、都合5回ほどに分けて読んだんだけど、良かった。もちろん内容も良かったけど、親近感もあった。店主の「読点観」について、吉川英治さん(気軽に呼んでいいのか?)2に、「うむ、それでよろしい。」、とお墨付きを貰った様な気分なのである。
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・・・ちょこちょこと書きながら保留している内にアメリカに帰って来てしまい、過去の日記になった・・・。日記も時差ぼけか。
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