深いV字谷の底にようやく日が射し始めたのは、朝ももう9時過ぎだった。薄暗い内に谷を川まで下り、遡行を始めて既に3時間、流れはその魅力を更に増し、という事は必然的に険しくなってきていた。小振りの家ほどもある岩を何とかかんとかよじ登ってそーっと頭だけを出すと、しめた、まるで「渓流釣り入門」の図解にある様な、やや速めで狭めの流れの中に岩が散らばったわかり易いポイントがそこにあった。その態勢のまま、つまんでいた#14マーチブラウン・パラシュートを宙に浮かせ、そっと8.5フィートのグラファイト・フライロッドを振り始めた。
自分が選択できた、またいろいろと試してみた数あるフライフィッシングのスタイルの中で、始めた形と結局絞り込まれた形が、この山岳渓流での釣りだった。自分の足で渓(たに)を動いていかねばならないが、曲がりくねった、見通せない谷の向こうに次はどんな景色があるかという期待感が好きなのだ。また基本的に魚がやってくるのではなくてこちらから向こうが居る所に攻め上ってゆく、という挑戦的な状況、さらにそれらしいが結局の所偽物、に食いつかせるという作戦性、そして何よりも、この釣りを難しくしている、用心深く攻撃的で速く美しい魚たち、これら全てが好きだ。
2回のファルスキャストの間にフライの着水点までの距離を目測し、適当な長さのフライラインをリールから引き出して左手の中に準備する。3回目に右腕は自動的にループの飛びを水面に向けて調整し、左手はラインを解放し、プレゼント。80点。思ったより採餌点に近い上流に落ちた。そのままフライが自然に流れるに任せる。目当てとする、水の上に小さな頭を出している岩の脇を通りかかる。高まる期待感。が、残念、何も起らなかった。見切られたのか、或いはこっちが居所の見切りを誤ったのか、とにかく空振りだ。が、まあ、魚が居そうな所はここだけじゃない。早速次の目標点に向けて再びキャストを開始する。
この釣りを始めた当初は、知識や興味の拡大と共に色んな事にトライしてみた。フライロッドも最長11フィートという物を試した。結果、これはあまりにも融通が効かなすぎ、もっと軽くて扱い易い長さになっていった。ある時期は、リーダーの長さを13フィート程にしていた。結果、扱いが面倒で楽しくなくなり、リーダーはどんどん短くなっていった。良く釣れると言うので#24等と言う、出来上がると米粒位にしかならないちいさなフライを使った。結果、一体どこにフライがあるのかわからなくなり、ストレスだけが増し、加えて近視の進行と共にフライは大きくなっていった。雑誌や実物の水生昆虫を見て、季節や時間等によってきちんと違うフライを用意したり、釣り場では流れの中にインセクト・ネットを広げて、今のこの川の流下の様子ならならクロマダラカゲロウの幼虫で大きさは#16だな、なんていう解った様な選びかたをしていた。結果、フライボックスがやたらと増えて持って歩くのが面倒になり、色は白黒灰茶、大きさは大中小の3種類、大きな違いは、ドライかウェット/ニンフかだけ、となった。つまり時間が経つにつれて釣りの大体の部分が、世間で、それじゃあ釣れないぞ、といわれる様な大雑把なスタイルに移行していき、実際、もともとのセンスの無さも手伝って、いつまで経っても殆ど釣れる様にならなかった。でも渓を歩くのは楽しかったし、精神的、物理的に身軽になり、また余り釣れないから、一匹釣れればすごく嬉しかった。
結局昼食時まで何も釣れなかった。この時期、こう日が高くなるまで何も釣れないという事は、いつも通り釣果無しという事になる確率が高い。特に自分の場合、「非常に」だ。昼食はグラノーラ・バーなんかとパックのジュースだけで簡単に済ます事が多くなった。前はデイパック一杯に食器類一式や食料、ガソリンストーブ、おまけにコーヒードリッパーあたりまで背負い込んで釣っていたのだが、止めてしまった。今のスタイルなら全てをベストのバックポケットに放り込んでおける。この辺りも身軽になった部分だった。野外で食事をするのに手間を掛けるのが嫌いになった訳じゃない。全体に身軽になってきた自分の釣りの時のスタイルに合わなくなっただけだ、と思う。始めた頃は「雨くらいで釣行を取り止めるなんて、ほんとのフライフィッシャーじゃない」、とか、「2月の千曲の解禁では、ウェーディングシューズの底が岩に凍り付くなんて当たり前」なんて、えらく威勢のいい事を言っていたのだが、今ではかなりの割合でそういった状況を「見送る」様になった。厳しい状況に敢えて立ち向かう事で精神的、肉体的に消耗し、結果、この釣り自体が嫌いになってしまうのではないか、そんな消極的な危惧があった。釣行の回数自体も激減した。今週行かなければ、もしかしたら素晴らしい状況を逃してしまうのではないか、技術が落ちてしまうのではないか、そんな危機感から釣り場に向かった事も無くはなかった。これは疲れた。釣行が自分の内部で義務化した瞬間から、それは全く楽しくなくなった。特に、良い状況に巡り合えるのは、そういう形の釣行をしていても1シーズン通じて1回あるかないかだったのだ。いずれにしても幸運が必要なら、そうそう焦って使い果たす事もないよな、などどうそぶいて、本当に気が向いた時にだけ出掛ける様になっていった。段々肩の力が抜けて、それと共に再び楽しくもなっていった。随分と大上段に振りかぶってみたが、結局趣味なんだから自分が楽しい事だけを楽しくやりたい、というのが根底にあるのだろう。求道と言うのも悪くはないが、自分には向いていない様だった、というだけの事だ。
それは暫くするとやって来た。大きな岩二つに挟まれた落ち込みと、それに続く一本の流れが次の落ち込みまで緩やかに広がりながら段々流速を落としてゆく、という、一般的なポイントだ。でも朝一番からここまで、ポイント毎にきちんと期待し続け、きちんと一連の動作を繰り返してきた。今回も同じだ。ファルスキャストとラインの繰り出し、プレゼント。落ち込み直下にひたりと着水したフライが右の大岩に沿って流れ始めた刹那、水底に閃光が走り、次の瞬間水面がぐいっと盛り上がって割れ、翻る銀色にフライがひったくられた。反射的に立てられたロッドが水面からフライラインをはがし取り、輝く水煙の中に魚と右手とを結ぶタイトラインを作り出す。向こうはもう走り始めている。速い。右手は下流に向う魚をいなしながら、大きさを推し量ってみる。動きのサイクルが長い。大きい様だ。落ち着け。右に左に流れの中を走る魚を何とか制御すべく、めまぐるしく変わる状況とその判断に呼応した反射的反応が次々と繰り出される。勝敗の全てはこのタイトラインを維持する事に懸っている。魚の、恐らくは上顎の先端を捕らえているフックに力を与え続けるのだ。突然向きを変えて遠くに走る。ロッドが大きくしなり、手応えが増す。リーダーの一番細い先端がこの緊張に耐えられなくなる直前、左手の中のラインのわずかが解き放たれ、一瞬にして落とされたテンションが状況を安全圏内に引き戻す。この様子なら何とかなりそうだ。よし、あの浅瀬に少しづつ寄せていけば ・・・・・ぎゅんっと水を切る糸鳴りと共に更に一走り。飛ばれる、と思う間もなく、吹き上がる飛沫と共に魚体が高く飛翔した。やはり大きい!きっちりと獲るぞ。が、次の瞬間、ふわっとロッドが軽くなり、外れたフライが空中に漂った。魚は勝ち得た自由と共に水底へ帰り、やや置いて敗者はため息の後に再び渓を登り始める。
結局午後4時まで頑張ってみたが、釣果無し、坊主だ。思えばここ数回、魚を手にしていない。それでもいいか。来たくなったから来たのだし、これで降参してロッドを振りたくなくなれば、次に振りたくなるまで仕舞っておくだけの事だ。フライを切り離してボックスに収め、ラインをリーダーごとリールに巻き取り、ロッドを中間のジョイントで分けて右手にまとめて持ち、杣道を抜けて谷沿いの林道に出る。一日かかって釣り上った長さも、こうして歩いて下ってしまうと1時間ほどである場合が殆どだ。朝車を停めた、この林道では最後の集落の終りの広場に戻って来た。山村ではまだ「かまど」が健在で、そこここから青白い煙が上がって漂っている。急速に暗くなり始めた谷あいで家々に明かりが点る。どこの谷でもこういった風景を見ると帰りを急ぎたくなる。家で「あはは、また釣れなかったの?よせば、もう?」といつもの様に迎える妻の顔と、さっきの、恐らく数十秒間の戦いの記憶が徐々に差し替えられてゆく。まあ、いいじゃないか、職漁師じゃないんだし、あの雰囲気が好きなんだよ、空気も水もきれいでさ、というこちらもいつもの言い訳に、今日はほんのちょっとだけ彩りを添えるだろう敗北をどう織り込もうか、などと考えながら、濃くなってゆく夕闇の中に車を走らせ始めた。