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大球「手順」

日付が一時間ほど前にかわり、行きかう車も人もなく、すべてのものの輪郭があいまいになる時間、エンジンの各部が勝手な速さで元の大きさに戻っていくとぎれのない音を耳にしながら、山上(さんじょう)の男はバイクに跨ったまま手のひらの中の缶をあおった。先ほどからそこでそうしたままもう10分近くが経っている。なぜに動かないのか?動作と言えるものはその缶を時折口に運ぶことと中身を飲み下すことしかしていない。ほとんどじっとしたままだ。 どうしたのだ? ・・・・・・・・・ああ、なるほど、動けないのだ。男は目を閉じていた。

いつ、何のきっかけで知ったのかは忘れてしまった。誰かに聞いたのかもしれなかった。何かで見たのかもしれなかったし、偶然自分で見つけたのかもしれなかった。いずれにしてもそれは大した事じゃない。できる、ということ、試してみたら良かった、ということ、比較的(男にしては)長く続いているということが大事だった。それは、月に一回、頃合いを見て果たさなければならない儀式と化していた。ただちっとも嫌じゃないという所がいいのだが。道具立てはシンプルだ。よく手を入れられたバイクが一台と、いつものヘルメットにいつものレザースーツ、あとはお気に入りの薄手のグローブ、左の甲がかるく窪んだライディングブーツ。おっと、「日付」、こいつも入れとこう。

最後の滴が喉を滑りおりると軽く缶の胴体全周をへこませて、上と下に手のひらを合わせてひねりながら押しつぶす。くしゃん、という音と共に缶の胴体がきれいにたたみ込まれて蓋と底の間に収まった。厚めのコンパクトほどになったそれを胸元にいれる。まだ目は閉じたままだ。手探りでヘルメットを探し出し、ストラップを締める。傍らのグローブは難なく見つかり手にはめられた。スーツのジッパーを引き上げ、ゆっくりと目を開けてみる。よさそうだ。キーをひねってバイクを半分覚醒させる。かたりとキックスターターを引き出し、ほどよい圧縮を確かめ、やおら全体重をのせて踏み込む。ぱぱん、と乾いた音をたてて4サイクルSOHC単気筒が目覚める。アイドリングから最高出力まで、決して振動とは無縁でいられない、この上なくシンプルで魅力的な動力源。手元を見ずにブラインドでライトスイッチをポジションに入れる。ヘッドライトは点けない。メーター、テールランプ、ポジションランプに明りが入る、が、視野には入れない様に注意する。シュウェップス1本分前払いしたんだからな、とちらっと思う。クラッチレバーを握り、爪先をシフトペダルの下にもぐり込ませ、1アップ4ダウンに変えられたシフトパターンからローを選んでエンゲージさせる。そろりとクラッチレバーを放しながらスロットルを開け、手のひらに3000回転を感じたあたりできれいにミートさせる。

黒い山肌に淡く浮き上がる尾根筋のワインディング・ロードを、降り注ぐ月の光を頼みに男と愛車が駆けはじめた。

意外な事に、遮るもののない山の上で道路と山肌というのは月光だけでかなり充分なコントラストをなす。満月ならば闇に目を馴らせばその明りだけを頼りに走れるのだ。もちろん昼間と同じ様にはいかない。また視界に入る街の灯りやほかの車の灯りがないこと、月と道路の間に遮るもののない事など、満たさなければならない事はいくつかある。が、また、探せば結構見つかるものだし、ふと手に入る事もある。一旦見つかってしまえば、あとはカレンダーでも天気予報の月齢情報でも見て月光の具合がいい日を探せばいい。夜空が快晴なら言う事無しだ。夜中を待ってその道まで登り、目を闇に馴らす。頃合いを見て走り出す。簡単だ。絶対的に暗いけれども全てが照らされている。日の光のもとでは起き得ない様な不思議な見え方の中の一部となって走る・・・・・・・ちょっといいじゃないか?

迫ってくる右のヘアピンに備えてシートの上の尻を軽く置き直す。左右計4本の手足がそれぞれ踏んだ握った蹴上げたひねった放したといった仕事をきちんとした量とタイミングでこなし、軽いブレーキングとともにきれいに回転を合わせてギアが落とされる。ビッグシングルにお決まりのアフターバーン。ちょっともじもじとしたあと、ふぃっ、とバイクが倒れ込んでやや小さ目の旋回が始まる。フォークに直接縛り付けられた2本のハンドルバーの内、左手に委ねられている方を軽く引き気味に、後退したステップの上の左足をちょっと踏みつけて五感と相談しながら右手首をじわりと絞り込む、手の甲を向こうからこっちに返す感じか。ぱぱぱっ、という連続音が少し大きく速くなり、高まる速度と遠心力で外に向かってはらみながら自然にバイクが立ち上がってくるのに任せる。必死にまなじりつりあげて走るのは、今はどこかに置いておこう。8分の力で走らせるバイクは流れるような動きを見せるものだし、ものすごく楽しい。大体路面をにらみ付けても、月の光は充分にそれを見せてはくれない。続いて緩いS字。この道の大半の部分では、ライダーは仕事をし続けなければならない。ブレーキングはせず、スロットルをわずかに戻す事で重心を前に移し、カット・イン。パワーオンで後輪に駆動力と安定を与え、すぐさま引き起こし、抜重とクロスオーバー、再び軽くスロットルを戻すと、そう軽くはない車体がさまざまな力の助けを借りてひらりと返り、反対側に倒れ込む。

夜に走るのは特に好きでも嫌いでもない。ただヘッドライトを頼りの走行は、闇を払いながら進んでいく、もともと強い光がない所に持ち込まれた文明の傲慢、と言えなくもない。大体夜は獣たちに残された時間ではなかったか?夜目が利かず、聴覚、嗅覚もそこそこの人間は、知恵と工夫で夜をその活動範囲に仕立て上げようとした。が、それは夜を味方につけるのではなく、大半は擬似的にいかに昼間を持ち込むか、という形でなされたとおもう。状況に逆らうのだ。だから夜、人間が活動している場所の大半は明るい。「遠くに見える街の灯り」、つまり目立つ、不自然だという事なんじゃないか、などと考える。あかりを持ち込むという事は、結局本質的には闇に負けたという事なのだ。自分の物にできなかったから、排除したのだ。

長い直線に入った。ひじとひざを軽く締めてバイクを感じながら走る。5速4000回転、といったところか。相変わらず気持ちのいいスピードに収まっている。満月は中天をやや過ぎた辺りにいる筈だ。が、今は見られない。網膜に残った像が消えるまで止まっていなければならない。この気持ちの良い道の中間で止まるなどという無粋な事はしたくない。エンジンの機嫌もめずらしくいいじゃないか。回転計を見なければエンジンを感じられないマルチシリンダーとは違い、こいつはクランク一回転ごとにバイクを押し出すエンジンの仕事をきちんと実感できる。数時間乗れば手のひらはしびれて感覚がなくなり、タンクにおおいい被さるようなライディング・ポジションは決してライダーに優しくはない。ステップは高く持ち上げられて窮屈に足を曲げさせるし、取り替えられたシートのクッションに至っては、レザーの下はスポンジ一枚だ。つまり実用性の対極にあるのがこいつなのだ。移動以外何の役にも立たない。更に駄目押しのおまけに一人乗りときたもんだ。いやはや・・・・・・。大体週の大半の日々を、このバイクは何かしらを外された状態、あるいはほとんどばらばらになった状態で過ごす。なんとなく木曜金曜辺りから形になりはじめ、週末はきちんと走っている。こういった物を決して重くはない財布で養うのは、正直辛い時もある。放り出そうとした事はないけどな、と続いて思ったけれども。

直線が終わる。ちょっとだけ体から遊離しかけた意識を引き戻しきちんと働いてもらおう。それにしても何が楽しいのだろう?もう十年以上もバイクに乗り続け、カーブだって星の数ほど走り抜けてきた。ひやりとしたこともあるし、それだけでは済まなかった時もあった。速さが正義と信じて疑わなかった時もあった。思うに、普段暮らしている中では得られない、確実に危険を伴っている状況が楽しめる・・・・・これだったのではないかという気がする。深く傾けられたバイクと、体の横をかすめ飛んでいく路面、その危険な状況を自ら好んで作り出したのだという妙な自己満足、小さな範囲でではあるが、自然と人工の力の調和を司ってみるという身のほど知らずな思い込み・・・・・・・今ならバイクは神の乗り物たり得るかもしれないな、などと思い上がってみる。バイクの神様・・・・・ちょっとファンキーすぎるか。神様がレザーのライディングスーツで降臨、じゃあ、さまにならないだろうなぁ。

お気に入りのカーブがやってきた。こちら側から走っていくと奥できゅっと回り込む複合カーブだ。姿勢を正しちょっと構える。右一杯に車体を寄せ、ブレーキングとシフトダウン。入り口の見掛けからここだと思う所より気持ち奥まで真っ直ぐ立ったまま我慢する。やや突っ込み過ぎかと思える辺りまでブレーキを残し、縮んだフォークが立てたキャスターを逆手にとって鋭く左に切り込みざまにパワーオン。エイペックスを遥かに過ぎた辺りのクリッピング・ポイントが立ち上がりを直線的に作って、それでも左から右まで道幅一杯を遠慮なく使って加速する。シートの下のでかいキャブがいつもは苦手なパーシャルからフルへのトランジェントも、今日はうまく継がった。OK、いいじゃないか。

あと二つ、深いブラインドをまわると峠を越える国道にぶつかる。別の、三つ向こうの谷あいを高速道路が通った時、ずいぶんと交通量が減るんじゃないかと予想されたがそんな事はなかった。相変わらず長距離トラックやらなにやらでにぎやかだ。さすがにそこを灯りなしで走るわけにはいかない。終りが近い。最後の一つ、ヘッドライトに灯りを入れる前にぐいっと夜空を仰ぎ見る。今の目にはとても明るく、だけれどまっすぐに見合えるやさしさで輝く月が浮かんでいた。


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