ななえ の いらか

 
 平成18年11月11、12日に磐田市国府台にある国の特別史跡・国分寺において『第五回全国国分寺サミットin遠江』が開催されました。その開催を記念して作られた歌『七重の甍』は高橋一良が作詞、連続1000日ライブ達成で話題になった高橋忠史が曲を付けました。
 七重の塔がそびえていた遙か天平の時代、磐田を題材に万葉集に歌われている桜井王の歌に思いを馳せて・・・。



高橋忠史/Web.サイト




  
「遠江国分寺の歌」

七重の甍<ななえ の いらか> 

作詞
高橋一良   作曲 高橋忠史



Em  Bm    C   G
遠い昔より そよぎ来る風

Am      Em F#   B7
今かたわらに人々は生きている

Em          B
古代人(こだいびと)の祈り

C       G
悲しみを包みこみ

Am    Em    F# B7 Em
大の浦 この海へ 深く流せよ

C    G  Am B7
幻の七重の甍 夢遥か

C  D   Esus4  E
高く高く聳え立て 



未来永劫に惜しみない愛

今この星で戦人(いくさびと)達 血を流す

遠江(とおとうみ)の願い

(いつく)しみ拡がり

国分寺 この大地に 強く根付けよ

幻の七重の甍 磐田の夢 

高く高く聳え立つ



悠か(はるか)彼方から 降りそそぐ雨

今そこかしこ草花は咲いている

櫻井王(さくらいおう)の思い

気高き人の答え

万葉の歌 その歌を 永遠(とわ)に伝えよ

まほろばに七重の甍 いつの日にか 

高く高く蘇る

まほろばに七重の甍 磐田の夢

高く高く 高く高く 聳え立て





【国分寺】


 昭和26年の発掘調査により、七重の塔をはじめとする奈良東大寺様式の配置が確認され、翌年、国の特別史跡となりました。

 金堂を中心に、北側に講堂、南側に中門が配置され、金堂と中門は回廊で結ばれていました。伽藍の範囲は東西約180m、南北約250mにも及び、築地壁によって囲まれていました。壮大な国分寺の伽藍も、中世にはほとんど消滅してしまいました。

 その後、国分寺跡の一角に堂が建てられ、国分寺の名を受け継いだ小寺が興されました。寛政2年(1790年)の絵図には仮本堂や閻魔堂などが記載されています。

 現在は、春には梅や桜が美しい史跡公園となっていますが、塔の礎石が残っており、当時をしのばせています。


【国分寺建立の背景】


 奈良時代/685年、天武天皇の仏教国家確立を目指し「家ごとに仏像をおき、礼拝せよ」と国民に命じ、737年・聖武天皇による「国ごとに造佛、写経をせよ」の発願から、各国への国分寺建立の構想が固まったと言われる。それと同じくして「一国一之宮」として各国府に一之宮を建立した。

 736年から天然痘が北九州より発生し、全国へ蔓延し、都にも流行し、平城京の役人100人も発病した。

 そして、聖武天皇の親戚となる藤原不比等の子・4人が病魔に襲われ死亡した。

 更に、740年には、藤原広嗣が、大宰府より挙兵し、都に対して謀反を起こした。まさに、人心騒乱の時期であった。

 これらを鎮める為にも仏教の力を頼り、741年、聖武天皇の詔により、全国一斉に六十八ヶ所の国府に国分寺と国分尼寺を建立するよう発布された。

 多くの場合、国庁とともにその国の最大の建築物であった。大和国の東大寺、法華寺は総国分寺、総国分尼寺とされ、全国の国分寺、国分尼寺の総本山と位置づけられた。 正式名称は国分寺が金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)、国分尼寺が法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)である。

 遠江の国にも20年前後を費やし、国分寺が建立された。古代日本国家にとっての一大事業であった。




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