かつて戦場だった場所
TRAVEL17》


フィリピン 2017/12/30-2018/1/4






309.祖父


 海外に旅をするようになってから約15年。父親に2回か3回くらいだっただろうか? こんなことを言われたことがあった。
「じいさんの死んだ場所に行って線香でもあげてこい。」

 祖父は太平洋戦争で戦死した。
『昭和20年4月22日、比国ルソン島、マウンテン州バギオにて戦死』
 これが役所より届いた、公式な書類の内容だ。
 しかし、この書類が祖母のもとに届いたのは終戦後4年も経ってからのことだった。遺骨も帰っては来なかった。つまり、日付も場所も、何の信憑性もない公式記録なのだ。当時の状況を考えると、しかたのないことかもしれないが・・・。

 今回の旅でフィリピンへ行くことに決めてから、祖父のこと、祖父の所属していた部隊のこと、太平洋戦争のこと、オレはいろいろと調べてみることにした。やはり本当のことが知りたい。
 県庁、厚生労働省、防衛研究所へは調査を依頼し、書籍、ネット上の資料、記録映像など、様々なものを見た。
 その結果・・・。何もわからない。という事実だけがわかった。
 しかし、集めた資料を繋ぎ合わせ、ある程度の推測をすることはできる。最期の地については全くもって不明ではあるが、公式記録どおりバギオとして考えるしかない。すると祖父の足跡はこうなる。
 1994年9月8日 サンフェルナンドに上陸
 1994年9月14日 マニラの司令部に到着
 199?年?月?日 バギオへ移動
 1995年4月22日 バギオにて戦死
 少なくともサンフェルナンド、マニラ、バギオの3都市には滞在した可能性が高い。ビーチリゾートのサンフェルナンド、首都のマニラ、高原の避暑地バギオ。奇しくもこの3ヶ所は現在では観光地になっている。
 旅のルートもこれで決まった。

 戦死した祖父の慰霊の旅。
 本当は生きていて、腹違いの孫に偶然出会う。なんて奇跡が起こったら本でも出そうかな・・・。



310.ホームの中のアウェイ

 2003年。オレはマニラで飛行機を乗換えたことがあった。つまり、飛行機の窓越し、空港の窓越しではあるが、マニラの空港周辺の風景は見たことがあった。その景色はすべてが灰色だった。コンクリートの建物、道路のアスファルト。とにかく 『色のない街』。それがマニラの印象だった。
 そして、それがいかにも 『治安の悪い街』 という印象をオレに感じさせていた。
 今回この街に降りてみて、その正体をなんとなく感じることができた。

 空港から市内へとタクシーに乗った。タクシーはその色のないオフィス街を抜けると、今度はスラム街と呼べるような一帯にさしかかった。東南アジアの大都市郊外で、よく目にする都市型の貧困地域。まさにそんな地域だった。
 かつてオレが見たマニラは、この空港周辺の無機質なオフィス街と、そのすぐ横のスラム街の印象から来たものだったに違いない。
 まだ旅を始めたばかりの頃だった当時のオレにしては、的を得た感覚だったように思えた。いや、旅を始めたばかりの、まだ危険に敏感だった頃だから余計にそう感じたのかもしれない。

 そんな色のない、いかにも治安の悪そうなマニラは、空港の周辺だけだった。助かった。街全体がこれでは先が思いやられる。

 予約していたホテルにチェックイン。フィリピンを知っている何人かの友人に聞いてはいたが、フィリピンは宿が高い。このホテルにも期待はしていなかったが、やはりといった印象だった。
 一服してから街をぶらつく。

 ツーリストエリア、つまりホテルやレストラン、ショッピングセンターなどが集まるエリアは、マニラ湾の海岸沿いに南北に長く伸びている。距離はそこそこあるが、東西の横幅が狭いので歩きやすい。
 まずは海沿いの道まで出て、海岸沿いを北上した。デートするカップル、家族連れ、友人と歩く若者たち、ジョギングする人、スマホで写真を撮っている人・・・。日本と変わらない風景。日本と変わらない生活水準の人々。道は整備され、そこを走る車は新しく、建物も高く、キレイでモダン。
 フィリピンは東南アジアの中では発展しているという先入観があったが、まさにそのとおりだった。
 しかしその反面、やたらと物乞いが多い。発展しているからこそ貧富の差が生まれた、という構図なのだろう。久々に多くの物乞いを目にした。良く言われるこの言葉 「光が強いほど影も濃い」 まさにこの言葉通りの街・・・。
 インドは特別として、物乞いが多かった街といえば昔のバンコク、上海、プノンペンあたりだろうか。プノンペンは近年行っていないので分からないが、バンコク、上海の物乞いはほとんど姿を見なくなった。
 そう考えるとマニラは上海やバンコクよりは発展が遅れているのだろうか? フィリピンの物価はタイや中国沿岸部より、少しだけ高く感じるが・・・??

 などと考えながら歩いていると、2人で歩いていた女の娘に声をかけられた。2人ともポッチャリを通り越した体型。フィリピンは肥満が多い・・・。
 旅の経験がある程度になると、当然100%ではないが、話しかけてきた相手が何者かが予想できるようになる。旅行者を騙そうと近寄ってくる人間があまりに多く、それが経験値となっていく訳だが・・・。
 この2人は怪しい度50%。今のオレは感覚が鈍っていて、判断に自信がない・・・。
 オレがリーサル公園へ行くと言うと、同じ方向へ行くからと、2人のうちのまだ痩せている方がオレに着いてきた。話を聞いていると、ただの日本の音楽とアニメが好きな娘だった。
 年末年始で賑わう公園を一周して彼女と別れた後、年賀状用にポストカードを探して歩き、食事をしてホテルへ戻る。

 何かが違う。

 オレは今日一日、どこか違和感を感じていた。
 初めての国。初めての街。発展した都会とその影に生きる人。南国の解放感がなく、屋台もない街。東南アジアにしては珍しいキリスト教国。アメリカナイズされた街並み、文化。未だに残るクリスマスムード。無関心な都市型の人々。日本と変わらないショッピングセンター、コンビニ。
 いったい何に違和感を感じたのだろうか? あるいはそれら全てに?
 ホームであるはずの東南アジアなのに、どこかアウェイに来てしまったような感覚だった・・・。もしかしたらこの国は慣れるのに時間がかかるかもしれない。

   
年末で賑わうリーサル公園 / フィリピンはファストフードばかり



311.慰霊

 そう言えば昨日、空港から乗ったタクシーの運転手が気になることを言っていた。
「年末でバスがないかもしれないから、オレを呼んでくれればバギオまで行ってやる。」
 そう言って携帯の番号を教えてくれたのだった。
 オレはただの良くあるビジネストークだと思って真に受けていなかったが、今日の朝になって 「もしかしたら」、と思い始めた。

 今日はバスでバギオまで行く。朝はマニラを観光し、昼前にマニラを出て夕方バギオに着く。そんな予定でいた。バギオまでは5時間の道のりだ。
 しかし、朝になって昨日のタクシードライバーの言葉が気になりだし、朝からバスターミナルへ向かうことにした。
 バスがない訳がない! そうは思ったが、昨日から感じている違和感がオレを動かした。もしかしたらフィリピンの年末年始はバスも運休するかもしれない・・・。

 んな訳ないっしょ!! そんなことがある訳ないのだ!
 すんなりチケットをゲットし、運良く待ち時間も10分ほどでバスは走り出した。
 やっぱあの運ちゃん・・・。あんな言葉に騙されてバギオまでタクシーで行くヤツなんかいるのかね? などと、この時は思った。オレはあのドライバーの言葉の本当の意味を、まだ理解していなかったからだ。後日、その意味に気付くことになるのだが・・・。

 バスは快適そのもの。wifiまでついていて、トイレ休憩をしたドライブインにもコンビニがあり申し分ない。順調にぴったり5時間でバギオの街に入った。
 高原リゾートの避暑地バギオ。高台からバギオの街が一望できる道中の風景もなかなかだった。とにかくキレイな街だ。
 この街がオレの祖父が亡くなったとされている場所。かつて激戦が繰り広げられ、アメリカ、日本双方、多くの兵士が命を失った場所・・・。

 ホテルにチェックインし、オレは早速、日本人犠牲者の慰霊塔へ向かった。
 本当はその前に歴史博物館へ行きたかったのだが、閉まっていて残念だった。博物館のすぐ近くに慰霊塔は建っている。フェンスに囲まれ、夜は鍵がかけられているようだ。現地の人が管理人をしていて良く整備されていた。

 オレが入っていくと、それまでホウキで掃除をしていた管理人の老人は手を休め、ベンチに座ってこちらを見ていた。オレは日本から持ってきた線香を立てようとしたのだが、線香を立てるところがない。どうしようかと思い管理人に尋ねてみると、倉庫から線香立てを出してくれた。

 立ち上る細い煙を目で追いながら、73年前のできごとについて思いを巡らせた。戦場にいた祖父について、日本で待っていた祖母について、そして父について・・・。

 線香は半分も燃え落ちたころだっただろうか、オレは我に返り後ろを振り向く。ベンチでは老いた管理人がうたた寝をしていた。そしてその姿を見たオレは思う。
 これが平和なのだ、と・・・。

   
バギオ市内にある慰霊塔



312.バギオ

 バギオは居心地の良い街だった。緑にあふれた高原の避暑地。しかし、ただ単にそれだけの街でもあった。住むには良いのだろうが、旅行するには見どころも少ない。
 祖父の慰霊という目的も果たしてしまったオレが、これ以上この街にいる意味はなかった。
 だが、ホテルは2泊分を日本で予約してしまっている。時間のないリーマンパッカー、出発前に旅の予定を立てざるを得ない短期の旅。それが災いしたのだ。
 まっ、じいちゃんが 「もう少しゆっくりして行け」 とでも言っているのだと思うことにしよう。

 翌日、バギオの近郊で一番高い山、セントトーマス山へ登山をしに出かけた。のだが・・・。
 情報が少なく、登山口の正確な場所はネットで調べても分からない。タクシーかツーリストインフォメーションに聞けば知っているだろう。そう思っていたのだが、結局登山口の情報は得られず、しかたがなくタクシーで山頂まで行くことにした。この山は山頂まで車で行けるのだ。登山はあきらめ、ただ景色だけを見に行く。

 タクシーはバギオの郊外を目指し走っていった。街は盆地になっているため、郊外へ出る=丘を越えるということになり、丘の上からのバギオの街並みはキレイだった。
 それにしてもよくしゃべるドライバーだ。会話の中で、オレの祖父はバギオで戦死したのだという話をしてみた。するとドライバーは言う。
「私の叔父さんもこの街の戦争を体験した。日本人の兵隊に米や食料をすべて奪われ、苦しい思いをしたそうだ。」
 日本人のオレに対してそう言った後、すぐにこう続けた。
「こんな話をしてすまなかった。日本人を恨んでいる訳ではないよ。」
 このキレイな風景からは想像もつかないが、やはりここは戦場だったのだ・・・。

 30分も走るとセントトーマス山の山頂へとのびる車道へ入って行った。そしてしばらく登ると・・・。なんと旅行者は立ち入り禁止! ゲートがありガードマンがいて、そこから先へタクシーは行ってくれなかった・・・。植生保護のためだと看板に書いてある・・・。
 このまま帰るのもどうかと思ったが、かと言ってここでタクシーを降りたら、こんな山道で帰りのタクシーはつかまらない可能性が高い。少し考えたが、オレはここで降りて、この付近の村を散策してみることにした。最悪タクシーがつかまらなければ10kmくらい歩いて帰るさ。

 立ち入りできない車道を逸れ、未舗装の村の小道を歩いてみる。あわよくば山岳少数民族の村にでもたどり着くかな? とも考えていたが、そんなに甘くはなかった。ただの景色の良い、畑の多い山の村。
 何人かの村人に話しかけてみたが、どうやらこの村を進んでいけばセントトーマス山の山頂まで行けるらしい。せっかくなので行ってみることにした。

 老人に教えられた畑の中の道を登って良く。しばらくして次の村がでてきた。と思ったら、また元の車道に出てしまった。が、通行止めのゲートの上に出た。つまり立ち入り禁止の中へ入ることができたのだ。車道を登って良くオレ。
 視界が開けた場所が多く、山から見下ろすバギオの街並み、街とは反対側に見える海岸線、さらには北へ延々続く山岳地帯、どの方角も景色は良かった。が、いつも日本の山で見ている風景と大差ない。いや、むしろ・・・。

 そのうち、山頂まで行くのが面倒になってきた。登山道ならまだしも、車道を歩いているのだ。山頂からの景色もそれほど変わらないだろう・・・。と考えたとたんにモチベーションが無くなってしまった。いや、それ以上に・・・、タクシーもバスもない。帰るのに一苦労しそうだった。腹も減ってきた。食料も持ってきていないし、店もない。
 山頂まで30分ほど、という場所で引き返すことにした。

 ところで旅行者は進入禁止のゲートも、地元の人なら開けてくれて山頂まで行くことができる。実際、10分に1台くらいは車が走っていた。つまり・・・、ヒッチができる! というわけだ。
 あっけなく3台目でヒッチ成功! こんな場所だし、地元の人もよくやっているのだろう。ドライバーも慣れた感じで乗せてくれた。トラックの荷台ではあったが、とにかく楽ができて助かった。

 バギオの中心近くでトラックを降りたオレは、坂を上ってこの街最大のショッピングセンターへ向かった。ちょっと遅くなったが昼飯だ。このショッピングセンターを目指したのは、まともなレストランがあるという情報を見たからなのだが・・・。
 オレがまともなレストランを求めた理由は明白。なんと東南アジアの国にしては珍しく、フィリピンはメシが不味い! からに他ならない。

 ここまでフィリピンに来てから5回の食事をしたが、すべてハズレだった。唯一×ではなく△をつけられるものはフライドチキンとポテト。つまり地元の料理ではなかった。それでも△なのだ。
 旅の楽しみの一つ。食事がこれではマイってしまう・・・。

 オレの旅のポリシーである、『可能な限りは地元の料理を食べる』 をついに破る時が来た。日系のファミレスチェーン店で昼飯。
 長旅の中では何度も日本食を食べたが、リーマンパッカーとしてはこれが2回目・・・。しかも1回目は情報を得るためにしかたなくだったので、実質初・・・。これがフィリピン料理に対する、オレの評価。

   
バギオには丘が多い / バギオで一番大きな教会



313.サンファンビーチ

 バギオを離れ、オレはサンフェルナンドというビーチリゾートへ向かった。
 この街は祖父が所属していた部隊がフィリピンに上陸した地点だ。

 バスはまたしても快適、順調にオレを運んでくれた。サンフェルナンドの街の中心でバスを降り、ジプニーに乗り換えた。ジプニーとはフィリピン特有の乗り物で、米軍が使用していたジープを改造して乗合タクシーにしたものだ。つまりタイで言うところのソンテウ。そのジプニーで向かうのはサンフェルナンドの北にあるサンファンという地区。サーフポイントとして有名なビーチリゾートだ。

 宿に荷物を置き、早速ビーチへ向かった。宿はビーチの北端にあったため、宿の前のビーチには人が少なかった。それでも2軒のレストランが営業しているため、静かなビーチでのんびりしたい人には最高な場所だった。オレには静かすぎるので砂浜を南へ歩く。
 人が多いエリアではやはりサーファーが多く、地元サーファーや家族連れで賑わっていた。外国人観光客は数えるほどしかいない。やはりサーファー以外には知られていないビーチなのだ。
 ところが、人の数に対して明らかにレストランが少ない。特にビーチにパラソルを立てて、ビーチチェアに横になりながらのんびり食事、といった東南アジアスタイルのものは皆無。オレのお目当てでもあったのだが・・・。
 しかたがないのでコンビニで菓子とビールを買って砂浜でまったり。サーファーを眺めていた。

 ビーチで海を眺めている時のオレは、頭が空っぽになるか、深く考え事をするかの、両極端などちらかの状態になる。今回は前者になりたくてここへ来たが、後者だった。やはり祖父と戦争のことを考えていた。ビーチの遥か右手に見える港に、おそらく祖父を乗せた船は上陸した。

 残されたオレたちがすべきことは何なんだろう? 国や社会、世界に対してという意味ではなく、家族に対して、家族として。そんなことを考えていた。
 祖母が亡くなる前にもっと考えておきたかったと、今さらながら思ったが、当時のオレはまだ若すぎた。世間も世界も知らなかった。
 だいたいみんなこんなふうに、両親や祖父母が亡くなってから、遅かった・・・、と思うんだろうな。親にはそうならないようにしないと・・・。

 そんなことを考えているうちに陽が傾きはじめる。

 この日の夕日はすばらしかった。夕日に赤く染まる海で波に乗るサーファー。これまた絵になった。
 正直言うと、サンファンのビーチはイマイチだった。宿も、レストランも、海も・・・。だが、この夕日とサーファー。これだけでもここへ来た価値があった。そう思える時間だった。

   
サンファンは有名なサーフポイント / この日の夕日はすばらしかった



314.油断と経験値

 翌日、昼前までもう少しビーチを楽しんでからマニラへ向かう。そんな予定だった。
 しかしイマイチなビーチは夕日ですべて完結した。そんな気になってしまい、朝から移動することにした。が、この何気ない判断にオレは救われることになった・・・。

 宿を出て、村のメインストリートまで200mほどだろうか、通りに出るとすぐにジプニーがつかまり、30分もかからずにバスターミナルまでたどり着いた。ここでオレは初めて自分が置かれている状況を理解した・・・。
 バスターミナルは激混み。整理券をもらって待つしかない。チケットはバスが出る直前まで買うことができない。チケットを買うことすらできていない人が、整理券の番号から推測するに100人以上いる。ネットで席を予約している人もいるため、予想では100人がはけるのにバス5〜6台だろうか? バスは1時間に1本しかない・・・。つまり、5〜6時間待ち? 誰に尋ねても判らないという答えしか返ってこない・・・。

 しまった! フィリピンに来て初めて乗ったタクシーの運転手が言っていたことはこれだったのだ! オレは完全に油断していた。帰省ラッシュ!
 日本なら当たり前のように考慮する帰省ラッシュだが、オレの旅の辞書の中では 『東南アジアに帰省ラッシュはない』 となっている。正確に言うと、帰省ラッシュは存在するが、どの国でもこのタイミングではない。つまり、それぞれの民族、宗教のカレンダーにのっとった正月は、日本の、いや欧米の正月とは時期が違う。日本は文化より経済を優先し、欧米のカレンダーに合わせてしまった国だ。東南アジアの国々は、日本の年末年始の休暇期間は休みでもなんでもない。
 ところがだ! フィリピンはキリスト教国であり、かつてスペイン、アメリカに統治されていた。欧米と、日本と、カレンダーが一緒なのだ! 思いっきり帰省ラッシュが一番混雑する、休みの終わるタイミングのマニラへ帰る便!!

 今は朝の9時。5時間待ちでバスに乗れたとして、5時間かかるマニラまで渋滞も考慮すると、到着するのは12時間後か? すると夜の9時。しかし、5時間後にバスに乗れる保証は一切ない。完全にミスった・・・。
 そしてオレは考える。旅の経験値をここで発揮するのだ! と自らの過去の体験、知識、勘を総動員させる。選択肢は4つ。
 1 ここで待つ。
 大混乱だし、バス会社の対応は良くないので、状況がつかみにくい。特にチケット売り場の女性は、イラ立った客に逆ギレしている。できればこの場を離れたい気分だが、運が良ければ一番早い選択肢ではある。
 2 タクシーを探す。
 当然シェアする仲間を見つけるのが前提だが、金額はいくらかかるか解ったもんじゃないし、そんな遠方までは行ってくれないだろう。現実的ではない。
 3 近くの大きな町まで市バスで移動し、そこからマニラ行きの長距離バスに乗る。
 地図を見ると、途中の大きな町はダグパン。ここで待っている間にも、ダグパン行きの市バスは2台ほど通過していった。が、ダグパンのバスターミナルでも、今のこの状況と同じことになるのではないだろうか? それともダグパンからさらに市バスで次の街へ向かい、街から街を繋ぐのか?
 4 バギオへ戻る。
 マニラ、バギオ間はバスの本数も多い。事実、マニラでもバギオでもバスターミナルの時刻表は確認済みだ。移動距離は無駄に長くなり、当然運賃もその分高くなるが、一番無難かもしれない。

 しばらく迷っているうちに、バギオ行きのバスが通り過ぎた・・・。次に来たのはダグパン行き。決心がつかず、どちらもやり過ごしてしまった。
 と思いきや、バギオ行きのバスは30mほど先で路肩に止まり、客待ちをしているではないか。オレは走って行ってバスの運転手に尋ねた。
「マニラへ行きたいんだけど、ここで待つのとバギオへ行くのとどっちがベターなの?」
 運転手は乗れと言う。しかしそれは
「そんなことオレが知る訳ねーだろ、どうでもいいから早く乗れ!」
 というようにも感じてとれた。
 もう、思い切って乗るしかなかった。あとは運を天に任せるのみ。

 バギオのじいちゃんが、 「最期にもう一回くらい顔出してけよ。」 とでも言っているのだろうか? 結局オレは、なんとバギオまで戻ることになったのだった・・・。

 ひとつだけ空いていた席にオレが座ると、すぐにバスは動き出した。

 1時間も走ったころだっただろうか? オレは地図を見るために日本語のガイドブックを取り出した。すると隣に座っていた若い女の娘が話しかけてきた。
 ここまで気持ちにも余裕がなく、バタバタと乗り込んだので、あまり隣を気にしていなかった。若そうな女性という認識はしていたが、顔も見ていない。しかし、話しかけられて初めて顔を見たその彼女は、メチャクチャ可愛いではないか!
 日本語は話せなかったが、日本人の父を持つハーフだった。それでオレが日本語の本を持っていたので話しかけてきたという訳。
 話は弾んだ。バギオの大学に通う学生で、休みの間ビガンの実家に帰っていたそうだ。数年前に初めて日本へ行ったとも話していた。それにしても本当にカワイイ娘だった。

 以前にも何度か経験したことがある。良い出会いがあったのに、オレには時間がなかったことが・・・。今回もバギオで食事くらい誘いたかったが、オレはすぐにマニラ行きのバスターミナルへ走らなければならないのだ。どうもいろいろなことが上手くまわらない。これがオレとフィリピンとの相性なのだろう。
 それにしてもLINEくらい聞いとけば良かった・・・。

 バギオのバスターミナルも混んでいた。しかしチケットの窓口はスムーズで、列は長いが順調に流れた。30待ちでチケットを買うことができ、バスの出発は30分後。
 結果、サンフェルナンドからバギオまで2時間+チケット待ち30分+バス待ち30分。サンフェルナンドであのまま待っていたら、どう考えても3時間ではバスに乗れなかっただろう。明らかに正解だった! 今回ばかりは、さすがオレ! と言っても良いのでは?

   
サンフェルナンドでピンチを迎えた / フィリピンと言えばジプニー



315.旅の年齢

 バギオを時間どおりに発ったバスは順調に走っていった。あとの心配はマニラ近郊の渋滞のみだった。
 フィリピンの帰省ラッシュの様子はまったくもって解らない。2、3時間の遅れですめば良いと思っていたが、結果は3時間の遅れでマニラへ到着した。時刻は夜の9時。

 マニラのバスターミナルは街の郊外にある。遅れた分の時間、そして疲れた分の体力を考慮して、宿のある中心街までタクシーに乗ることにした。が、バスターミナル周辺の道路はタクシー待ちの人たちで溢れていた。しかたがないのでタクシーがつかまりそうな場所まで歩いたが、そこはもう市内を走る高架鉄道の駅の目の前。結局、鉄道と徒歩で宿まで来てしまった。チェックインしたのは10時過ぎ。

 今日1日はただの移動で終わってしまった・・・。

 最終日、フライトの時間までの半日でマニラ市内を観光。
 最初にフィリピンに来た時には、他の東南アジアの国と雰囲気が違うことに違和感を感じていたが、1週間でようやく慣れてきたこともあり、マニラにもアジアを感じることが多くなった。
 と思いながら歩いているうちに、今度は中南米の記憶がフラッシュバックするような風景に出くわした。
 マニラ市内では随一の観光地である、イントラムロスというエリアでのことだ。ここはスペインの統治時代に城郭都市が形成されていた場所で、城壁の中に教会をはじめとして多くのスペイン建築が残っている。
 建物はヨーロッパ。しかしそこを歩く人々は白人ではない、街路樹も南国のもの。ということでオレの頭の中では、スペイン本国よりも同じくスペインの植民地であった中南米の風景と重なった訳だ。

 中でも有名な教会を2ヶ所訪れた。どちらもすばらしい内装や装飾だったが、なにより良かったのは結婚式だった。運良く実際に結婚式を行っている場面に遭遇できたのだ。
 会場になっているフロアには入ることができなかったが、2階からその全体を見ることができたため、しばらく写真を撮りながら式を見ていた。感動的な雰囲気だった。日本のチャペルとはまるで別もの。すばらしいの一言だった。
 しかもこのサン・オウガスチン教会は世界遺産。実に羨ましい・・・。

 時間になり空港へ向かう。

 今回の旅は祖父の慰霊を目的としていたため、正直言ってしまうと 「楽しむことに関してはいつもの旅より半減してしまうのではないか?」 日本を発つ前からそのように覚悟をしていた。
 残念ながらそのとおりになってしまったことは否定できない。がしかし、オレにはもう一つの懸念が生まれた旅でもあった。

 フィリピンは初めて訪れる国だったが、初めての国へ行くというのは5年前の韓国以来のことだった。その時はたったの2泊3日で、しかも夜到着して最終日の昼に現地を発つという、実質1日半の旅行だったし、旅先も世界で一番日本と変わり映えしない国だった。そんなこともあって初めての国で何かを感じるということは皆無だったのだが・・・。
 今回のフィリピンでも、心が動かされるような瞬間が少なかったように思う。
 普通、初めての国であればどこであれ、少なからずどこか熱くなるものではないか?

 旅に慣れたからだろうか? それも少しはあるかもしれない。しかし、長く旅をしていた時の終盤に訪れた国、例えばバングラデッシュや台湾でもここまで何も感じないというほどではなかった。ということは・・・。

 年齢なのではないだろうか?

 旅をしていると、同じバックパッカー仲間とこんな話をすることが何度もあった。
「旅には適正年齢がある。若すぎても、歳をとりすぎても、旅から感じるものが少なくなってしまう。」
 オレもその意見には大賛成だったし、若いバックパッカーの旅を見ていて、 「ただ楽しんでいるだけじゃん。」 というように批判の目で見ていた時期もあった。

 オレは歳をとってしまったのだ。

 歳をとってしまった・・・。

   
重厚なデザインのマニラ大聖堂 / 世界遺産の教会で結婚式



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