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2003年7月にリプレースされた「勝草橋」ですが、普段は車で「ビーッ」と通り過ぎてしまい「綺麗になったナァ〜」程度にしか感じられませんでした。しかし先日子供達と歩いて渡ってみて、フト気が付いたことがあったのです。 高欄(こうらん)には勝草橋の詳しい解説があり、思わず読み耽(ふけ)てしまった次第。。 「これはみんなに読んで貰わないと勿体ない!」 そう思ったオイラは、この場を借りて紹介しようと思いました。 皆さんも是非、時間を見つけて歩きに行ってみませんか? 他にも身近な所に、ゴロゴロと"藤枝"が転がっているのかもしれないなぁ。。。 |
勝草橋周辺は東海道の渡河地点であり、江戸時代には川越しが行われた。明治時代になり明治三年(1870)五月には川越しが廃止され、以後瀬戸川では渡し船と仮橋の二つの方法によって通行が行われるようになった。その後地元の有志から本格的な橋の建設を求める請願が静岡県に出され、明治八年(1875)十一月二十六日に初代の勝草橋が誕生した。勝草橋は長さ五十二間、幅二間の木橋で、橋の中央には馬除け場が設けられていた。昭和になって交通の近代化が進むと、勝草橋も木橋から架け替え不要な鉄筋コンクリートの橋へと変わることになる。昭和七年(1932)七月三十一日に鉄筋コンクリートの新橋が竣工し、当時の新聞には「東海道の名橋 勝草橋の竣工 藤枝町の偉観」と紹介された。勝草橋は藤枝のシンボル的な存在とされ、橋上はお祭りや行事などの舞台となった。 |
明治八年(1875)十一月に初代の勝草橋が瀬戸川に架けられ開橋となった。勝草橋という名前は旧幕臣の伊佐新次郎岑満(いさしんじろうみねみつ)が付けたものといわれる。伊佐は江戸幕府の時代に下田奉行所支配組頭として外国との交渉に当たるなど活躍し、唐人お吉の物語にも登場している。彼は明治維新によって徳川家に従って駿府城入りし、廃藩後には牧ノ原の茶園開墾に尽くすとともに、書道・漢籍に深く通じていたため旧幕臣の子弟らの教育にも当たった。前島の博習舎(はくしゅうしゃ)、志太の為善館(いぜんかん)でも教鞭を取り志太地域の近代教育の進興に努力した。 |
江戸時代に勝草橋周辺は東海道の渡河地点だったが、瀬戸川には橋が架けられず川越しが行われた。瀬戸川の川越し制度が創始されたのは江戸時代貞享二年(1685)に川原町に初めて川庄屋が任命されたときといわれる。瀬戸川の川越しは瀬戸川の徒(かち)渡りといわれ知られていた。越すに越されぬ大井川に比べて、瀬戸川は川幅も狭く水深も浅いので、徒歩で渡河することが多かったためである。
瀬戸川に面した両岸の河原町、志太村、稲川村には川越し人足十五人が常置されていた。参勤交代などの大通行の時には川越し人足のほか、付近の村々から助郷人足を動員して川越しに当たった。川越しに掛かる料金は川越し賃銭と呼ばれ、川の水深によって膝水・股水・乳通水・脇水・首通水に分けられ賃銭が決められていた。膝水八文、股水十六文、乳通水三十二文、というように水位の高さに比例して川越し賃銭は高くなっていた。 |
勝草橋の志太側の袂から瀬戸川堤を百メートルほど下流へ行った場所は、田沼街道の終点であった。田沼街道は宝暦八年(1758)相良藩主になった田沼意次(おきつぐ)によってお国入りのために整備された道で、相良街道ともいった。城下町であった相良の湊橋(みなとばし)を起点として、相良・榛原・吉田の榛南地域を通り、大井川を小山の渡しで渡河して藤枝宿へ至る約七里(28km)の道であった。田沼意次は幕府老中として権勢を誇ったが、政権争いに敗れて天明六年(1786)に老中を罷免され失脚し翌年には相良城も取り壊された。田沼街道は大名の通行路としてだけでなく、海岸部と山間部を結ぶ物流の道としても盛んに利用された。吉永や静浜で作られた塩を藤枝方面へ運ぶため行商人が往還したといい、田沼街道の内瀬戸谷川の橋は江戸時代には塩取(しおとり)橋といわれ、塩売り承認から税を納めさせた場所であった。江戸時代の田沼街道は近代の道路拡幅や区画整理などによって現在その面影をとどめていない。
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