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<< マンキ と ミヤサ の"藤枝だるま と 小泉八雲!?" >> |
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| = 藤枝だるまの歴史 = 藤枝市内本町(旧長楽寺)の藤枝だるまの創業は江戸時代天保年間(1830〜40年代)ころと推定されており、創業170年、製作者五代にわたる老舗である。 初代・七五郎、二代・利吉の時には江戸時代の一文人形の系譜を引き継いだ土人形・土ダルマ・練人形を製作していたが、張子技法を習得した三代目・作太郎の代になって土ダルマの型を張子に作り出し、張子だるまの製造に乗り出した。 これは作太郎が家業を継いだ明治30年前後であった。 この藤枝だるまは明治30年代以降には浜当目虚空蔵尊(焼津市)のだるま市、清水寺のだるま市など・志太地区および県内のだるま市に販路を広げて確固たる地位を築いた。 四代目の代には張子だるまの製造に一本化し、「耳付き」だるまや「かぼちゃ」だるまなど藤枝だるま独自の型も作りだしている。 その後、四代目の半ぱ頃から大量生産に応じるため成形品を仕入れて完成させる手法が、次第に張り込みの手作業製造に取って代わるようになった。 五代目秀明氏は昭和52年に家業を継ぎ、カラーだるまの創作など現代の二一ズに見合う作品を作るとともに、伝統的な手作業の藤枝だるまづくりを今に継承している。 = 小泉八雲と『乙吉の達磨』 = 三代目・作太郎が張子だるまを作り始めた明治30年以降、当時志太地区唯一のだるま作者だったこともあり、藤枝だ るまは販路をのばし有名な虚空蔵尊のだるま市や清水寺のだるま市で売られた。 焼津の魚屋である山口乙吉は出回り始めた藤枝だるまを恐らく虚空蔵尊のだるま市で、明治31年に買ったと考えられている。 そのだるまがたまたま乙吉の家に滞在していた文豪・小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の目に留まることになり、八雲はだるまに願掛けして目入れをする日本の風習を知ることになった。 八雲のこの時の体験は小説『乙吉の達磨』のなかに書かれることになった。 八雲に愛された藤枝だるまは両びん(髪)が8の字に描かれていることが特徴で、これはだるまの「七転び八起き」の縁起に通じるものであるが、以後八雲にちなんで「八雲だるま」とか「乙吉だるま」とか呼ぱれ知られている。<藤枝市主催:藤枝の親子だるまを作ろう!/配付資料より抜粋> |
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