通り過ぎる季節に


 突然暗くなった夏の空は、轟音と閃光を気紛れに撒き散らしながら激しい雨を降らせ始めた。季節の風物詩とはいえ、軒に干しっ放しの洗濯物を取り込んだり、風通しのために開けておいた戸を閉めたりする人たちは恨めしげに空を見上げる。悲鳴とも怒号ともつかぬ声が、轟く雷にも負けず辺りに響いていた。
 予想外の雨に雨具を持たぬ者たちは、通りを足早に駆けていく。白く薄煙る雨の中に一際目立つ朱髪の主もその一人だった。
 城下町から上田城へは距離がある。今更走っても、すでに濡れ鼠のような出で立ちは変わらないだろう。そう思って、鎌之介は急く足を少し緩めた。
 叩きつけるような雨はどこか生温い。むわっと地面から舞い上がるような夏の熱気と、空から落ちる雨の冷たい湿気が混じり合うからだろう。清らな川の流れや熱い風呂とは違い、中途半端な温さは心地が悪い。
 熱いか冷たいか、どっちかにしろってんだ!
 やり場のない悪態をつきながら、鎌之介は城門をくぐった。
 雷は三度ほど鳴っただけで、止んでいる。視界を白く遮るほどの勢いだった夕立にも隙間が見え、雨足が弱まったのが分かる。もうじき、何事もなかったかのように上がるだろう。気紛れな、夏の雨。
 白い上着に泥水を撥ねさせながら、鎌之介は屋敷へと向かった。顔や背中を滝のように流れていく雨の感触が気持ち悪い。早くこの状態を何とかしたかった。
 隙間なく閉じられている引き戸に、がたりと手をかける。湿気も相俟って滑らかに開かぬ戸に苦戦しつつも、人一人通れるほどの隙間を作って身を滑り込ませた。閉め切られて日差しも届かぬ三和土は薄暗く、目が慣れない。
 立ち止まって目をしばたたかせていると、廊下の奥から誰かの足音が聞こえた。
「うわっ!お前、ずぶ濡れじゃねぇか」
「……なんだ、才蔵かよ。何してんだ?」
暗さに慣れてきた目を声のする方に向けると、ぼんやりと薄闇に浮かび上がるのは見慣れた忍びの姿。と、その手に山積みされた手ぬぐいの束に気付いた。
「六郎さんに言われて、あちこち戸を閉めたり、濡れたとこ拭いたりしてんだよ」
「へぇー。そりゃご苦労なこって」
 突然の雨に大慌てしていたのは――当然ながら――城下町だけではない。上田城でも女中たちだけでは手が回らず、西の離れでは勇士たちも総出で事に当たっていたらしい。
 好き勝手に出歩いていた鎌之介は、他の勇士たちの苦労には興味もなく適当に返事をした。そんなことより、一際水分を含んだ髪が重たいし、身体にはりつく服も不快で。さっさと屋敷に上がろうと、鎌之介は片側に一まとめにした髪を一度絞って、靴を脱ぎ捨てると上り框に足をかけた。
「待て!そのまま上がるな。せっかく拭いた廊下が濡れる」
 すぐさま飛んできた強い抑止の声に顔を顰める。片足をかけたままの姿勢で、鎌之介は黒髪の男を睨みあげた。
「んじゃ、どーしろってんだよ」
「拭け」
 簡単な二文字の言葉と共に、ぐいっと手ぬぐいを渡された。
 六郎に言いつかった作業の途中だった才蔵は、鎌之介を放って濡れた廊下を拭き始める。縁側の戸の隙間から、雨水が染み込んでいるのだ。このままにしておけば、遠からず廊下の板が腐ってしまう。
「……」
 鎌之介はおとなしく渡された手ぬぐいで髪を拭き始める。屋敷へ上がるのなら濡れ物は少ない方がいいだろうと思い、泥水の撥ねた上着を脱ぐ。三和土に放り出すついでに、水桶につけたような濡れ手袋も外して一緒に投げた。
 首にかけた手ぬぐいは水を吸って、じんわりと重くなっている。髪だけでもかなり濡れていたようだ。
 手早に顔や腕も拭いていくが、薄手の手ぬぐい一枚では到底拭き切れず、雫はポタポタと零れる。鎌之介は、絞れるほどに濡れそぼった手ぬぐいを持て余して顔を上げた。
 雨は、小雨になったのだろうか。屋根や戸を叩く雨音が小さくなった気がする。
「……」
 才蔵、と呼びかけようとして、鎌之介は口を噤んだ。
 雨戸の前にしゃがみ込んでいる才蔵は、手ぬぐいを戸の隙間に埋め込んでいた。建付けが悪いのか、雨が降りこんでくるらしい。どこか必死なその顔に、鎌之介の口許に苦笑が零れた。
 戦いの時の冷酷で真剣な表情とは少し違うが、ただの雨相手にもそんな顔をするのだと……知った。目の前の対象をまっすぐに見るその黒藍色。闇の中でも輝くその瞳。焦がれたその色がこちらを向いていないのは癪だが、どうせこんな雨の中では存分に滾ることもできやしない―――その瞳を己に向けさせることはできない。
 だから今は、その瞳を、横顔をもう少し見ていたい……そう思ったところで、「へっくし!」と間抜けなくしゃみが鎌之介の口から飛び出た。
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