★初春の空

 天中から少し傾いた太陽が、青空にぽっかりと浮かんでいる。その図だけを切り取って見ればのどかな光景なのかもしれないが実際は――著しく冷え込んだまま気温の上がらぬ真冬の昼下がりだった。
『昼過ぎならば、もう空いてるだろう』という主の根拠のない言葉のせいで、才蔵は神社の参道に来ている……はず。というのも、押し合いへし合いの人混みに流され、足元すら見えない今、自分がどこにいるのか覚束ないのだ。大混雑に前すらも見えていないであろう小柄な少女を左脇に庇うので精一杯だった。
「おっと」
人波に押されてよろめく少女の髪から簪が滑り落ち、才蔵は宙で受け止める。奇魂とは別のもの、花を模した艶やかな簪は正月の着物に合わせた桜色。何本もの簪で結い上げられた髪束に適当に挿し直してやると、少女はお礼を言って笑った。
「すっごい人出だねぇー、才蔵」
「……帰りてぇ……」
 げんなりしている才蔵の口から零れ出た本音を、少女――伊佐那海はけらけらと無邪気に笑い飛ばした。辟易するほどの人混みにもどこか楽しそうに目を輝かせて、伊佐那海は才蔵を下から覗き込む。
「だめだよ、ちゃんとお参りしないと!」
初詣で――という名の元日の行事。神社へ出向き新年の無病息災などを祈る行事。知ってはいるものの……何故これほど人が多いのか。
「あっ!幸村さまたち、もうあんなに前の方にいるよー!」
 人垣が偶然割れたところから、見慣れた長身を目聡く見つけ、伊佐那海は手を振る。こちらに背中を向けている相手が気付くはずもなかろうに。
 出かける際は一団となって神社へ赴いたのだが、芋の子を洗うようなこの混雑の中で団体行動するなど、どだい無理な話で。自然と散り散りになってしまった。自分たちの後ろにも誰かしらいるのだろうと気軽に振り向けば、一際大柄な男と目が合ってしまった。
「げ」
「才蔵!そこにおったか!伊佐那海から離れよ!!」
「お兄ちゃん!?」
 憤怒の形相で無理矢理人混みを掻き分けてくる清海に、才蔵は苦い顔をするしかない。何しろ逃げ場などないのだから。
 大柄な僧侶に割り込まれ、周りから上がった小さな不満の声。既に近くに到達した僧侶を見上げながら、その妹は慌てたように注意をする。
「お兄ちゃん!人を押し退けちゃだめでしょう!」
「ぬ……!し、しかし、この人混みを利用して、こやつが伊佐那海に何をするか分からん!」
正月早々、一体誰に何をどうするというのか。
喧々諤々と言い合う兄妹に口も挟めず、才蔵は一層げんなりとした気分で視線を遠くへ向ける。伊佐那海の守はもう役目ご免ということにして、一人でさっさと抜け出そうかと思った時――
「才蔵っ!そこかっ!」
 更にげんなりする声が聞こえてきて、才蔵はめでたい元日だからと我慢していた溜め息をとうとう吐いた。
 清海が掻き分けた後を追うように、赤毛の主が姿を見せる。人波に揉まれたのか、出掛けにきちんと着付けられていたはずの着物は随分とだらしなく着崩れている。
『着物でないと初詣でには行けない』と真顔で言い放った幸村の言を信じた鎌之介は、淡い紫色の着物を着せられていた。例によって動きづらいの何のと文句ばかり言っていたが、黙ってさえいればそれなりに映えるというのに。その薄紫色の袖を捲り上げながら近付いた戦闘狂は、喜色満面の笑みで言う。
「やろうぜ、才蔵!」
「お前な……」
 元日早々それかよ。というか、あらぬ誤解にざわめいたこの空気をどうしてくれる。
 ぱかん!と小気味いい音を立てて、その空っぽの頭を叩いてやった。
「おっ!なんだ、やる気満々かよ」
「ねぇよ。元日くらい大人しくできねぇのか」
「元日くらい大人しく相手しろよ」
「あのなぁ、今何しに来てるか分かってんのか?初詣でだぞ?は・つ・も・う・で!」
それがどうした?という顔で首を傾げるバカ。
「神様の前でケンカするバカがどこにいるんだ」
 目の前にいるような気がするけど。
「そんなんどうでもいいから、やろうぜ!」
「人の話を聞けよ!」
 やっぱり目の前にいた。
「なんだよ、じゃあ神様のいないとこならいいのか?どこだよ」
「どこって……あー……裏、とか?神社の」
 斜め上からの理屈に今度は才蔵が首を傾げながら答える。後ろなら見えないかも、という単純な思考に我ながら呆れるが、鎌之介はいたくお気に召したようで。
「神社の裏か!わかった!先に行ってんぞ!」
「え?あ、おい!誰も相手するとは……」
言ってない。
成り行きで返した答えに飛びついた鎌之介は、颯爽と人波を押し分け参道から消えた。恐らく才蔵の言葉も聞こえていないだろう。
「……」
「行っちゃったね、鎌之介。どうするの?」
「どうするって……。どうしようもねぇだろ」
こちらはしばらく動けない。先程から散々周りを押し退けたためか、向けられる視線が冷たい気がする。
これは大人しく参拝するしかない。

ふいに鼻先を掠めた冷たい風に、鎌之介は目を覚ました。
「あ……れ?」
むくりと上体を起こせば、顔やら髪やらに付いていた枯葉がかさりとひび割れた音を立てて落ちる。名前も知らぬ大木の根元に、鎌之介は寝転がっていた。
神社の裏手――。才蔵との約束(と思っている)のために、足を運んだそこは表の喧騒は遠く、人の姿はない。だが、祭殿の中からは話し声や足音も聞こえて耳障りなため、鎌之介の足は自然と更に裏手へと向かった。大きな池の脇に、物置らしき小さな小屋がひとつ立っている。その更に奥にはあちこちに小さな積雪を残す森が広がっていた。きっとそのまま山へと続くのだろうが、あまり奥に行ったら才蔵が見つけられないかもしれない。すぐ手前の森の中、日当たりのいい一箇所に座り込んだことまでは覚えているが――
(寝ちまう、なんて)
 才蔵は呆れて帰ってしまっただろうかと気付き、慌てて立ち上がりあたりを見回す。幸か不幸か黒髪の男は見当たらないが、とうに帰った後かもしれないと思えば何の意味もなかった。
 くしゅん!と小さなくしゃみをひとつして、鎌之介は空を見上げた。冬の空は移り変わりが早い。西に傾き始めている陽の日に、一刻以上経ってしまっていることを告げられ顔を顰める。
「さすがに……遅ぇ、よな?」
 これはやはり才蔵は帰ってしまったのだろうか。だとしたら、いくら待っていても仕方ないが、まだ来ていないのだとしたら今動けばすれ違ってしまうかもしれない。才蔵は恐らくクソ女に付き合って真面目に参拝するつもりだろう。あの混雑ぶりでは参拝できるまでどのくらい時間がかかるのか、皆目見当がつかない。
才蔵はもう来たのか、まだ来ていないのか……どうにも判別がつかず、とりあえず表の様子を見ようと鎌之介は神社の方へと足を向けた。
 小屋の近くに差し掛かったところで、人の話し声に足を止める。
 気配を窺うまでもなく姿を現したのは商人らしい二人の男だった。上機嫌な笑い声が辺りに響く。それと、一目で酔っているのが分かるほどの赤ら顔と酒の匂い。神社で振舞われるお神酒を意地汚く何杯も飲んだのだろう。酔って裏手に迷い込んだのか二人の男は鎌之介に気付く素振りもなく千鳥足で小屋の陰まで来ると、ごそごそと己の袴を探って草むらに立小便をし始めた。
 待ち人でなかったこともあって、鎌之介の口からチッと舌打ちが零れる。さっさとその後ろを通り過ぎようとして、ふいに左腕を掴まれた。
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