★02

  こくりと小さな音を立て、少女の喉が鳴った。傾けられたティーカップから赤橙色は滑り落ち、かすかに湯気を残すのみ。二杯目の紅茶を飲み干し、幸せそうに息を吐いた主に執事は言う。――話題を、すり替えるかのように。
「それよりも、姫。途中になっていたラテン語の勉強に戻りましょう」
 有能な執事は空になったカップに三杯目を注ぐこともなく、白く細い手からそっと陶磁器を取り上げた。
 そもそも、定められた休憩時間にはまだ早いのだ。勉強中に侍女が手紙を持ってきたため、姫の興味はそちらへと移ってしまい、なし崩し的に休憩としてしまった。その証拠に、厚い辞書や原語の本、書きかけのノートなどがテーブルの隅に追いやられている。

「う……苦手なのよね、これ」
 駄々をこねることはしないがせめてもの反抗に眉根を寄せた少女は、渋々といった感じでノートへ手を伸ばした。その横で、そ知らぬ顔でティーカップをワゴンへと下げてしまった執事を恨みがましく横目で見遣る。
 無言の非難が込められた視線に、ライズは苦笑しながら言った。
「乗馬やフェンシングと同じように、勉学にも積極的に取り組んでいただけるといいのですが」
「だって退屈なんだもの」
 座学よりも、身体を動かすことの好きな姫は不満げに答えた。
 ライズは昔の話をしてくれないし、息抜きの紅茶はさっさと下げられ、苦手な座学の再開……少女の機嫌は直滑降気味に下がるばかりだった。
 ノートを手元に引き寄せたものの、紙の端を弄うばかりで気乗りしない様子の姫に、根負けした執事はつい甘やかしてしまう。

「では、ご褒美を先にあげましょう」
「!なぁに?」
 エメラルドの瞳が期待に輝く。長身の執事を見上げた顔に手を触れると、ライズは静かに己の顔を寄せた。桜色の唇に小さくキスを落とす。
「!」
 予想外だったのだろう。一瞬ビクリと少女の身体が強張るが、すぐに力が抜ける。
 重なった唇は、ゆっくり静かに離れていった。

「……余計、勉強できないじゃない」
 桜色の唇から非難めいた言葉が零れる――が、赤くなった頬と恥らうように伏せられた視線は、決して嫌ではないことを吐露している。だから執事は、表情一つ変えずに言い放った。
「おや、そうですか。それはいけませんね。では、ご褒美は返してもらいましょう」
「えっ、返すって……ちょ、ライズ!」
 もう一度唇が重なる。今度は触れるだけでなく、やさしく啄ばむようなキスに、姫はうっとりと身を任せた。

 ライズの口付けは――好きだ。
この唇に初めて触れたのは、むせ返るようなバラの香りの中。心無い言葉に傷つけられた身をあたたかい湯船に浸しながら、己の心弱さも、強がりも、何もかも受け止めてくれるライズに……瞳を閉じた。頬に伸びるやさしい指と、ゆっくりと降りてくる甘い唇を覚えている。最初は子どものままごとのように、触れるだけだったその口付けは、数を重ねるごとに深くなっていった――。
「ん……ふ……ぁ」
 ぺろりと唇を撫でる舌に誘われるように、姫は薄く唇を開いた。

 ――コンコン。
 無粋なノック音に、二人は我に返る。重い樫の木の扉を叩くその音。
「あ……」
 入室の許可を待つ沈黙の間は僅かで、再び扉が叩かれた。姫が上気したままの顔に手をやり、返事に窮する。
 執事は無言で扉へと近付くと、内側から細く開けた。
「あっ!ライズ様」
「何用です?姫は今、勉強中なのですが」
 廊下に立っていたのはお仕着せのメイド服を着た一人の侍女。確か最近、屋敷にあがったばかりの者だった。名は、ハコベとか言ったか。
「あ、あの!旦那様が姫様をお呼びですので……」
「分かりました。すぐに参りますので、そうお伝えしてください」
「は、はいっ!」
 小柄な侍女はパッと身を翻して小走りに駈けていく。その無作法さにライズは眉を顰めたが、新米侍女の教育は自分の仕事ではない。侍女頭にあとで具申しておこうと心に留めておいた。

 室内を振り向くと、話し声が聞こえていたのか、姫はテーブルからドレッサーへと場所を移動していた。苦手な勉学から解放されるのなら、父の呼び出しですら嬉しいのだろう。つけていたカチューシャを外して、朱い髪を梳かしている。
「姫。私の仕事を奪わないでください」
 ライズは苦笑しながら猪毛のブラシを取り上げる。姫はそれには答えずに、引き出しから出した髪飾りをライズに見せて言った。
「久しぶりに、これをつけていくわ!」
姫の手には、古びたバラの髪飾りがひとつ。見覚えのあるそれは、ライズが幼少期の姫へ贈った物だった。この屋敷で執事になったばかりの頃、毎日のように泣いている姫を何とか笑顔にしたくて買ったものだ。思わぬ贈り物に喜んだ姫は、それ以来、宝物のようにとても大切にしてくれている。……だが、十年も前の品であり、今ではとうにデザインも流行遅れ。当時は鮮やかだった色も褪せ、細かな装飾は傷んでいる。そのため、姫がこの髪飾りをつけると言うたびに、執事は毎回同じことを言う。
「もう少し、きれいなものにしてはどうですか?」
 そう進言すれば、幼い姫は『イヤ』『これがいいの』と我を張って、最後には執事が折れるのが常だった。そのやりとりも満更ではないと思っていたが、今日の姫の答えはいつもと違っていた。
「汚れても、傷んでも、大切なものってあるでしょ」
 そう言って姫は、愛しそうにバラの飾りを撫でた。

 幼い頃の姫は、他の貴族の大人にも子どもにも、赤い髪と顔の刺青を馬鹿にされて、よく泣いていた。面と向かって悪口を吐く子どもには、言い返したり、時には手も出したりしていたが、その日の夜は決まってベッドで声を押し殺して泣く。
 厄介なのは子どもよりもむしろ大人たちの方だった。老獪な彼らは、他人の傷つけ方を知っている。社交界での噂話、父である伯爵への侮辱、無邪気な子どもたちへの言い含め……間接的な手段を使って、決して己は矢面に立たないように振舞うのだ。それでは怒りを向ける先もなく、それがまた悔しくて姫は泣く。

『こんな色の髪、要らない!』
 そう叫んでハサミを手にした少女を執事は止めた。
『せっかくの御髪を切ってしまっては、これが無駄になってしまいます』
『……?』
 目の前に差し出されたバラの髪飾りを見て、幼い姫は束の間、泣くことを忘れた。
『姫の髪は、バラ色です。緑の刺青は、バラの蔓。貴女は、一輪のバラなのですよ』
ずっと周囲に否定され続けてきた姫は、その時初めて違う涙を零した。悲しく冷たい涙ではなく、嬉しくてあたたかい涙を。

「……ライズがあの時、そう言ってくれたから。私、それからバラが好きになったのよ」
 髪飾りを撫でながら、大人になった姫は言う。
「私も、バラが好きですよ」
 ―――貴女という至上のバラが。
 花のような髪に、蔓のような刺青に、ライズは小さくキスをした。
 その様を鏡で見ていた姫の頬は赤く染まる。そんな自分を隠すかのように、執事の胸元へ顔を伏せた。
「大好きよ、ライズ」
 くぐもった声に応えるように、優しい腕が姫を包み込んだ。
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