★06

 季節柄降り続いた雨は昨夜から音を弱め、明け方には庭先の緑に雫を残すばかりとなった。どんよりと湿った空気と、落ちてきそうな薄暗い曇天は姫の心を映し出したかのようで、窓から空を見上げた少女はひとつ溜め息をついた。
 いつもの起床時間よりも二時間ほど早い朝。早起きしたというより、眠れなかったという方が正しいだろう。
 父から縁談の話を聞いてから早三日。今日は昼からその相手との顔合わせをセッティングされてしまっている。あれから何度も父と話そうとした姫だが、むなしく時間ばかりが過ぎてしまった。食品関係の会社を領内外にいくつか持っている伯爵は、まるで姫のことを避けるかのように仕事に没頭し、ここ数日はほとんど屋敷へ帰ってこなかったのだ。姫の言い分などに耳を傾けないその態度に、失望と怒りを感じるのも無理はない。何もかもが当事者である姫を置き去りに進んでしまっている。
 でも、そうそう父様の思い通りにはいかないんだから……!
 顔を引き締めた姫は足元に置いてあった鞄を持ち上げると、窓からポンと放り出す。雨に湿った芝生は、それなりに重い鞄の音を消してくれた。
 続けて窓枠に足をかけると、身軽に庭へと飛び降りる。ここの窓は普段使わない部屋にあり、門番からも死角になる位置で、屋敷を抜け出すには都合がいい。子どもの頃から何度か使った脱出口だ。それでも、開けた窓は元通りにしておかなければすぐに脱走がバレてしまう。窓を閉めようと屋敷の方を振り返った姫は――顔をしかめた。
「お出かけですか、姫?」
 いつの間にいたのか、窓のすぐ脇に執事の姿があった。柔らかい笑みを浮かべてはいるが、いつもより硬い表情で姫を見つめている。
「……どうしてここにいるの」
「姫のやりそうなことなどお見通しです……遠乗りでもするおつもりでしたか」
「……」
 姫は不機嫌そうに目線を逸らせた。無言のまま、顔の片側でひとまとめにした髪を指先で弄う。確かに乗馬用のズボンにブーツ、手袋を身につけた姿を見れば遠乗りにでも行くように見えるだろう。けれど、付き合いの長いこの執事が、遠乗りには無用の大きな鞄を見逃すはずがない。姫の真意を分かっていながら――言っているのだ。その狡猾さは、真っ直ぐな気性の姫には腹立たしいばかりで。
「何よ。父様に言いつけるつもり?」
 唇を尖らせる少女の赤い髪に、古びたバラの髪飾りがあるのを見つけ、ライズは少し目許を緩める。しかし、その表情はどこか悲しげだった。
 姫が出奔するつもりでいるのは、分かっていた。しかし、それを認めるわけにはいかない――執事として。だから、敢えてライズは言う。
「遠乗りするにしても、大荷物ですね」
「ちょっとくらい、困ればいいんだわ!父様も。縁談がお流れになったら帰ってくるから、適当に言っといて」
 不機嫌な姫は、朝露に湿った鞄を持ち上げる。だが、その手を上から執事の手が押さえた。
「いけませんよ。他国の王族相手に礼を失しては、伯爵がどのようなお咎めを受けるか」
「お咎めなんてないわよ。娘の失礼な行動にせいぜい恥をかく程度でしょう。それでこの話がなくなれば万々歳じゃないの」
「いいえ。そう簡単な話ではありません。むしろ、恥をかかされたと思うのは東国王家の方でしょう。姫が家出した程度で、この縁談が流れるとは思えません。逆に責を感じた伯爵が強引な手段に出る可能性も……」
「ライズもお父様の味方をするのっ?……離して!」
 自分の意志を押し通そうとする頑迷さは、さすが親子と言うべきか。だが、それが今すれ違いの原因になってしまっている。家出などという強引な手段に訴えれば、激怒した伯爵も強引な手に訴えるだろうに。感情的になっている今の姫には、その点を理屈で説明しても無理だろう。
 執事の手を振りほどこうともがく少女に、ライズは溜め息混じりに言った。
「姫。その荷物を置いていくなら、お供します。けれど、どうしても持っていくと言うのなら……離すわけにはいきません」
 執事か荷物か、どちらか選べ――。
「……そんなの……っ!」
選択肢の意味を悟った姫は、動きを止めた。
 どうしても出て行く、荷物を選ぶと言えば、金輪際この執事は姫の味方になってくれないということだろう。
 卑怯だ――どちらを選ぶかなど、分かりきっているのに。
「そんなの、ずるいじゃない……」
「申し訳ありません、姫」
「……」
 姫の抗議にライズは目を伏せて詫びた。出会った頃から何度も繰り返された情景に、姫は言葉を失う。姫の我が侭がどうしても通らない時、執事はいつもこの悲しげな表情で詫びるのだ。腹立たしい思いはあるけれども、大好きな執事にそんな顔をさせているのが辛くなる。
「……仕方ないわね」
 悔しげに呟く姫の手から、鞄がポスンと芝生の上へ落ちた。
「遠乗りはやめて、散策にするわ」
「では――お供いたします」
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