★07

 屋敷の裏手にある厩舎から、一頭の白馬が優美な姿を朝日に晒す。「アマハル」という名のこの馬は、姫の十五歳の誕生日に西国王家から贈られたものだった。以来、姫の愛馬となって久しいが、肝心の主人は一度もまともに名前を呼ばず、勝手に「ニョロ」と呼んでいる。それでもきちんと反応してくれるあたり、賢い馬なのだと思われる。
 裏門の番兵に挨拶しながら開門してもらい、ライズと姫は白馬を引いて屋敷の外へと出た。裏手にあたるこちら側はあまり整備されておらず、でこぼこの土道や藪の目立つ林などが広がっている。だが、切り払われて人工的な雰囲気を醸す表門よりも、自然の残る裏道の方が姫は好きだった。しばし、愛馬を率いたまま屋敷の塀に沿って歩く。雨に濡れた緑の匂いが色濃く漂う。
「ニョロ。ライズを乗せてあげて」
 賢い馬は、主人の言葉に耳をピクリと震わせてから、その場に止まる。
「姫」
「いいじゃない。昔はよく一緒に乗ったでしょ」
 子どもの頃ならまだしも、大人になってから執事と主人が二人乗りとはあまり外聞のいい話ではない。執事の嗜める口調も意に介さず、姫は手綱を差し出した。先程姫に無体な二択を強いた執事は、頑なにはねつけるわけにもいかず、渋々白馬の鐙(あぶみ)に足をかける。背に跨ったところで少女に 片手を差し出せば、ふわりと細い肢体が執事の前に座った。
「屋敷の周りを一周、ですよ?」
「いいわよ。でもゆっくりね」
 ライズが軽く馬の腹を蹴ると、二人を乗せた白馬はのそりと動き出した。
荷物を持っての出奔のはずが、屋敷周りの散策へと大幅に簡略化されてしまった。しかし短い時間でも、姫はライズと二人きりの時間を嬉しく思う。薔薇色の髪に縁取られた顔には隠しようのない喜びが溢れていた。定期的に揺れる心地よいリズムに身を委ねながら、執事の胸にもたれるように顔を寄せる。馬上の二人を知ってか知らずか、白馬は歩みを変えずに進んでいく。
 他愛のない時間。けれど、何ものにも替え難い、緩やかな刻。
 こういう些細な幸せでいいの。王族に嫁ぐとか、王妃になるとか、そんなのいらない。贅沢したいわけでもない。
 ライズと一緒にいたい。姫の望むものは今までも、これからも、ただそれだけだった。
 それだけ、なのに……。
 思いもしなかった自身の婚姻話は、姫のささやかな日常を揺るがした。そして同時に、ライズもいつか他の誰かと結婚してしまうのだろうか、という不安を心に芽生えさせた。その悲しみと焦燥感に、白い両手がぎゅっと執事の服を握り込む。
「?姫?」
「……」
 黙りこんだ主を不審に思ったのか、ライズが頭上から問いかける。
「ライズは……」
「はい?」
「ライズは、ずっと、私の傍にいてくれる?」
 不安に震える声は、か細かったが、きちんと執事の耳に届く。けれど――
「……えぇ。私は、ずっと、姫のお傍におります」
 二人の『傍にいる』の意味はすれ違う。愛する者同士として、傍にいてくれるのか。ただの主人と従者として、傍にいるのか。
 曖昧なままに流した言葉は、痛む心に蓋をするため。押し寄せる不安を取り除いて欲しかったから。言葉の意味がすれ違っているとは知らずに、望み通りの返答を聞いた姫は顔を上げて微笑んだ。
「良かった」
 愛しい人が傍にいてくれる。これほど心強いことはない。
 ――家出なんかしなくても、ハッキリ言えばいいだけだわ。相手の王子にも、父にも。結婚なんてしないって。自分はこのままでも幸せなんだって。
 そう決めると、姫の心は軽くなった。うつむきがちの顔を上げて、背筋を伸ばす。いつもより視線の高い馬上から周りを見渡せば、いつもと違う景色が見えた。
 雨と緑の匂いに混じって漂ってくる華やかな香りに気付き、道端へと視線を向ける。すると赤、ピンク、白など色鮮やかな花が目に飛び込んできた。
「もう、バラの咲く季節なのね。……いい香り!」
 屋敷の庭にも姫の好きな花は植えられている。が、ここ数日の雨降りで外に出られなかったため開花に気付かなかったらしく、姫は少し悔しく思う。――縁談騒動でそれどころでなかったというのもあるが。胸いっぱいに芳香を吸い込む姫を見て、執事は一番花がたくさん咲いている道端へ馬を寄せて止まった。小休止と察したアマハルは、足元の草へと長い首を巡らせた。
「二、三本、摘みましょうか?」
「うーん……」
 執事の問いに少し考え、姫は答えた。
「後でいいわ。でも、たくさん部屋に飾ってちょうだい!両手に抱えきれないほどの!ね、ライズ?」
 野生のバラは香りを揃えるように剪定されておらず、ただただ強い芳香を放つ。自分はここにいると叫ぶように。あらん限りの力で咲いているとアピールするように。上品な貴族なら手入れされていないバラの香に顔をしかめるかもしれないが、それは命を感じさせる力強い香りで、姫は好きだった。
「戸外ではともかく、室内にあまりたくさん入れると、香りが強過ぎますよ」
「平気よ。バラの香りは好きだもの!」
「そうですね。強い香りが部屋に充満すれば、姫の朝寝坊も治るかもしれません」
「あ、ひどーい!」
 執事の軽口に姫は馬上で笑い転げた。

 ひとしきり散策を楽しんだ後、姫たちは裏門から屋敷へと戻った。馬を下りた姫はアマハルの手綱を握り、馬小屋へと引いていく。執事が引き手をすると申し出たのだが、「ニョロは私の馬だもの」と姫は譲らなかった。アマハルの真っ白な首筋を叩いて労いながら、姫は隣を歩くライズを見上げた。
「ねぇ。ライズは、どう思った?私の縁談の話」
 すでに話を断るつもりの姫は無邪気に聞く。やきもちやいてくれたかしら?と気軽な気持ちで。だが、執事の口から返ってきた言葉は、姫の予想を裏切るものだった。
「……いいお話だと思います。姫が幸せになってくだされば、私も執事として嬉しい限りです」
「……え……?」
 唐突に、目の前が真っ暗になるような感覚。するりと手綱が姫の手から落ちた。
 今、彼は何と言った?数瞬前の言葉を頭の中で反芻する。
 ライズは私のことをその程度に思っていたのか?愛されていると思っていたのは、ひとりよがりな思い込みだったのか?
「幸せって……!あなたと結ばれないことが、私の幸せだなんて……本当に思っているの!?」
「半蔵様は、非の打ち所のないお方ですから、きっと姫を幸せにしてくれると……」
「どこかの王子なんて関係ない!私はライズと一緒に幸せになりたいと言ってるの!」
「私はただの執事です。旦那さまが何と言うかくらい、姫にも分かるでしょう?」
 身分違い――頭の固い父の言いそうなことくらい、分かっている。
「説得するわ。できないのなら、父も家も全て捨てて構わない。――私を連れ出して、ライズ」
「貴女を攫って逃げたところで、苦労させてしまうのは分かりきっています」
「苦労なんて!ライズがいれば、それでいいの!」
「現実は、そう甘くはありませんよ」
 身体ひとつで逃げたところでどうなるというのか。食べ物も住む所もなければ、人は生きて行けない。
 姫の落とした手綱を拾い上げ、執事は代わりに馬を引いていく。その背を追って、姫は言う。
「そんなの……私だって、働くし!」
「伯爵家で生きてきたあなたに、針仕事や水汲み仕事をさせるなどできません」
 かかるであろう追っ手から逃げ続けるのも時間の問題。領土の狭い西国。すぐに居場所は割れるだろう。隣国の東国へ逃げても、当事者の半蔵がいるから無意味。
 水面下で敵対している南国では、どのような扱いを受けるか分からない。滅んだ北国では暮らしていくことすらできない。
 どこへも行けない、籠の鳥。
「イヤよ、そんなの!」
「姫」
 背中にしがみついた。足を止めたライズが振り返る。その腕をつかんで、姫はライズの顔を見上げた。
「………キスして、ライズ」
 いつもみたいに。私を連れ去って。どこでもいいから。
「いけません、姫。……夢物語は、おしまいです」
「意気地なし!」
「姫は勘違いしているだけなのですよ。私の分不相応な想いに、応えてくださっただけです。今ならまだ、引き返せますから」
「そんな……!」
 ふるふると首が横に振られる。
「あなたの、ためです」
 呪文のように言い聞かせるライズの顔は、泣き出しそうに歪んでいた。
 そう、これはただの夢物語。ほんの一時の。起きれば覚めていくような幻の刻。
 少女はいつか大人になる。少女時代に憧れた夢物語を忘れていく。本当の幸せを掴むために。
「雨が、降りそうですね」
 暗い雲が立ち込める空を見上げてそう言った。
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