★08

 二本の時計の針が、頂上を示す時刻。朝には上がってたはずの雨が再び降り出した。
 小雨に霞む街の中を広い街道が東西に一本走っている。東の端は西国王宮に繋がるこの道を途中で北に折れた横道――奥まった場所にその館はあった。二階建ての建物はこじんまりとしているが、上質な建材と一流の意匠は庶民が気軽に立ち寄れる場所でないことを示している。館の周りに配置された緑はよく手入れされ、一見、貴族の館かと錯覚するが、敷地の隅にある小さな看板がそうでないことを主張していた。
 隠れ家風の高級料理店――カケイの経営する店のひとつであるここは、王宮の貴人たちも利用する格式ある店だ。伯爵の屋敷からも程近く、本日は看板の隣に『貸切』の札もかけられていた。

 ゆったりとしたアプローチに二台の馬車が到着した。先頭の馬車は館正面を過ぎて止まり、背後の馬車が正面に横付ける。板ばねのサスペンションがついた後続のキャリッジは華美な装飾も施され、一目で最高級のもの――王族クラスが使用するものと分かる。先頭の馬車から降りた小柄な若者が小走りに駆け寄るが、中の人物は扉が開けられるのを待たずに自ら降り立った。赤い長髪を振り払いながら、館を見上げ、小さく口の中で呟く。
「……ま、悪くないデスね」
 従者らしい若者は小雨から主人を守ろうと傘を広げるが、長身の主人の頭上に掲げることができずにもたつく。馬車から降りた別の従者が代わりに傘を受け取る頃には、すでに別の傘が主人に差し掛けられていた。
「お待ちしておりました。半蔵様」
「……」
 ちらり、と枯れた藁色の瞳が傘を持つ男に向けられた。長い黒髪を後ろに束ねた男は、柔和な顔を半蔵に向けている。お仕着せの燕尾服を着ているところを見ると、恐らく伯爵の執事だろうと半蔵は見当をつけた。
 ――ただの使用人ならば、会話を交わす必要もない。
 東国第一王子半蔵は、無言のまま館へと歩み寄った。半歩後ろから、執事が傘を掲げたままついてくる気配がする。執事として完璧な振る舞い、無駄のない動きに、何故か不快感を覚えたが、敢えて意識からその存在を消した。

 白い屋根を構えるファサードには、濃い緑色の正面扉が口を開けている。そこへ続く階段脇には、料理店のスタッフに加え、伯爵邸の執事や侍女、使用人たちが並んでいた。そして、階段の一番下中央に伯爵らしき男の姿が見える。半蔵はそちらへ向かいながら朧げな記憶を叩き起こす。何しろ顔を合わせたのは夜会での一度きりなのだから仕方がない。近付くにつれて、雨霞に煙っていた相手の顔もハッキリしてくる。その頬に特徴的な大きな傷跡を認めると、ようやくカケイ伯爵だと認識した。
 伯爵はお手本のようにきれいなお辞儀をすると、半蔵に話しかけた。
「足元の悪い中、お運びいただきありがとうございます。本来ならば、こちらから東国へご挨拶に出向くところを……」
「あぁ、構いませんよ。西国には妹もお世話になっていますからね。ついでのような形になってしまい、こちらこそ申し訳ありません」
 忙しい東国の第一王子は、西国王宮に寄った足でこちらに赴いたのである。丁寧な物言いをしてはいるが、相手の挨拶も途中で遮る横柄さに、ライズは不要になった傘を畳みながら内心で不快に思う。東国王族特有の性質か、個人のものかは測りかねるが、自由奔放に見える西国王家のユキムラでさえ、このような失礼な態度はとらないというのに。
「いえ、ついでなどと――。まずは中でお寛ぎください」


 
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