★14

「あっ」
 濡れたドレスがまとわりつく。もつれた足は裾のレースを引き裂き、支えきれなかった身体は呆気なく転んだ。高価なはずのドレスは、雨と泥に汚れて無残なまだら模様を描いている。姫は重い布の束を脱ぎ捨てたい衝動に駆られながら、それでもどうにか教会の敷地内に転がり込み、すぐ脇にある茂みに身を隠した。はぁはぁと息が上がる。雨を含んで深い緑色になったドレスは、目くらましくらいにはなるだろうか。だが、赤い靴だけが、暗い景色の中で異様に目立つ。
「ほら、やっぱり走りにくいじゃない」
 小さく呟いて、姫はヒールの高い靴を脱いだ。履き慣れない靴は、ほんの少し走っただけでも踵に擦傷を作っていたらしい。破れたストッキングの奥、削がれた皮膚から血が滲み出している。それは小さな傷だったが、半蔵を拒む小さな抵抗のようにも思えて姫は傷口を愛しく撫でた。

 そう。この靴は……違う、違うのよ!こんな靴では、私――走れない!
 泣き笑いのような表情で顔を歪めた姫は、腹立ち紛れに赤い靴を投げ捨てた。水溜りをはね、転がっていく靴は、教会の扉にぶつかって動きを止めた。
「ライズ……ッ!」
 思わず口をつくのは、呼ぶのは、その名前。
 一緒にいると、傍にいると言ったその存在を。
 振り仰いだ先に執事の姿はなく、姫は辺りを見回す。雨で煙った白い景色に、黒尽くめの姿を見つけようと目を眇めるが。
「ライ、ズ……?」
 一緒に逃げてきたと思ったのに、その気配がないことに青ざめる。敵を追い払うにしても、追いつけないほど遠くに来たわけではないのに。
 まさか、敵に――?
 姫の胸に、暗い想像が去来した。
「ライズッ……!」
「どうしたの!?」
「何事!?」
 よろりと立ち上がった姫の元へ、一組の男女が声を掛ける。扉を叩いた靴の音を訝しく思い、教会から出てきた二人だった。
 血の気を失った顔、汚れたドレスにほつれた髪……姫の惨状に一瞬息を呑んだようだが、二人は降りしきる雨にも構わず姫に駆け寄った。

「ライズが、ライズが……馬車に……!」
 上手く喋れなかったが、必死の様子に二人は危急の事態を悟ったようで、頷きあう。姫よりもいくつか年下の少女が姫を教会の中へ誘った。
「こっち!」
「駄目!ライズが……私、行かなくちゃ!」
「大丈夫だから!……お兄ちゃん、お願い」
「任せとけ!」
 少女に兄と呼ばれた巨漢の男は、どこからか棍棒を持ち出すと、教会の外へ走っていく。その背中を思わず追おうとして、姫は少女に手を引かれた。
「大丈夫。お兄ちゃんは強いから。さ、あなたはこっち」
 にこりと笑った少女の笑顔に、揺るぎない信頼があることに気圧されて、姫は手を引かれるまま教会の中へと足を踏み入れた。裸足の足裏にほんのりあたたかい木の感触を覚え、足元を見れば、色の違う木板が敷き詰められている。補修をしたからなのだろう。古びて飴色になった木板もあれば、新品のようにきれいな板もある。

『汚れても、傷んでも、大切なものってあるでしょ――』

 大切な場所、なのだろう。そう気付くと、何故か木の感触が心地良くて、姫は張り詰めていた息を小さく吐いた。
 外に続く扉を閉めれば、雨音は少し遠ざかる。屋根を叩く雨音だけが姫と少女のほかに誰もいない教会に響いていた。
「ちょっと、待っててね」
 そう言って、一旦奥に消えた少女はたくさんのタオルを持ってすぐに戻ってきた。清潔に洗濯されたそれを姫に渡して髪を拭くよう言うと、少女は姫の濡れたドレスを絞り始める。だが、大量の布は絞りにくいらしく、早々に諦めた少女は立ち上がった。
「着替えちゃった方が早いよね。う〜ん、でも、あたしの服じゃ小さいかなぁ」
 かと言って、お兄ちゃんのじゃ大き過ぎるし。ぶつぶつ呟く少女に、姫は意を決して話しかける。
「あの……どうして、助けてくれるの?」
「どうしてって……困ってる人がいたら、助けるのは普通だし。あ、あたしイサナミっていうの」
 姫の顔を覗きこむようにして笑った少女の髪で、緑色の髪飾りが煌いた。エメラルドだろうか。質素な教会にはあまり似合わない高価な石を姫は少し不思議に思うが、ゆっくり見る間もないまま少女は姫の後ろに回ってしまう。背中に当てられるタオルの感触と共に、少女――イサナミの人懐こい言葉が続けられた。

「ね、ね、カケイさんのとこの姫様でしょ?初めましてだねー」
「え、どうして私のこと……」
「知ってるよ。その髪と刺青を見れば分かるもの」
 悪意は感じられなかったが何気なく言われた言葉に、姫は少し落ち込んだ。貴族ですらない市井の少女も知っているのか、この赤毛と刺青のことを。
「あ、変な意味じゃないから!だって、ほら、仲間だし」
「仲間?」
「うん。お兄ちゃんは……あ、さっきの人のことね、セイカイっていうんだけど。お兄ちゃんはカケイさんと同じ、ユキムラ様の密偵なんだよー。だから仲間だよ」
「密偵?」
 何のことだろう?首をかしげた姫が問う前に、教会の扉が音を立てて開いた。
「イサナミ、戻ったぞ!」 
 
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