★15 「お兄ちゃん!早いじゃない」 驚きの声を上げながらも、イサナミはタオルを持って兄に駆け寄る。その巨漢の影から、黒尽くめの執事が姿を現した。 「姫。お待たせしました」 「……ライズ!無事だったのね!」 焦がれた執事の無事な姿に、姫の憂いは一瞬で消え去った。その首筋に抱きつけば、受け止めながらも困惑した顔が返ってくる。 「姫、いけませんよ。淑女が人前で……」 「うるさい!それより怪我はない?」 すぐさま降ってくる小言を強引に封じ、ライズの身体を見回した。雨にずぶ濡れになってはいるものの、目立つ傷などは見当たらず姫は安堵の息を吐く。 「拙僧が到着した頃には、すでに終わっておった」 威勢よく出て行ったものの何の役にも立たなかったと、セイカイは照れくさそうに頭を掻きながら言葉を添えた。 黒衣の敵はライズがすでに殲滅したあとだった。セイカイがしたのは、道端で震えていた御者を助け起こし無事を確認したことと、脱輪していた馬車を道へ戻したことくらいである。馬はひどく興奮していたが、幸いこちらにも何の被害もなく、馬車が動くのならと御者に屋敷への連絡を頼み後を任せてきたのだった。 「姫。屋敷から着替えを持ってこさせております。ご不快でしょうがもうしばらくお待ち下さい」 ほつれた赤毛を手櫛で梳かしながら執事は言うが、姫は小さく首を振った。 「いいえ。帰りましょう、ライズ。ここからなら、そんなに遠くないでしょう?」 「しかし……」 屋敷まで歩いて帰れる距離だろうと姫は主張する。着替えを待つよりも早く熱い風呂に入りたかった。 切迫した状況だったから気付かなかったが、何度か来たことのある教会であることを姫はおぼろげながら思い出していた。確か幼い頃に、父に連れられて。異彩を放つ兄妹には覚えがなかったけれども。 「着替えないと、風邪ひいちゃうよ?」 イサナミが心配そうに姫の顔を覗き込むが、姫は再び首を振る。 その頑固な様子に、ひとりでも歩いて帰るだろうと察したライズは諦めた。貸してもらったタオルをひとまとめにすると、兄妹に辞去の礼を述べる。 「姫を保護していただき、ありがとうございます。また改めて御礼に参ります」 「えっ。大したことしてないし、お礼とかはいいけど……」 「ありがとう」 まだどこか心配そうな兄妹たちを振り切るように、二人は教会の扉を開ける。見上げた空は暗いままだったが、幸い雨は小降りになったようだ。伯爵家へ向かい、街道を歩き出す。 「ねぇ、ライズ。あの男たちは何だったのかしら?」 「高級な馬車を狙った物盗りでしょう。屋敷から人を呼んでいますから、その内調べがつくと思いますよ」 「ふぅん。馬車には大したものを積んでないのにね」 「警備が厳重な屋敷よりは狙いやすい、ということでしょう」 教会が遠くになった頃、再び雨足が増した。教会に戻ろうかとふと振り返るが、雨煙に紛れた建物はぼんやりと景色に滲むばかりで躊躇する。ちょうど人家も途切れた道端で、先へ向かうか戻るか迷うところだ。 足を止めた姫の肩に、横から黒い上着が掛けられた。 「申し訳ありません。傘の用意がなく……」 少しでも姫を雨から守ろうとでもいうように、長身の影が覆い被さるように姫の肩を抱く。だが、ライズの白いシャツは見る間に濡れていき、薄着になったことも相俟って寒そうに見えた。 「どこかで傘を調達してまいります」 「そんなのいい。それより、これじゃあなたが濡れるわ、ライズ」 羽織らされた黒い上着を姫は返そうとするが、ライズは押し止めた。 「私のことはお気になさらず」 「だめ。……じゃあ、少し雨宿りをしていきましょう」 上着を受け取ろうとしない執事に焦れるが、押し問答をしていても二人とも濡れていくばかりだと悟った姫は妥協案を提示する。きょろきょろと辺りを見渡せば、少し先の空き地に大木が見えた。小走りにその木陰に入れば、葉の茂る季節なのも手伝って雨音は遠ざかる。ライズの上着を絞って突き出すが、「雨が止むまでは」とまたしてもやさしく戻された。 ――しばらく止みそうもないことが分かっているくせに。 姫は無言のまま傍らの執事に抱きついた。 「姫?寒いのですか?」 「それはあなたでしょ。見てる方が寒いのよ」 「私は大丈夫ですから……」 「雨が止むまでよ!」 先程の執事の言葉をそのまま返してやれば、諦めたような溜め息が降ってくる。それでも肩に回された手のほのかな温もりは心地良い。 「馬車でも通りかかればいいのですが」 「いいじゃない。ちょっとした休憩だとでも思えば」 私はあなたが傍にいてくれればいい。馬車も傘もなくていい。何もなくても、雨に打たれても、ドレスが泥だらけでも。 ライズと離れることがどれだけ怖く、心細いことなのか。ライズを喪うかもしれないと思った先程の恐怖を思えば。それ以外の何を失っても、怖くない。 微かな温もりを逃すまいとするように、しがみつく姫の指先に力が籠もった。 「姫は休憩がお好きですからね。特に勉強時間の休憩は」 呆れたような執事の軽口に、姫は顔を上げて抗議する。 「何よー。雨宿りは、悪いことじゃないでしょう?」 傘は自然と闘う武器、雨宿りは自然との共生。そんな気がしない?と姫は笑った。 「闘ってばかりじゃ、疲れるじゃない」 「だから休憩、ですか」 「雨に濡れるのも好きなんだけどね」 ライズから身体を離し、姫は木陰の外へと出る。雨はまた小降りになり、西の空は赤味を帯びつつあった。空を見上げれば、顔にいくつもの雨粒が落ちてきて、シャワーに打たれたような心地良さを味わう。空の恵みは人間の小さなしがらみを押し流して自由にしてくれる。その解放感を全身で享受するように、姫は雨の中、くるりと身体を躍らせた。濡れたドレスは翻らないけれど、くだらない夜会で踊るよりも気持ちがいい。足にまとわりつくドレスを蹴飛ばしながら、姫はくるくると躍った。 「風邪を引きます」 真顔で心配する執事が、姫の手をとり動きを止めた。白く煙る霧雨の中、上がる息だけが熱を孕み、色づいていた。生命の色。自分が人形ではないと思い知るその熱に、姫は小さく微笑んだ。 指先に触れるライズの熱も握りしめて、共に生きていることを実感する。私たちは、誰かの操り人形でもない、所有物でもない。自分の足で立って、生きている! 「……自分の方が、薄着のくせに」 いつだって、私のことを一番に想ってくれて。わがままも強がりも、全部受け止めてくれて。いつだって傍にいてくれた。哀しい時も楽しい時も、寄り添ってくれた。 そんな貴方だから……大好きになった!今更引き返せない! 「私は大丈夫だと言ったでしょう?」 落ち着いたライズの声に姫は笑い、その首筋に抱きついた。 「言うと思った!……痛!」 足の裏に軽い痛みを覚え、姫はドレスをたくしあげる。剥き出しの左足が小石を踏み、血を滲ませていた。 「姫!裸足だったのですか?……靴は?」 「あんなの、要らない!」 教会で投げ捨てた赤い靴の行方など知らない。姫には用のないものだ。傷ついてもいいから、自分の足で立って歩いて行きたいのだ。 拗ねたように横を向く姫にひとつ溜め息をつくと、ライズはその細い身体を横抱きに抱き上げる。 「雨も小降りになってきましたから、行きましょう」 「……うん」 ライズはそのまま歩き出す。自分で歩く、と言う機会を失したのは、その腕の中がとても心地良かったから。 ――もう離せなくなっているのだ、この腕を。このあたたかい腕を。 あなたがつかんでくれないのなら、私がつかまえておくわ。絶対に、離さないんだから。 「ねぇ、ライズ。虹が出るといいわね!」 |
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