★16

 毛足の長い絨毯の上で跪く影がひとつあった。西日に照らされた長い影は、薄暗い部屋の隅まで届いている。顔を上げないまま口を動かすその姿は、影絵の人形のようだった。
「しくじりました」
「役立たずが」
 影の短い報告に間髪入れずに返って来た答えは、低く冷酷な男の声。部屋の中央に腰掛けているもうひとつの影が発したものだった。ゆったりとした椅子の上で、長い足を組んでいる男は右手に持ったグラスをゆらりと揺らした。西日を溶かし込んだような赤い液体がグラスの中で漣を打つ。それは夕焼けの赤と夜闇の黒が入り混じる逢魔が時の時のごとく、深く禍々しい色だった。

 男は無言のまま、影に続きを促すように顎をしゃくる。傲慢なその態度は、人を使うことに慣れた者の仕草だった。
 跪いたまま上目遣いにその様子を見て取った影は、ごくり、とひとつ喉を鳴らしてから報告を続ける。
「あの執事、意外と手強くて……。近くの教会の坊主が加勢に来たのも誤算でした」
「言い訳は要らねぇんデスよ」
「も、申し訳ありません!」
 不興を隠そうともしない男の声に、影は絨毯に額をこすりつけるように平伏した。その身体が小刻みに震えているのを見ると、男の細い眼が一層不快げに眇められる。恐怖を味わわせるのは好みだが、卑屈になる者は気に入らない。自分の前に跪くのは、恐怖と屈辱の中にあっても誇りと希望を失わない気高い者でなければつまらない。そういう者を完全なる絶望に叩き落すのが面白いのだから。
 手の中で弄んでいたグラスから赤い液体を一口飲むと、男は立ち上がった。

「役に立たない上に、面白くもないなんて。本当につまんねぇデスね」
「も、申し訳……」
 小さく震える声の主に、バシャリとグラスの中身がぶち撒けられた。毛足の長い絨毯に飛び散った赤い液体が吸い込まれていく。空になったグラスを手から離せば、影の上に落ち、小さな音を立てただけで傍に転がった。それでも顔を上げない影の前に、手ぶらになった男はしゃがみ込んだ。短く整えられた髪を掴んで、無理矢理顔を上げさせる。そこには、恐怖に引きつった男――御者の顔があった。
「なんのためにあんたに声かけたと思ってるんです?あんただって、姫には幸せになってもらいたいって言ってたじゃないですか」
「そ、それはもう……はい」
「だったら――俺の邪魔をするヤツには、消えてもらうしかないんデスよねぇ」
 半ば独白のように呟くと、男は御者の髪から手を離した。
 あのライズという名の執事。伯爵の姫が心を寄せる相手。その存在が男――半蔵には気がかりだった。
 己の伴侶が使用人に恋愛感情を持とうがどうでもいい。どうせこちらも必要なのは西国王家に繋がる姫の血筋のみだ。子どもを何人か産めば、姫自身には用はない。だが、あの執事への執着ぶり、強固な態度を見れば、おとなしく東国へ嫁いで来るようには思えないのだ。

 不安材料は消しておくに限る――。
 ただの召使い風情が己の行く手を阻むなど、到底許せるものではない。いっそこの世から消えてもらえば、姫も諦めがつくだろう。御者のように、あの男にも家族がいればいくらでも取引と言う名の脅しが効いたのだろうが。
「別の手を考えなくてはいけませんね」
「と、言いますと……?」
 恐る恐る口を開く御者の問いには答えず視線だけを向けると、半蔵は中途半端に開いたままのその顎を片手で掴んだ。
「結果出さずに口ばっかり出すんじゃねぇデスよ。――次こそは、役に立ってくれるんでしょーね?」
「……」
 肉食獣のような残虐な笑みを向ければ、御者は無言のままコクコクと頷いた。見開かれた目は血走り、噴き出た汗は半蔵の指に垂れる。恐怖の色を濃厚に滲ませた御者に満足し、半蔵はぺろりと舌なめずりをする。
「結構。……なら、もう少し詳しく報告をききましょうか」
 御者を解放した半蔵は、再び椅子に腰を下ろした。
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