★17

 簡素な夕食を早めに済ませた姫は、帰って来た父と顔を合わせぬよう自室に引き篭もっていた。馬車が襲撃された話は、使用人から伝わっているだろう。それでも娘の心配をする様子もなく、父は訪れない。あんな喧嘩別れのように昼食会を飛び出したのだから、自業自得だとでも思っているのだろうか。伯爵にとっては娘の無事よりも東国のご機嫌取りの方が重要なのだろうと姫は思う。
 読むとはなしに捲っていた本にも飽きて、姫は窓の外を眺める。時折、思い出したかのようにぱらつく小雨が窓ガラスに短い雫を流すが、すっかり暮れた藍色の夜空には細い月がぼんやりと浮かんでいた。雨続きで雲の多かったこの頃は、月が見えることも稀で。いつの間にか細くなっていた月は、淡い光を頼りなげに灯していた。
「……」
 閉じた本を本棚に戻した姫はドレッサーに向かうと、一番上の引き出しを開けた。ほぼ空だと言ってもいいその空間には、お気に入りの古びた髪飾りがひとつだけ入っている。姫は丁寧な手つきでそれを取り出した。バラを模した髪飾りは色褪せ、細かい傷も見て取れる。姫は窓際に寄ると、拙い月明かりに翳してみた。
 夜の闇と月明かりだけの、色のない世界に浮かぶその宝物。華やかな宝石も、色とりどりのドレスも要らない世界。余分な色彩をそぎ落とさなければ見えてこないその世界は、きっと――本当に大切なものだけが残っているのだろう。
 ふいに聞こえたノックの音と、柔らかい呼び声に姫は振り向く。入室を許可すれば、長身の執事が姿を現した。
「姫。半蔵様がお見えになりました」
「……そう」
 挨拶をしろ、ということだろう。ライズの言外の意図に気付きながらも、東国の第一王子に会うつもりのない姫は素っ気なく言ってベッドに腰掛ける。
 嘆息した執事は、扉を閉めると主に近付いてもう一度催促した。
「姫」
「イヤよ。行かないわ。何の用なの?」
 嗜める口調で促すライズに、姫は不機嫌に返す。
「昼間の事件を聞いて、お見舞いにいらしたようです」
 体面を重んじる貴族や王族はこれだから面倒くさい。相手のことなど気にもしていないくせに、心配する素振りを見せる。そしてこちらも歓迎しない相手に愛想を振りまかねばいけないなど、愚かしい慣習だ。溜め息をつく姫だが、意地を張っていてもライズを困らせるだけだろう。手にしていた髪飾りで背中に流していた髪を顔の横にまとめると、渋々立ち上がった。
「何ともなかったんだから、別にいいのに」
「そういうわけにはいかないでしょう」
 ライズのやさしい手が、姫の肩に薄いガウンを羽織らせた。袖を通せば、裾の長いガウンは部屋着をほとんど隠してしまう。胸の前についた細いリボンをライズが器用な手つきで留めた。寛いだ格好は他国の王族を迎えるには失礼な装いかもしれないが、前触れもなしにやってくる方が悪いのだから文句は言わないでもらいたい。

 緩やかに弧を描く階段を降りていくと、ホールの様子が窺えた。到着したばかりなのだろう、東国の第一王子は雨外套も脱がないまま玄関先に立っていた。コートに張り付く僅かな雨の雫を小柄な従者に拭かせている。姫よりも一足早く応対している父の背中も視界に入り、姫は余計憂鬱な気分になる。
 思わず踊り場で足を止めた姫に気付いた半蔵が、にこやかに片手を上げて挨拶してきた。きつく口許を引き結んで、意を決した姫はホールへと降り立った。
「昼間は大変だったそうで。お見舞いが遅くなりまして申し訳ありません」
「いえ、わざわざありがとうございます」
姫に語りかける半蔵の言葉に、カケイが横から返答する。まるで『お前は何も喋るな、おとなしくしていろ』とでも言うような父の態度に、姫の顔は硬くなった。
 穏やかな笑みを浮かべた半蔵は姫の手をとり、顔を覗きこんで語りかける。
「姫、ご無事で何よりです。お怪我はありませんか?」
「平気よ。悪漢は全てライズが倒してくれたわ」
 取られた己の手を引き戻し、姫はちらりと後ろを振り返る。静かに控えている執事は何も言わないが、そこに彼がいるというだけで姫は心強く思う。
「しかし、雨に打たれたでしょう?せっかくのプレゼントが濡れてしまったそうで残念です」
「え、えぇ……」
 二人の会話に不躾に割り込むこともできず、カケイは沈黙を保ってはいるが、その不機嫌そうな気配は横にいる姫にも感じられた。
 父の様子に気をとられ、半蔵の言葉にどこか違和感を感じた姫だが、戸惑っているうちに当の半蔵が続ける。
「今度はもっと素敵なものを作らせますよ。靴と……そうですね、髪飾りも贈りましょう。そんな古びたものはいけません」
 嘆かわしいとでもいうように首を振った半蔵は、姫の髪飾りに片手を伸ばした。反射的にその手を打ち払う姫に、耐えかねたカケイが横からきつい声音で注意するが、聞き流す。キッと眦を吊り上げた姫は、半蔵を見据えて言った。
「これは私のお気に入りよ、触らないで!……それより、どうして知っているの?私が靴を履き替えたこと。あの時、あなたの靴を履いていたことを知っているのは、傍にいたライズと……襲撃犯だけのはず……」
 先程漠然と感じた違和感の正体はこれだった。自分で言葉にしながら姫も気付き、その黒い疑惑に語尾が消える。
 半蔵に与えられた赤い靴は教会に入る前に捨ててしまったから、あの兄妹も気付いていないだろう。そして裸足のまま屋敷に帰ったから、伯爵家の使用人たちも見ていない。
 誰も知らない事実を何故、半蔵は知っているのか――?誰から、聞いたのか?
 ライズではない。感情論ではなく、彼は帰ってからずっと屋敷にいたからだ。
 襲撃犯はライズが倒したはずだが、生き残りや見張りのような役目の者がいなかったとは言い切れない。と、なれば――。
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