★18

 姫の糾弾に顔色ひとつ変えず、半蔵は首を傾げた。
「おや?通報した御者がそう言ってたんですけど?見慣れない靴をお履きだったと」
 それはつまり、私の贈り物を履いて下さったと思ったのですが、と半蔵は続けた。
「御者……?」
 伯爵家への連絡係を務めた御者は、すぐに馬首を返してカケイの料理店へも走ったという。カケイと半蔵が姫との挙式について打ち合わせをする中、ずぶ濡れの御者が部屋に飛び込んできたため、カケイはその非礼に激怒した。王子に対して失礼だと叱責し、別室で話を聞こうとしたのだが、当の半蔵がそれを制した。
「緊急のようでしたから、私も同席したままお話を聞かせていただきました」
 それがどうか?と半蔵は首を傾げる。姫の疑惑に気付いているだろうに、王子は特に気分を害した様子もなくにこにこしている。どちらかといえば半蔵よりもカケイの方が不機嫌そうに苛立っているようだが、当の本人がいる前で『王子を疑っているのか』とはさすがに口にしない。
「あ、そう……なの」
 整然とした半蔵の説明に異論を挟む余地はなかったが、姫の胸にはもやもやとした疑惑が燻る。そう言われれば、あの場には御者もいた。しかし、あんな緊迫した状況で、蹲って震えていた人間が他人の靴など見るだろうか?走るためにたくし上げていたとは言え、ドレスでほとんど隠れている靴を?そしてそんな些細なことをわざわざ報告するだろうか?
「御者のことがご心配なのですね?彼はよほど怖い思いをしたのか、かなり興奮していましたねぇ……。姫の靴のこととか近くの教会のこととか、細かいことを支離滅裂に報告するものですから、肝心な事件の概要が見えなくて聞きだすのに苦労しました」
「その、後は?」
「報告を受けた後ですか?私はすぐにでも姫の元に駆けつけたかったのですけど、こちらが混乱していると却ってご迷惑ですからね。一旦王宮に戻らせていただきました」
 半蔵は現在、西国王家の王宮に投宿している。そもそも半蔵の今回の西国訪問目的は東西王族同士の会談、懇親と両国の経済協力や技術提携などについて話し合うためで、私的な旅行などではない。公務の合間に自身の縁談を非公式に進めているようなもので、あまり勝手には動けないのかもしれない。
 一方、カケイはすぐ屋敷に戻り、詳細な報告を受け使用人たちに必要な指示を出し、後始末に忙殺された。
「怖い出来事の後で怯えていらっしゃるかと思いましたが、お元気そうで安心しました。王族などやっていると覚えのない反感を買ったりもすることも多く、いちいち怖がっていたらやっていけないんデスよねぇ。その点、姫は肝が据わってらっしゃる。王族の妻として、申し分ないですよ」
「あなたの妻になどならないと、昼間にも申し上げたはずです!」
「姫!いいかげんにせんか!」
 頑なに主張を曲げない姫を、声を荒げたカケイが嗜めた。姫からすれば、ここまで拒絶されながら何故平気に事を進めるのか理解できず、平行線の不毛な会話に苛立ちが募る。
 分からず屋の父を姫は睨みあげるが、抗議の言葉を上げる前にすっとその手が取られ不意をつかれる。続いて感じたのは、手の甲に触れる冷たい感触。
「っ!?」
「お疲れのところに突然の訪問で、不興を買ってしまったようですね」
 姫の手の甲に口付けを落とした半蔵が、藁色の目を細めて笑った。
獲物を狩る爬虫類のような冷たい色に、ゾクリと背筋が粟立つ。不快な戦慄、嫌悪感――けれど、視線を逸らすことすら赦されず、姫はその目に射竦められたように動けなくなった。白い指先にもう一度軽い口付けを落とされた後、するりと手が離される。
「また出直します。――では、伯爵。夜分申し訳ありませんでした。失礼します」
 丁寧にカケイに辞去の礼を執った半蔵の目は、一瞬だけ姫の後ろに控える執事に注がれ、すぐに逸らされたが――その視線に気づいたのは、当の執事のみだった。
 扉へと向かう半蔵の背中と、しきりと謝罪の言葉を述べながら追いかける父の背中。ぼんやりとした視界にうごめく二人の背中が、姫にはひどく遠く感じられる。見えない糸で縛られたかのように、その場を動けなくなった。半蔵の触れた箇所からじわりと毒に侵されていくように、手が熱を孕んでいる気がする。声にならぬ戦慄きを上げながら、姫は震えるその手を堪らず押さえつけた。

 ――これは、警告だ。
 震える姫の肩を抱くこともできず、黒髪の執事は瞑目する。
 最後の一瞬、刃のように貫いた藁色の視線は、間違いなく半蔵の牽制だった。
 邪魔をするな、という警告であり、姫の未来は全て自分が握っているのだという告示。
 ライズ自身だけではなく、姫の生殺与奪まで握っているという宣戦布告。
 さすがは冷酷と噂の王族だ。こちらの動きの封じ方を知っている。
 このまま姫が半蔵を拒み続ければ、意のままに動かぬ者など王子はあっさりと見限るだろう。
 役に立たぬと判断された姫は、今日のように事故に見せかけて――?
 そうなる前に説得しろとでも言いたいのか。
 白手袋に包まれたライズの手が、強く握り込まれた。
 分かっている。自分がいる限り、姫が半蔵との縁談に首を縦に振らないこと。
 自分が彼女の幸せの足枷になっていることくらい……!
 姫の傍にいれば、また自身の命は狙われるだろう。
 自分が死ぬことは怖くないが、姫を巻き込んでしまうことは恐ろしい。
 いっそ姫の前から消えれば、今日のように怖い思いをさせなくて済むのだろうか。
 豪華な王宮で、華奢なヒール靴を履いて、半蔵に守られて――穏やかに過ごせる方がいいに決まっている。
 雨の中を裸足で歩いて血を流すことなど、させてはならない。
 そう、思うのに――。
 二人、ずぶ濡れで歩いたあの時間さえ、愛おしくて。
 姫の一番近くにいて、笑顔を向けられるのは己でありたいと望んでいる。
 誰にも渡せない、譲れない、と思う気持ちがあることを認めなくてはならない。
 姫から離れなければと思う気持ちと同じくらい、離れたくないと思う気持ちがあるのだ。
 どうしようもないこの心を刃で切り刻んででも押し殺さなければならない。執事として、主の幸せだけを考えると決めたはずだ。なのに――。
 荒れ狂う心情は決して表情には出さず、けれど黒髪の執事もまたその場を動けなくなっていた。

 
HOMEへ ノベルへ
次へ