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過去の「お薦め名曲」

こちらには過去の「名曲案内」を置いてあります。
J.S.バッハ/カンタータ第106番「神の時はいと良き時」BWV106 (7.03)
バッハのカンタータというと、躊躇してしまう方が多いかもしれませんね。テーマや用途が教会礼拝用なので、クリスチャン以外の方には一見とっつきにくそうですから。
でも、バッハ好きにはカンタータは宝箱。この扉を開けてしまうと、もう引き返せません。
今月はその中でも特に人気の高い、第106番の「神の時こそいと良き時」をご紹介します。
 
普通のカンタータは、教会のカレンダーに沿って、一年のうちでいつ演奏されるかが決まっているのですが、この曲は特別。お葬式用のカンタータです。
書かれたのはバッハがまだ22歳の頃。母方の叔父さんのお葬式のために書かれたのではないかといわれています。
歌詞の最初の部分だけ。
 
「神の時は最良の時である。
神のうちに私達は生き、動き、存在する。
神が望まれる限り。
神のうちに私達はしかるべき時に死ぬ。
神が望まれる時に。」
 
バッハは、早くに両親を亡くしました。10歳で父と母と死に別れた後、兄の家に引き取られたバッハは、音楽の勉強の傍ら、教会の聖歌隊に入ってお葬式などで歌ってお金をもらい、兄の家の家計を助けていました。
その頃のドイツは、人口の三分の一を失ったという悲惨な三十年戦争の傷跡がまだまだ残っていましたし、少年バッハの周りには、死が本当に身近に、すぐそばにずっとあったのです。この曲が、とても20歳そこそこの青年の書いたものとは思えないような深い内容で、死を真っ向から見据えたものになっているのは、そのせいかもしれません。
 
この曲のクライマックスは真ん中にある合唱なのですが、そこでは「古い掟によって、人は死ななくてはならない」と下3パートが深刻に歌う中、突然ソプラノが「さあ、イエスよ、来てください」と明るく歌い始めます。
古い掟によって人は死ななくてはならないけれど、肉体は滅んでも魂は天に迎えられる。そのためにイエスを呼ぶこのソプラノは、本当に天使の声のごとく響きます。
(ここはソプラノ、責任重大。誇らしいですけどね)
その後、アルトのアリア、バスのアリオーソに続いて、アルトがルター作のコラール「心安らかに私は行こう」を歌い、最後は神への賛美で明るく締めくくられます。
まるで、魂の昇る道を花で飾っているかのような、美しいコロラトゥーラが印象的です。
お葬式は、残された人々が心の整理をつけるためのものではないかと思いますが、このカンタータを聴いた人は、悲しみの中にも心の安らぎを見出し、亡くなった人の魂が天へ昇るのを喜んで見送ってあげられる気持ちになるでしょう。
そのための道標がしっかり示された曲です。
 
この曲は、以前バッハの命日コンサートで歌ったことがあるのですが、ここではちょっと変わった思い出を紹介。
ドイツ演奏旅行の時に、ナウムブルクという街で、バッハが鑑定したという美しいオルガンにお目にかかりました。街の中心部にある「聖ヴェンツェル教会」にある、「ヒルデブラント・オルガン」です。
このオルガンの製作者「ツァハリアス・ヒルデブラント」は、あの有名なオルガン製作者「ゴットフリート・ジルバーマン」の一番弟子。実力は師匠をしのぐほどで、ジルバーマンは彼の才能にちょっと嫉妬していたそう。バッハは、娘婿のアルトニコルをこの教会のオルガニストに就職させるために口を利いてあげて、このオルガンの鑑定をしたのだそうです。
私達が行った時にはちょうどオルガンの改修直後で、天使の髪を思わせる美しい装飾に息を飲みました。そこで教会オルガニストが演奏してくださったのが、この「106番」の冒頭のシンフォニアだったのです。
演奏を聴きながら、私の心はちょっと誘惑に駆られていました。
「この後、Gottes Zeit ist die allerbeste Zeit・・・って歌い出しちゃおうかしら・・・・」という。(この曲、ソプラノから始まるんです)
結局、気が引けてやめたんだけど。
後で代表の方から、「なんで歌い出してくれなかったの?歌ってたら皆付いてきて、オルガニストだって合わせてくれたのに!君なら、やってくれると思ってたのに・・・」と言われて大ショック。早く言ってくれよ〜!
と言うか、「君なら」ってどういう意味でしょう??(笑)
CDを買い忘れたことといい、このオルガンに関しては心残りがいっぱい。
「また聴きにおいで♪」ってことかしら。と、都合良く解釈しておこう。きっとまた聴きに行きます!
更新日時:
2003.07.28 Mon.
ウィリアム・バード「四声のミサ」 (6.03)
今月は、2月にご紹介した「ダウランド」と同時代の作曲家「ウィリアム・バード」(1543〜1623)のミサ曲です。
ダウランドはリュート奏者ですが、バードは礼拝堂のオルガニスト。礼拝用の音楽も書いていました。ダウランドと違って、エリザベス一世にも重用されていたようで、王室礼拝堂のオルガニストも勤めています。
でも実は、彼はカトリック教徒。イギリス国教会では「国教を信じない者」として微妙な立場でした。バードは終生カトリックの信仰を守ったため、一時財産剥奪などの憂き目に会っています。
「仕事は仕事」と割り切って書いたのでしょうか?彼はイギリス国教会の礼拝用の音楽(英語の歌詞によるもの)もたくさん書いています。でも、評価が高いのは、この曲を含む、ラテン語のミサ典礼文による三つのミサ曲です。
 
ミサ曲は、「キリエ・エレイソン(神よ、哀れみたまえ)」「グロリア(栄光あれ)」「クレド(信仰告白)」「サンクトゥス(聖なるかな)」「ベネディクトゥス(感謝)」「アニュス・ディ(神の子羊)」の6つの部分から成っていて、ラテン語で歌われます。バードは、五声、四声、三声(数字はパートの数)の三つのミサ曲を残していますが、ここで取り上げるのは「四声のミサ」。馴染みの深い声部数なので、一番聴きやすいかな?
全体的にメランコリックな感じなのは、同時代のダウランドと同じ。「サンクトゥス」の美しさは特筆すべきものです。最後の「アニュス・ディ」も、繰り返される「我らに平安を与えたまえ」のひたむきさがが心に染みます。難しいことはわからなくても、心の中にすっと入ってきて、隙間を水のように満たしてくれる、そんな雰囲気が全体にあります。
 
これらの三つのミサ曲は、いつ出版されたのかどうもはっきりしなくて、「隠れて行われたカトリックミサのための曲?」という説もあるそうです。細い糸にすがって一生懸命祈りをささげる姿が目に浮かぶような曲です。
カトリックに対して表面的には目立った弾圧がなくても、体制と違った信仰を守るのは大変だったはずです。いつ風向きが変わって迫害されるかわからない。大陸では宗教的問題から悲惨な争いまで起きているのですから。そんな中でひっそり行うミサ。不安と、覚悟。そんなものも伝わってきます。
 
この曲は、息子が生まれて三ヶ月めに教会でのア・カペラ演奏会で歌いました。曲を決める時、「これがいい」と提案したのですが、その後が大変。妊娠中に練習するはずが、切迫早産で入院してしまい、この曲の「グロリア〜ベネディクトゥス」あたりは、病院のベッドの上で点滴に繋がれたまま音取りをする羽目に。
こういうルネッサンス期の曲って、ひとつのパートだけで音取りしても、何が何だかわからないんですよね。他のパートと合わせないと、数えながら音を動かしていくだけ。もう、大変。しかも楽器は無いし!結局、CDプレーヤーを持ってきてもらい、ヘッドホンで曲を聴きながら楽譜を追って、頭に曲とソプラノパートを「歌わずに」叩き込みました。よくやったものだわ。
練習にほとんど出られなかったのだけど、一人っきりで考える時間だけはたっぷりあって、色々考えました。辛い時に神様に頼るのは簡単だけど、解決の糸口は自分にしかない時、その辛さとどう向き合うか、とか。
この曲を聴くと、その時の気持ちが甦ってきて、色々な事で悩んでいる人たちにエールを送りたくなります。私にとってはそんな曲でもあります。
 
この曲のCDの決定版は、イギリスの古楽アンサンブル「タリス・スコラーズ」でしょうか。
当時は女性が教会で歌うことは許されていませんでしたが、このグループはソプラノとアルトを女性が担当しています。普通、女声が入るとハーモニーの透明感が薄れると言われますが、完全なノン・ヴィヴラートで、その心配は全くなし。各パートが見事に溶け合って、美しいハーモニーが楽しめます。(ヴィヴラート無しって大変なんですよ・・・)
今年結成30年になるそうで、今月は日本公演に来ています。私も、今月末の静岡AOIでの演奏会に行ってこの曲を聴く予定です。
とっても楽しみ!もし会場で見かけたら、声かけてくださいね。VfBのキーホルダーが目印です♪
 
6月28日、演奏会に行ってきました。本当、素晴らしかったです。
夢心地で、2時間があっという間でした。
でも、こういう曲はやっぱり教会で聴きたいですね。
更新日時:
2003.06.29 Sun.
シューマン 歌曲集「詩人の恋」作品48 (5.03)
えー、なんと言うか・・・・。ちょっとこの曲を語るのは恥ずかしいかも。
別館の某所に、この歌詞(ハイネ作)の冒頭を載せてあるのですが、ここにもう一度書きましょうね。
 
  麗しの五月、花の蕾がみな開いたとき、
  僕の心に中にも愛の花が咲き出た。
 
  麗しの五月、鳥たちがみな歌ったとき、
  僕もあの人に告げた、焦がれる思いと願いを・・・。
 
どうしてこんな詩が「あの」別館にあるのかはさておき。
シューマンは音楽的才能もさることながら、多分に文学的な感性も併せ持った作曲家でした。
この「詩人の恋」は、その才能が最大限生かされた作品の最たるものです。詩の美しさが、シューマンの音楽によってますます際立ち、聴いていて切なくなるほど。
冒頭のこの曲も、前奏のピアノからすっかり「恋する心」の世界に引き込まれてしまいます。
 
さて、美しいお嬢さんに告白した詩人君。「私もあなたが好きよ」と言われ、有頂天に。花や鳥、太陽を詠っていた彼の詩は、彼女のことばかりを語ります。ケルン大聖堂の聖母像を見ても、恋人の顔に見えてしまうくらい。
でも、幸せは長くは続かない。彼はふとしたことから、彼女が他の男性に心を動かしたのを知ってしまいます。
でも、この詩人君は結構気丈なところがあり、「僕は君を恨んだりしないよ」と言ってみたり、自分の失恋を物語のように話してみたり。(このあたり、シューマンは詩人君の「強がり」を表すような、一見勇壮な、それでも少し足元の危ういような曲をつけています)
でも、やっぱり心が傷ついているのは隠せない。夏の朝、花たちが自分を哀れんでいるように感じたり、彼女の夢を見てしまって、朝起きると涙を流しているのに気づいたり・・・。
ちなみに、同じように青年の恋と失恋を扱った歌曲集「美しき水車小屋の娘」(ミュラー&シューベルト)の粉職人見習いの青年は、最後には川に飛び込んで死んでしまうのですが・・・。
「詩人の恋」の詩人君は気丈です。自分の心を表現する術を持っているからでしょうか。
最後には失恋の痛みを振り切り、「恋の思い出も失恋の痛みも大きな棺に入れて海へ沈めてしまおう」と詠います。
 
ハイネの「詩人の恋」は、ここまで。
・・・・でも、そんなに人間の心はきっぱり割り切ってしまえないもの。
シューマンは最後の曲の後奏に、失恋して切なかった時の音楽(12曲目)を再び登場させているのです。前に登場させた時よりも甘い雰囲気に少しだけ変えて。
思い出を海に沈めてしまっても、ふと振り向いてしまって、少しだけ瞳を伏せる詩人君の姿が浮かんできそうです。
辛い恋の思い出も、時が経てば美しい思い出に変わる日も来るかも。
そんな感じもする終局になっています。シューマンのシューマンたるところですね。
 
さて、この曲はテノールでもバリトンでも歌われますが、私の持っているのはテノール歌手「エルンスト・ヘフリガー」氏の60歳を過ぎた時の録音です。
へフリガーはスイスの出身。バッハ演奏では「最高のエヴァンゲリスト(福音史家)歌い」といわれる人で、少し硬い感じの美しい高貴な雰囲気の声のテノールです。
いわゆる「正統派王子様声」で、彼の「タミーノ」(魔笛)は最高です。
このCDでは声の美しさは相変わらず、それに柔らかさの加わったとても魅力的な演奏を聴かせてくれています。ホントに60過ぎか???という感じ。
実は結構ひょうきんで面白い人で、(バッハ演奏家は変な人多いですが・・・)昔来日した時に、タ○リのバラエティ音楽番組に出て「カラヤンの真似!」とか披露してました。(一般人にはわからん高尚ギャグね・・・)
 
で、どうしてこの曲のレビューが恥ずかしいのか、こっそり書いておこう。
実は、私達の結婚式に、新郎(つまりダンナ)が歌った曲なんです。冒頭の曲・・・。
更新日時:
2003.05.29 Thu.
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Last updated: 2003/7/28