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礼拝説教(10月 25日)


創世記2章4b〜9節、創世記2章15〜25節
                     『生きるものとなった人』
 本日は創世記の中から2つのテキストが与えられました。
天地創造の神は天と地を造られた後、人間を創造されました。
一般的には「天と地」と言いますが、本日の聖書2章4節後段には「地と天」となっています。また、人間の創造も、1章27節、2章7節、2章21,22節にありますが、学者の間ではいろいろな資料から「モーセ5書」が編纂されたからこのようになった、と説明されていますが、神のことばはときとして、わたしたちがすんなりと理解できないところもある、ということをわかっておきましょう。
 2章7節、「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」とあります。ここには神様の作業が2つあります。ひとつは土の塵で人を造る。もうひとつは、その鼻に命の息を吹き込まれる。人間のからだは実にたくさんの物質からできています。人間は水分も必要ですが、塩分もからだに欠かせません。ここに○○社の塩の成分表があります。それにはナトリュウム、マグネシュウム、カルシュウム、カリュム、ヨウ素、鉄、銅、マンガン、クロム、亜鉛、が表示されています。含まれている量はごくわずかかもしれませんが、人体にこれらの物質が(ごく微量であっても)必要なのです。塩分が人に必要であることをとっても、人間が土の塵で造られたという聖書の記述は正しいことがわかります。
「その鼻に命の息を吹き入れる」とは、車のスターターのようなもので、エンジンがかかり、動き出します。心臓が血液を全身に運び、手や足や目や口がそれそれのはたらきをすると同時に、息とは霊と同じものですが、人間に備えられている霊が生きたものとなりました。パウロがテサロ二ケの人々に「あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、」というように、神が人間を創造されたときに「霊」も「魂」も「肉体」も生きたものになったのでした。
 18節に、主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」とありますが、人間は本来孤独には耐えられない存在です。人格をもっただれかと触れあっていなければ落ちつきません。聖書の解説に人間は「交わりの中で生きる存在=社会的存在」とあります。アダムは動物たちといても「霊の交わり」すなわち人格的なふれあいがありませんでしたから、空虚な日々を感じていたのかもしれません。愛である神は、アダムのあばら骨をとって、この骨で女を創造されます。こうして人格=霊の交わりができる男性と女性ができました。アダムは言います「ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう」と。
24 節、「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」とあります。「男は父母を離れて女と結ばれ」とは結婚へのメッセージです。18節の「彼に合う助ける者」を新改訳聖書は「彼にふさわしい助け手」とあります。信仰をもって、神様が与えてくださる方を祈りつつ待っていれば、「彼(あなたに)にふさわしい助け手」を用意してくださると思います。なぜなら、神様は愛なるお方だから、ひとり一人の人格をこよなく尊重し、もっともふさわしい相手を選んでくださるお方なのです。
16 、17節はこれからの人類のあゆみに大きくかかわってくる箇所です。「主なる神は人に命じて言われた。『園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。』」と。「善悪の知識の木」とはどういうことでしょうか。物事の善悪を決める方は神様である、というのです。人間が善悪を決めると、自分に有利になる思いがはたらき、いつも正しくことをはこばない、というのです。あなたはいつも私情をはさまず行動されていますでしょうか。エジプトの宰相になったあのヨセフも私情を入れた場面が聖書にありますね。
「料理がヨセフの前からみんなのところへ配られたが、ベニヤミンの分はほかのだれの分より五倍も多かった。」(創世記43:34)「 ヨセフは更に、全員にそれぞれ晴れ着を与えたが、特にベニヤミンには銀三百枚と晴れ着五枚を与えた」(創世記45:22)。ダビデもまた、部下の奥さんに目がくらみました(サムエル記11:2以下)。人間は生涯にわたり、罪(神様の御こころに背くこと)を犯さない人はありません。創世記3章以下で人は神様の掟「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない」ことをしてしまいました。ものの善悪を自分でするようになりましたから、肉体と魂は生きていましたが、人間にとって神様と深く交わる中枢部分『霊」が死んでしまいました。
しかし、愛の神様はながいながい人類の歴史をみて、2000年前にわたしたちの主、御子イエス・キリスト様をこの地に送り、十字架をとおして、罪のために死んでいた「霊」を生きるものとしてくださいました。
神の御子の十字架のあがないを信じるものにとって、なんと感謝なことでしょうか。
お祈りします。